6/30 東武東上線と丸木美術館と菅実花個展のある一日

 まず、東武グループのみなさまに土下座したい。

 西武ライオンズセゾングループから西武のことはもちろん知っていたものの、まさか東武なる企業体が存在するとは思わなかった。

 東武さまが存在するおかげで、わたしは池袋から東武東上線に乗り、森林公園駅まで到着することができた。東武さまが存在しなかったら、わたしは3日ほど寝袋を背負って行脚を重ねる必要があっただろう。行程がものの1時間ほどに短縮できたのも東武さまのおかげである。ここに感謝と陳謝を重ねて、精神的に土下座する。

 さて僕の記憶にある限り、埼玉県初体験である。

 着いてみるとなにもない。立正大学のキャンパスに向かうバスがやってくる。バスの向こう側に見える看板や店名表記のペンキは、白塗りされたやんちゃなタギングのように褪色し、風化し、ゆっくり衰退している。ベンチに座って煙草を吸う。そして先ほどから暇なのだろう、世間話に余念のないタクシーの運転手たちの話を遮り、どっかりと乗車する。

 「原爆の図丸木美術館まで」と行き先を告げた。それで会話が終わるわけがない。田舎のタクシー運転手は饒舌と相場が決まっている。

 どうやら僕が降りたのは目的地から見て、駅の反対側だったらしい。駅の南側へと車を滑らせながら、埼玉にはなにもない、敢えて言うなら東京に近いことくらい、といった「ダサイタマ」自慢が続く。100ほどの会社が両側に展開する工業団地を抜けると、一転して道は狭まる。とてもひとりではたどり着けそうにない、けものみちみたいな小道を2本抜けていく。途中には「丸木美術館」への道順を示す看板がひっそり掲げられている。

 運転手のおいちゃんによれば、丸木美術館は地元の子どもたちには平和学習の場として知られているらしい。僕は「へえ」としか言わない。例によってなにも事前に知らないままここに来ている。法王がいること以外具体的になにも知らないままバチカンに行ったこともあるくらいだから、このぐらいのことはなんでもない。ただ原爆に関する作品があるんだろうことぐらいは僕にでも想像がつく。

 ほどなく着く。「入館料ただにしてもらいなよ、ははは」というおいちゃんの笑いに苦笑いをかぶせて下車すると、そこにはほっそりとした川とあたりを覆う草むらのほとりを眼下に臨む、年代もののなんとも冴えない建物があった。貝殻のようなものが壁面には埋め込んである、実に冴えない建物で、美術館という看板がなければ素通りしてしまいそうだ。ベンチや庵のようなものがあたりには散っている。ちょっとした休憩所といった趣きだが、どこに向かう途中の休憩所なのかがわからない。ギリギリ風情がよいと言っておこう、という感じだ。

 受付で喫煙所のありかを教えてもらい、一服×2を終えると、入場料を払い、荷物を預けた。貴重品ないですか、と聞かれたけども、結局、財布が入っててもちゃんと見ておくから大丈夫とのことで、なんで聞かれたのかよくわからないが、命以外はすべて預けても大丈夫なようだ。二階から常設展示が始まり、そこから一階に降りていく、というのが順路らしい。

 階段を登って最初に入った部屋には、天衣無縫な、天真爛漫な絵が並ぶ。丸木スマという方が70歳を過ぎてから書き始めた絵らしい(ようやく僕は、ここが「丸木」という方が書いた絵を展示する個人美術館であることに気づいた)。文字の書けないスマさんが見つけた表現が絵画だった。このあたりの景色を一生懸命に描く。目に見えるものの写生を目指したのに、リアルから遠ざかっていく。その目と手のあいだにある距たりが絵画の遊び場であろう。「手」が高くなればなるほど、遊ぶことの難しさを思い知ることになるだろうし、「目」に映るものが筆舌に尽くしがたいものであればあるほど、「手」の未熟さと葛藤することになる。その距たりを喜びとして遊びつくして死んでいった、幸福な人なのだろうと思った(わたしはセンスゼロなので、この絵のおもしろさは正直よくわからない)。

 果たして、2階にあるもうひとつの部屋では、手と目の距たりを最大限苦しんだ好例が壁面いっぱいに展開していた。それぞれ油彩画と水彩画を専門とする丸木位里・俊夫妻が、原爆投下直後の広島市内を実地調査し、その経験を屏風四曲一双に表現したものだという。部屋は2分割されている。だからここには、四方から屏風に囲まれる場がふたつある。展示空間はそう、オランジュリー美術館の睡蓮の間のようだと思った。ただし、描かれているものはそんな牧歌的なものではなく、字義通りの地獄絵図である。焼けただれた皮膚、潰れた顔、ねじ曲がった四肢、あてどなくさまよう群れ、炎に包まれた肉塊、肉塊の山、群れるカラス、カラスと見分けのつかない黒い死体、死体と見分けのつかない生者。ひとつひとつの屏風にタイトルがつけられている。しかしこれらはひとつの作品である。どれもはっきりした描線ではないし、構図のなかにさらに構図が重なるという複雑怪奇な様相を呈している。ひとりぼっちの者はいない。だれもがやけどした皮膚や肉についた蛆やこびりついた灰でつながっている。しかもどれひとつ止まっていない。どれもこれもが震え、おののき、死体の山ですら今にも崩れたり、新たな死体の投入によってかたちを変えていきそうに感じる。縦1.8メートル×横7.2メートルのスケールでしか表現できない、しかしそのスケールでも表象することのできない地獄絵図。その動的な死体置き場のなかに僕のための居場所はない。手と目の距たりは、丸木夫妻をして32年間、計15の図を書かしめた、呪いとでもいうべきものであったように思われる。限りなく濃密で薄い距たり。一切の隙間のなく埋め尽くされた距たり。僕はこの分割された部屋で、2度圧迫された。

 1階に降りると、2部屋にわたって《原爆の図》が続く。ただしここからは「日本人の」広島を超える。ビキニ環礁被爆した第5福竜丸、原水爆禁止運動の署名、米兵捕虜の被曝、カラスについばまれる在日朝鮮人の骸。無差別大量死のなかにある差別、そして核の拡散、敵/味方を超えた地上の惨状が生きているものの顔と死んだカオナシたちによって埋め尽くされる。特に目に留まった「とうろう流し」は、走馬灯のように流れていくさまざまな顔や出来事が十重二十重に重畳し、出来事の全体像を表象することを放棄しつつ、その断片を執拗に表現している。どれもこれもが割り切れず、消化できない、丸く収まることのない、矩形の断片の蝟集と運動。散り散りになった断片を塊に捏ねてみたり、別の断片と整合させてみたり。2階の圧迫感から少し解き放たれて、僕はひとつの断片として、この美術館のなかに居場所を得たような気がした。

 その次に待っていたのが、菅実花「The Ghost in the Doll」展だった。http://theghostinthedoll.strikingly.com/

 まず、ガラス製の湿板写真が3点並んでいる。手のひらサイズ。映っているのはどれも赤ん坊。小さな、ポケットに入れて持って歩けそうな赤ん坊。それぞれかわいいベビー服を着せられて、おもちゃを手にし、育ちのよさそうな調度品に囲まれている。

 その左手には、1メートル四方ぐらいのプロジェクション。白いおべべを着た赤ん坊がスヤスヤ眠っている。これは静止画なのだろうか、動画なのだろうか。答えは僕のなかのゴーストに訊いてみるしかない。

 それからホワイトキューブに入る。

 先ほどと同じような赤ん坊を被写体とした湿板写真が11点並ぶ。ただし今度の図像は僕の体よりずっと大きく引き伸ばされていて、僕の目線よりも上方に掲げられている。巨大化した赤ん坊に見下ろされる感じだ。ホワイトキューブのなかだと、白黒の写真がよく映える。そして、これまで見てきた《原爆の図》の圧倒的な物量と密度、塊の強度に圧倒されてきた僕には、とてもスカスカな感じがした。空白が多い。この作品どうしのあいだの余白、さらにはまったく作品が展示されていない白壁まで含めれば、空間の使い方はとても贅沢で、余裕を感じる。

 図像のひとつをのぞき込むと、湿板写真特有の流れや淀み、光沢のムラ、ノイズ、焦点の狭さがよくわかる。と同時に、被写体の不自然な目や、腕と足のゆがみが目につくようになる。被写体は現実の赤ん坊ではなく、精巧につくられた人形だ。それもただの人形ではない。リボーン・ドール。つまり、子どもができなかったり、子どもを亡くしてしまった夫婦が子どもの身代わりとする人形だ。19世紀当時、しばしば亡くなった子どもの面影を残すために、着飾った死体を被写体とした写真が撮影されていた(死後肖像画も流行していたらしい http://www.amepuru.com/entry/2016/10/23/140257)。菅実花の作品は、この湿板を利用した死後写真の伝統の再現だとひとまず言えるだろう。しかし被写体は死体ではない。被写体は人形である。そして写真は手のひらサイズではもはやない。現代の技術を駆使した、見る側に仰ぎ見ることを要求する、巨大に引き延ばされたイメージである(画家として出発し、ラブドールシリーズでもデジタル写真に画家としての操作を加えている菅実花のことだから、ただ技術的に引き延ばしただけなのかについては疑問が残る)。

 調べてみるとどうやらリボーン・ドールの持ち主は、人形を実際の子どもと同様に大切に扱うらしい。持ち主にとってみれば、そこには魂=ゴーストが宿っているのかもしれない。魂が宿っているとすれば、そこにはある程度の自律性を認めなければならない。ドールは製品として購入される以上、モノである。しかしそのモノは、どのように扱われるか、どのような思いを傾ける対象となるかによって、ただのモノではなくなる。僕はこの展示でその思いの在りかをドールの持ち主とは別様に体験した。入口付近にあった手のひらサイズの湿板写真は誰もが所有できるサイズだった。しかしホワイトキューブに展示されている写真のスケールは所有を許さない。むしろ、かわいい赤ちゃんであることをやめた、全然かわいくない、怪物的な威容を備えた巨大な図像は、こちらに畏怖の念を抱かせ、精密な注意を要求する。スケールの変更は、僕の心を動かす。するとなにが起こるか。動かないはずのモノが動くかもしれないという念に囚われるのだ(僕がヘンなわけではないはずだ。事実、ホワイトキューブから出てきた別の鑑賞者たちは、入り口付近にあるプロジェクションを見て「動いた?」と語りあっていた)。スケールの拡大に加え、ホワイトキューブ内のたっぷりした余白やピンボケ、液の流れた跡、ノイズも、赤ん坊が動く余地を発動(activate)させる。

 動く。

 丸木夫妻の《原爆の図》はそのままアクティヴィズムだった。原爆の惨状を表現した作品と共に、彼らは全国を巡回した。《原爆の図》はそれ自体が平和運動であり、反核運動だった。そして多くの人の心を動かし、実際のアクションに結びつけた。おそらくは菅実花とその作品群もそれらのアクションの一部としてある。《原爆の図》と丸木美術館という「制約」に応じて制作をするにあたり(リボーン・ドールと《原爆の図》に表現された大量死との関係は明白である)、未だ発動していない菅実花のなにかが稼働しはじめたのかもしれない。そして作品はアクションの続きとして生まれ、その作品が観客のなにかを発動させる、というアクションの連続が起こる(もちろん、菅実花という作家のアクションの連続性もある Mika KAN | 菅 実花 - mikakan.com)。丸木夫妻が信じたようなイデオロギーが死んでしまった時代に、なおもアクティヴィズムは可能か。それはわからない。しかし少なくともイデオロギーそれ自体には紐づけられない、剥き出しになった発動(activation)の倫理のようなものを、菅実花の作品は夫妻から負債のように引き継ぎ、体現しているように思われる。感動(moved)? そういうなまやさしいものではない。動く。心が動き、カラダが動く。動くはずがないものが動く? 動くはずがないものが動く。これこそまさに丸木夫妻が《原爆の図》の実践に賭けたものだったのではないか。

 展示はまだ終わりではなかった。菅実花の個展を抜けると、《原爆の図》の続きがある。それはもはや原爆とは関係がない。アウシュビッツ水俣沖縄戦。《原爆の図》を携えた展示の旅先で丸木夫妻が出会った人やモノに触発されてつくられた屏風3点である。ホームページではこの3点を《共同制作》と呼んでいるhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/kyosei.htm。丸木夫妻にとって広島の原爆投下は一生を左右する出来事だったのかもしれない。しかしその惨状に突き動かされた彼らが向かった先には、数々の出会いによって原爆から逸らされた、しかしそれと似ている風景があった。僕はこの部屋で呆然と座り込み、少しの涙を流した。人災は常に悲惨で、救いがない。けれども、それらをひとつの場にとどまらせることなく、別の悲惨と勇気をもって結んでいくと、不思議と悲惨なだけではなくなる。僕は平和学習や反核運動にまったく関心はない。今やそれらはまったくの無力だ。しかしそういうイデオロギーの産物には今でも強い魅力があるし、学ぶべきなにかの在りかをそこはかとなく示してくれている。平和が大事とかそういうことではない。悲惨を悲惨なだけでは終わらせない「歌」を、僕らは歌うべきだ、ということだ。歌は、ひとりで歌っているように見えても、実はひとりでは歌えない。歌は他の誰かが歌ってくれなければ歌として残らない。菅実花は懐かしい歌にアレンジを加えて歌い継いでいるのかもしれない。少なくとも歌い継ごうとしている、と僕は思った。その歌がどんな歌なのかは、まだわからない。

 出口に向かう途中、小高文庫という名前のついた休憩室に寄った。なんでも丸木夫妻のアトリエ兼書斎だったらしい。この室の窓を背にして、ディスプレイが一台鎮座していて、そこでは菅実花と協働制作者による湿板写真の制作過程が早回しで展示されていた。僕は畳の上に寝っ転がってひとりあてどなく考えた。

 個展というものは存在するのか。そして丸木美術館のような個人美術館とはいったいなんなのか。これらは所詮は、この僕が最近考えている公共性をめぐる問いなのだけども。

 展示できない作品のある公共の美術館の存在意義とはなんだろうか。そして美術館とは作品を所有する場所なのだろうか。所有することなど可能なのだろうか。所有できたとして、作品と建物のあいだに図と地のようなあからさまな関係が成立しうるのだろうか。どこか特定の場所で展示される作品であれば、どの作品も個として自立する/自律することはありえないのではないか。それはつまり、作家が作品を所有することができないのと同じような意味において、美術館も作品を所有できないのではないのか。誰も所有できない展示された作品だけが、公共性を帯びるのではないだろうか。制作もまた展示の一部なのではないだろうか。終わりのない疑問につきまとわれる。

 疑問に暴力をふるってえいっと叫べば、以上はこういう感じにまとまるのかもしれない。美術館も作家個人も作品も、美術業界にはおよそ閉じることのない宛先不明のコレクティヴな運動の一部であり、制作行為とは作家名のもとに展示される作品にはとどまらない、有象無象のコレクティヴとその運動をつくりだすことでもあるのではないのか。菅実花の作品には、湿板写真家やリボーン・ドールの制作者などの名前がクレジットされている。それだけではない。菅の作品群は、丸木美術館という建物、そしてそこに展示されている作品群、ひいてはもうこの世に存在しない丸木夫妻との協働制作でもある。どこまでコレクティヴは及ぶのか、それは誰にもコントロールできない。だから僕は菅実花展に出かけたのだろうし、そのおかげで丸木夫妻の作品にも出会って、今これを書いているのではないのか。よくわからない。けれどもよくわからなくていい。僕のなにかが稼働していることだけは確かなのだから。

 岡村幸宜『《原爆の図》全国巡回』を購入して、預けていた荷物を回収し、外に出る。僕はタクシーを呼ばずに駅まで歩いた。スマホを持たない僕は、途中で中学生ぐらいの女の子とおばあちゃんに道を聞いた。鉄くずの山や無機質な工業団地の風景、やたら駐車場の大きな蕎麦屋、閑散とした道程。これらは僕の経験の一部で、丸木美術館の経験とも切り離すことができない。アートを経験するということはなんら特別なことではない。

 東武東上線に乗って池袋に戻ってきた(東武のみなさま、存在してくれていてありがとう)。喫茶店がどこも禁煙なので、たばこの吸える全品345円均一の居酒屋に陣取った。ビールがうまい。芋焼酎がうまい(九州の方がうまいがね)。おまけにアテもよい。待ち人である編集者が来た頃にはよい感じになっていた。彼もまた別件で飲んでいたらしい。わりとテキトーな話をしたような気がする。忘れた。けれどもいつか思い出すかもしれない。

 前回東京に出かけた際には、人生で初めて飛行機に乗り遅れた。国際線ターミナルでトランジット待ちの外国人旅行客と雑魚寝をし、翌朝の飛行機で帰った。こういうことは決して忘れない。今回はしっかり間に合った。けれども間に合わなかったときにしたかもしれない経験のほうが、実は尊いのかもしれない。

 帰ったどー。

4/13 亀川豊未個展オープニングレセプション当日の私的記録

 洗濯機が壊れた。

 しばらく前から洗濯するたびに爆音を発していた洗濯機。生活音からはかけ離れた、メカニカルな断末魔といった趣きの轟音だったから、看取る覚悟はできていたのだけど、いざ逝去されてみるとやっぱり困る。洗濯できないから。

 そこでヤマダ電機に洗濯機を買いに行ったのが一週間前。4/13は洗濯機が我が家に到着する前日だった。そこで、大掃除である。山積みの段ボールを畳んで紐で括り、古新聞や古雑誌と一緒に共同のゴミ庫へと運ぶ。キッチン周りをピカピカに洗浄する。風呂場やトイレ、洗濯機まわりをきれいに整える。普段がぐうたらだから、家電でも買わないと本気で掃除しない。だから洗濯機を買うということは、人間らしい生活をする雰囲気を出すための儀式、あるいは配達員という世間を代表する社会人に一応当方も人間であるということを知らしめるための儀式、すなわち掃除をするということを意味する。

 そして掃除をした。掃除は理念上常に未完の活動なので終了を軽々しく宣言することはできないが、一応した。そこは認めてほしい。

 そしてバスに乗って、小倉駅前で下車し、いつものコンビニでチーカマ2パックと水、笹かま、タンの燻製を買って、Gallery Soapに続く真っ暗な階段を上る。まだ夕方の6時過ぎだというのに真っ暗なのは、照明のせいではないし誰のせいでもない。僕がサングラスをかけているせいだ。

 珍しくSoapの扉が開けっ放しになっていた。入ると、DJブースがあって、知らないDJがなにやら東南アジアっぽい音楽を流している。20人ぐらいの人の顔が見える。なにやら食べながらなにやら飲んでいる。右のほうにはなにやら彫刻作品がなにやらの床になにやら数体鎮座し、三方のなにやらの壁には抽象画と巨大な掛け軸、なにやら小さなオブジェが十数体かかっている。おそらくはこれが亀川さんの展示作品なのだろう。そこまで確認したところで、カウンターに赴き、なにやら参加費1,000円を払い、生ビールをなにやら手にした。いい加減なにやらが過ぎるのでここでサングラスを外し、ふつうの眼鏡をかける。けれどこれはふつうの眼鏡ではない。なにしろ哀川翔デザインのSAMURAI SHOモデルだ。特に哀川翔が好きなわけでもないし、それはどうでもいい。明るくなった。そこが大事だ。

 ビールを片手に、亀川さんに挨拶する。以前、カンボジア現代アート展に出品した際の経験をスライド付きで報告する会がここで開かれたことがある。そのときから折に触れて、何度かお話は伺ってきた。

 亀川さんは30歳。楠の丸太からプリミティヴな物体を彫り出す肉体労働派の彫刻家だ。素材となる楠はどこだったか山奥に住んでいる「木こり」から直接仕入れる。製材として利用される木からははじかれた、比較的な安価な楠を、地元の木彫作家がグループで買い取る。アーティストは孤独ではない。「木こり」とつながり、他の作家と協働で制作のための基盤をつくる。この亀川さんの個展で、学生時代の同級生がDJを務め、知り合いの画材屋の人がいつも全然使われていない厨房で軽食と言うには贅沢なつまみを作ってくれている。Gallery Soapのスタッフによる展示空間の提供と演出もつけ加えることができるだろう。僕にはその程度の広がりしか見えないけれども、おそらく亀川さんはもっと広大な絡み合いのなかで制作しているに違いない。

 作品どうしにもどこかつながりがある。

 まず、木彫はコンクリートの床から生えている。床を突き破って生えているといってもいい。あるいは埋まっている。どっちだろう。筍のシーズンでもあるしちょうどいいのは確かだ。ただし生えている(埋まっている)のは筍ではなくて、顔のあるなにか得体のしれない生きものだ。フォルムは人間のかたちをしているように見えるけれども、人間からはずれている。三体の木彫のうち、一体はシャム双生児のようにふたつの顔面が接合している。体育座りをしているまた別の一体は、よくよく見ると右手がつくった鋭角のなかに膝を立てているのに左手が見当たらない。足首から下は床面のなかに沈んで見えない。中央に鎮座する一体は、四つのこぶのようなものの囲いのなかから頭が生えている。こぶには草花のようなものが挿してある。人間ではなさそうだ。かといってまったく人間に似ていないというわけでもない。三体の木彫だけを抜き出せば、エイリアンの化石かなにかを発掘している途中のようでもある。

 近くに寄ってみれば、当たり前だけど表面には生々しい彫琢のあとが刻まれている。牡蠣の殻を砕いてつくった白い顔料の紋様が木彫の身体にまとわりついている。草花からとられた青い染料がところどころにアクセントをつけている。楠の香りがほんのりと漂う。離れて鑑賞するときとは対照的に、まだ生きている感じがする。動き出す気配はない。床面にからだを没していてまったく動きはとれない。それでいて、死んでいるわけでもなさそうな気がしてくる。

 正面の壁面に掛けられた掛け軸はおよそ2メートル近くはあるだろうか。天井と平行に上を向いた目鼻のついた顔面の下には、輪郭だけが丸く伸びて、人間のかたちをしている。すべて墨で描かれている。幽霊のようでもあるし、卵の殻を割ったあとに人面疽状の黄身が白身を携え落下していく瞬間のようにも見える。フォルムの下には、濃淡さまざまな紋様、あるいは点描が散っている。左端には「豊未」の揮毫。

 右側の壁面には、小さな素焼きが10数点掛けられている。彫刻の際に余った楠の木片に簡単な成形を施したのち、炭化させたものなのだろうか。聞きそびれたので、どんな工程でつくるのか僕にはよくわからない。ただどれもこれも「キモかわいい」かたちをしている。蝋細工の手のひらサイズのフナッシーにライターを近づけてちょっと溶かしたらこんなかたちになるのかもしれない。こういうかたちのピアスが欲しいな、と思った。

 左側の壁面には抽象画が一点。木彫作家として亀川さんのことは認識していたので、やや戸惑う。僕には抽象画の歴史やコンセプチュアル・アートを語る語彙が欠けているのでなんとも言い難いのだけど、木彫のためのデッサンからは切り離されたまったくの非具体的ななにか、まだ存在しない未分化なかたちのようなものを亀川さんなりに表現したものなのかもしれない。ただ言えるのは、このアクリル画の支持体の上には和紙が張られているということ。この一点において、掛け軸との親和性は残っているし、書と抽象絵画のあわいを衝くような予兆が萌しているようにも感じる。

 各作品をつなぐのは木という素材である。紙は木からつくられるし、木彫は当たり前に木を彫ってつくるものだし、焼きものも楠を焼いたものだ。作家本人の志向はどうなのか知らないけれども、僕には、楠、ひいては樹木の素材としての可能性を追求する作品群であるように感じられた。そう考えてみると、木彫や掛け軸に表された人間であるようなでも明らかに人間ではない何かは、亀川さんが個人的に交霊している木の精霊であるようにも思えてくる。ここにはなにか、近代と未開の相克を無視して生じる、未知のプリミティヴなものの到来、未だ存在していないコスモロジーの端緒のようなものがあるような気もする。それはモデルネ(近代)における新しさの追求とそれがすでに新しくはないことを発見してしまう幻滅とは無縁だ。美術界のトレンドとも無縁だ。既存の文脈とも無縁だ。これらは無縁仏ならぬ、無縁の精霊だ。この無縁の精霊を介して、たまさか存在してしまったものたちは気まぐれに結び付けられて別様のコレクティヴをつくっていくのかもしれない。そんな亀川コスモロジーの萌芽。真相は知らないし、知りたくもないし、真相を言葉にする能力は僕にはない。それぞれ好きなことを考えたらいい。好きなことを考えることができるのがアートのいいところだと思う。

 というような僕の個人的なできの悪い彷徨は放っておいてもらうとして、とにかく木彫は存在感と厚み、重量が桁違いだし、平面作品と違って、360度パノラマで体験することができる。常々イメージと実物の作品にはそれぞれ異なる質があると思っているけれども、彫刻やインスタレーションはその差が途轍もなく大きい。

 以上の記述は、僕の酔っ払ったいい加減な記憶に依っているので制作に関する情報に間違いもあるかもしれない。当たり前だけど、それは僕のせいだ。ただ責めないでほしい。

 その代わり体験したいという人は、入場は無料だし、気のいいおじさんたちが歓待してくれるはずなので(保証はしない)、ふらりと出かけてみるといい。土日は亀川さん本人が在廊している。展示を体験できる上に、正確な情報を手にするチャンスだ。

www.google.com

開廊日時:
金曜日 午後6時 - 午後10時
土曜日 午後2時 - 午後8時
日曜日 午後2時 - 午後8時

g-soap.jp

 

 さて、予想通りまとまりのない記述になったけれども、まったく反省はしていない。その夜、僕はひたすら飲んだ。飲んでからラーメンを食べて電車が動き出すまで某映像作家のお宅にお邪魔し、朝方帰宅した。先週末もそうだった。だからまったく反省していない。

 昼過ぎにたたき起こされた僕が目にしたのは、新しい洗濯機だった。静かに洗濯して、静かに乾燥してくれる。文明万歳。

 

ハリネズミの温まり方

堀尾寛太「目的の設計」

pryo.jp

 

2018/10/20(土)17:00-18:30 ライヴ@川棚の杜・コルトーホール

施設案内│下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜

[出演]

heirakuG(平樂寺昌史)

G-RECORD Inc.

堀尾寛太

HORIO Kanta

 

 下関駅から山陰線に乗り換えると徐々に車内は冷えていく。日本海の匂いがした。

 川棚温泉駅に降り立つ。肌寒い。秋は終わろうとしている。

 川棚の杜を目指してまっすぐ歩く。だんだん体が温まってくる。

 分岐路に突きあたる。スマホは持っていない。手書きの地図だと右折して40号線を真っすぐ行くことになる。けれども目の前には川棚温泉と大書した看板が見える。一抹の不安を覚えつつ、地図に従う。

 真っすぐ進む。車が行きかう。少し上り坂。温かさを通り越して、体は放熱を始める。汗が滴り落ちる。車道の雰囲気と地図に書かれた位置関係から、いよいよ川棚温泉から遠ざかっていく気配が濃厚になる。農作業を終えて帰り支度をしていた老夫婦に道を訊く。やはり道を間違えた。来た道を引き返し、温泉街道とかなんとか書かれた案内板を見て右折して右に森を見ながら進んでいくといかにも温泉街という風情の建物に出会うようになる。念には念を入れてパン屋の主人に道を訊くと、「あの変な建物だよ」と教えてもらう。見間違えようのない変な建物。

 もうライヴは始まっている時間だろう。いかんせん時計も持たない主義なのでどれぐらいの遅刻かさえわからない。わき目もふらず件の変な建物のなかを直進し、予約していたチケットを購入、受付の方に案内されて、同じく遅刻した同志たちとコルトーホールのなかに素早く入る。子どもたちも一緒だ。

 扉が開くと中は真っ暗、目の前には線形のユニットが幾何学模様のなかにいくつか収まっていて、それらがズームインしたりズームアウトしたり、近接したり、遠ざかったりしている、こっそり進化を遂げたインベーダーゲームのプレイ動画のような映像が壁面に投影されていた。といっても配管が剥き出しになっている壁面はスクリーンとしてはあまりにも歪で、二次元の映像から土管サイズの管が飛び出してくる恰好になっていた。ほどなくして、電子音の連鎖がときおり途絶えつつ聞こえてくるようになる。

 歩き疲れたし、演奏中に客席まで向かう蛮勇に欠けてもいたので、入り口近くの手近な壁にもたれかかってへたりこみ、汗を拭きながら電子音が音楽になっていく様子を伺うことにした。

 右手に客席、左手にパフォーマーという並びのようだ。パフォーマーのメガネは妖しい光を湛えている。Macのリンゴマークが暗闇に浮いている。なにやら操作をしているらしい(後で聴いた話だけど、映像を動かして音楽を演奏するという趣向なのだそうだ。つまり、映像は楽器のようなもの)。画面上部にはドイツ語らしき文字列が次々と現れる。

 ほどなくして、映像のスケールが大きくなる。色とりどりの、角ばった針金のようなものに結ばれた星座のように見えた。それまでの映像はこの巨視的な宇宙の一部であったことが察せられる。スケールが変わっても電子音楽の質は変わらない。そしてドイツ語らしき文字列の介入も変わらない(後で聴いた話だけど、これはウィトゲンシュタイン『論考』の引用らしい)。マリリン・ストラザーン(カントールの塵)か、と構造を捉えて思ったけども、それはたぶん電子音楽を記述する言葉を僕が持たないせいだろう。子どもたちも楽しそうに映像を眺めながら、音楽に身を委ねている。

 ほどなくして、今度は円形の構造体が登場する。爆発(explosion)というか爆縮(implosion)のようだ。円形が内側へとさざ波を立てる。爆発音のような電子音が音楽にとって代る。どこにも解放されることなく、いつまでも内へ内へと力が溜まっていく。映像の右手にはworld〇: personal〇~という記号の列があって、数字の変化に従って、映像や音楽も変化しているように感じられる。やがてスケールが変わったのか、それとも円が解けたのか忘れたけども、ほとんど無限とも思える点の集合が現れた。星雲のようでもあるし、砂粒のようでもある。もしかしたら先ほどまで見ていた「爆縮」が起こっていたのは、このほとんど無限にも思える点のうちのひとつだったのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、heirakuGさんは楚々とMacのディスプレイを閉じ、小さく「ありがとうございました」と言い残して立ち去った。明転と拍手の合図だった。

 ここで休憩が入った。僕はタバコの箱を掴んで外に出た。右手の方を見ると、微かに夕焼けが空で滲んでいて、飛行機雲が一条たなびいていた。願わくば飛行機が無事に飛んでいった形跡であってほしいけれども、墜落の形跡だと言われたらそうですねと相槌をうってしまうほど、行き先の分からない飛行機雲だった。知人と少し喋って二本分のニコチンを補給した僕は、再び会場の中に戻った。

 会場は明るかった。巨大な配管が天井や横壁からにょきにょきと生えていて、なにか得体の知れないものの内臓のなかのようだった。コルトーホールは予算不足のおかげで臓器になった。できることなら、この空間が脈打ち、動態的に生きていてくれたらとさえ思ったけれども、建築にそこまで望むのは酷というもの。このインフラはとても堅そうで、生体としての可塑性やホメオスタシスは望めそうもなかった。でもこのつくりかけの、なんなら少し失敗した感じの臓腑らしさがよいのだ。いかにも目的が未定で、いかにも先がありそうで。

 果たして堀尾寛太が目的を設計することになるのだろうか。僕は客席最前列中央に相当する、地べたに置かれた分厚いブロックの上に腰かけた。よくわからない部品や道具がパフォーマー側の長机の上に、床に置かれた荷台の上に、あちこちに転がっている。堀尾さんは、長机の上に設置された電球のようなもののまわりになにかを巻きつける。セッティングは終わったとばかりに消灯をするが、少ししてもう一度明転する。少し手探りな感じがする。ややあって暗転すると、小さな箱のなかになにかを投げ入れる。ルーレット台を玉が高速で転がっているような音が延々と続く。電球のあたりから垂れ下がったイヤホンのようなものが、コロコロカラカラという音を拾っているようだ。それから慎重に距離を測り、微修正を加えながらまわりに小さなオブジェクトを置いていく。スピーカーのようなものやマイクロフォンのようなものが載っている。やがてイヤホンのようなものが回転を始める。周囲のオブジェクトに触れるか触れないかという距たり。イヤホンは音を拾うけれども、ヒュンヒュンという回転音を立てる役回りも演じている。ときどきオブジェクトをイヤホンに近づけて当てたり、別のオブジェクトを足したり、既存のオブジェクトを引いたりしながら、どんどんサウンドのありようが変わっていく。古いラジオから流れる民謡を補完するお囃子が聞こえる。

 やがて道具箱のなかから、針金やら紙コップやらよくわからないもので構成された、発作的で断続的な痙攣をする小道具が出てくる。どうやってつくったのか、まったく意味が分からない。意味が分からないが、やがてすぐ近くにある箱のなかの何者かに干渉することで、赤や青や緑といった色を発するものであることがわかる。僕の目の前でその奇妙な物体の蠢きと網膜に焼きつくような激しいフラッシュが繰り返される。テレビだったら、「光の激しい明滅がうんたらかんたら」というテロップが出る局面だが、なにしろ堀尾さんはそのよくわからない装置の周りに、これまたわけのわからない、穴のなかで小さなものが回っているお団子サイズのオブジェクトや、基板のようなものなど、さまざまなものを慎重に並べ始めている最中なのだ。わけがわからないが、くるくる回るオブジェクトの影絵が右の壁にできていることは確かだ。そうしてだんだん、間隔がばらばらに設置されたいろんなオブジェクトのいろんな動きと光と音によって、暗闇の中、このホールの全体を見回すよう導かれる。天井にはいつの間にか、稼働中のシーリングファンの影絵ができていた。左の壁にも影絵が。こうして僕は、この未完成の空間で行われるさまざまな遊びが、未だ目的を与えられていないなにかを見つけるように促されているように感じた。オブジェクトの微妙な距離、角度、位置の変更によって変化する音や風景。ハリネズミたちの距たりを調節しているようだ。堀尾さんはたびたび小さな失敗を犯し、そのたびにやり直す。他人との距離を測りかねて、つながりや切断をオン/オフの二極で考えてしまう僕たちのために失敗しているようにも見えた。もちろん遊びのなかで試行錯誤しているようにも見える。どちらでもいい。とにかくオン/オフの二極のあいだには無限に遊ぶことのできる余地がある。

 それからもなにかがいろいろとあったような気がする。忘れてしまった。けれども忘れてしまったのは僕のせいではない。堀尾さんのせいだ。最後に堀尾さんはブロアーの先っぽに細くて長い、二メートルはあろうかという筒状のビニールを差し込んで、送風を始めてしまうのだから。手を筒のあちこちに添えると、筒は折れて天翔ける稲光のように予期しない方向に伸びていく。ブロアーの強弱のスイッチを切り替えると、ビニールの筒は不規則に変形しながら、びゅんびゅんと闇の中を飛び交う。お忘れかもしれないが僕は特等席の砂かぶり席に座っていたものだから、筒の先端が帽子に直撃したり、頬を掠めたり、それはそれは賑やかだった。丁寧な距たりの調節という僕の頭を支配していた仮想のコンセプトを、このブロアーパフォーマンスが見事に打ち破った。これぞ機械仕掛けの神というやつだ。ずるい。けれど、この蛮勇が僕の求めていたものでもあったはずだ。ハリネズミのジレンマを克服するなら、さっさと針を抜いてしまえばいい。この真っ暗な内臓のなかで、僕はここでしか見れないもの、聴けないものを見聞きし、とうとう最後には見えない管が飛んでくる感覚を肌で触知することになった。

 種明かしはない。目的を設計するのはheirakuGさんでも堀尾さんでもない。たぶん僕だろう。パフォーマンスや作品は事実上未完成だからこそ、アーティストは作品をつくり続けることができるし、その作業をたまさか誰かが引き継ぐことになる。だから僕は、アートのことはろくに知らないくせに、これを書いている。子どもたちも一緒に楽しめるイベントは素晴らしい。それぐらいのことしか確実なことはわからない。

 僕はここで今回のイベントに参加するという目的を達成したつもりでいた。ところがトイレで堀尾さんと並びションをしたときに挨拶をしたら、いろいろなことが起こって、今回のイベントの主催者である増田玲子さん(Permanent Reality代表 PR Ryoko MASUDA | Music for Happiness, Happiness for Life)の車に乗っけてもらったばかりか、増田さんが経営する青木屋ビル一階にある、その名も「カフェ 青木屋ビル一階」(Google マップ)で行われる打ち上げに交ぜていただけることになった。初めて会うのに異物だと感じる必要のない、温めあい方の上手な人たちと一緒に、日にちが変わる頃合いまで楽しく語り合った。

 そういうわけで、僕はとてもいい週末を過ごした。

 

黒嵜想「仮声のマスク」と共に考える

※以下の文章は、「仮声のマスク」の要約でもなければ批評でもない。ただ共に考えてみた帰結である。

 

黒嵜想の連作批評「仮声のマスク」三部作が提示するのは、声の出どころとなる身体の所在を隠蔽しつつさまざまなモノの媒体としてさまよう「仮声のマスク」という声の動性であった。響き渡る声を特定の身体に紐づける「声の肌理」(バルト)においては、声は身体という錨を指示するブイ、あるいはその部分対象としてフェティッシュ化されている。これに対し、黒嵜は声の匿名的次元に耳をそばだてる。声は匿名化し、誰のモノでもないがゆえに誰のものにもなりうる、と黒嵜は言う。

正確を期すならば、黒嵜の論の焦点は、固有の身体から遊離する声の匿名性というよりは、声の属人的私有制の解体にあると見るべきだろう。動かない映像どうしをつなぐ声、あるいは『エヴァンゲリオン』におけるシンジの身体に同居する複数の声という公有の例証の対蹠には、誰にでも「調教」可能な初音ミクのサイボーグ的音声や誰とも知れぬ匿名化された電話交換手の声という収奪の例証がある。声が固有の身体から遊離する場合、声は公共メディア/パブリックドメインとしての可能性へと開かれると同時に、また別の権力による占有や奴隷制にも振れうる。「仮声のマスク」は共同体を志向する。しかしそれは身体とのつながりがあやふやな声の不安、そして収奪に曝されやすい声のあやうさの証でもある。

「仮声のマスク」はバルト批判であると同時に、デリダの読み直しでもあるだろう。デリダ『声と現象』における音声中心主義的な現前性=現象学批判に対し、「仮声のマスク」は生々しい身体の現象学的現前を不在にする声の機能を突きつける。デリダによる現前性批判の眼目は、常にすでに差延を孕むエクリチュールの運動性とその痕跡としての性質を隠蔽する声の詐術にあった。黒嵜の論は、他の身体への憑依と差延を志向する、声の(再)エクリチュール化の試みであるともいえるだろうか。身体の死を画する遺言的な声のエクリチュールに寄り添い「声の肌理」に抗う黒嵜は、くしくも同じバルトの「作者の死」に倣って、「声優の死」を宣告している、とさえ極論しても構わない。声の動態的機能性、身体なき声の存在論を問う地平はこうして開かれたと言えるだろう。

もちろん声の機能を、パブリックドメインを形成する声のエクリチュール「仮声のマスク」に限定することはできない。アニメーションや映像、音楽の視聴経験に際し、声優・俳優・歌手の声帯や声道に淵源する、声の帰属問題がなくなるわけではない。しかしバルトのように、生きた固有の身体のフェティッシュ的断片としての地位を声に与えてしまっては、黒嵜の問いを無視することになるだろう。黒嵜の問いを引き受けるなら、バルト「作者の死」ではなくフーコー「作者とは何か?」に立ち返るべきかもしれない。すなわち、声優と声を切り離す「声優の死」ではなく、声優の死後もなお声がキャラへの帰属を失わない「キャラ声機能」を問う可能性である。デジタル複製技術・音響再生産技術は、声だけではなく、声の帰属(attribution)という機能もアーカイヴしている。補助線を引くならば、「ナンシー・ドリュー」シリーズとその作者であるキャロル・キーンのように、複数の作家が書いた作品がその生死を問わずひとつの作者名に帰属するという事例がある。この場合、作者名はブランドとして機能する。これを声に敷衍するなら、現在のルパン三世の声を構成しているのは、現声優の栗田貫一はもちろんのこと、彼がもの真似をする対象だった山田康雄でもあるが、それらは等しくルパン三世というキャラクターに帰属しているということになるだろうか。キャラに帰属するキャラ声はブランドとして機能する。声優が交替して声の質が変わったとしても、キャラ声がキャラに帰属する機能を失うことはないだろう。帰属性を生成しアーカイヴする「キャラ声機能」もまた、声のパブリックドメインへの帰属を問ううえで欠かせないはずだ。

さらに「仮声のマスク」の物質性への問いを看過することもできない。生身の私的身体に声を紐づけるフェティッシュ化を退けた先に、公有へと開かれる声そのもののモノモノしさを問い直す作業も必須となる。黒嵜の論が終盤に示したボーカロイドや合成音声の、身体なき声の「女性化」という技術的収奪へと真摯に向き合うためには、有機性/無機性を越えた問いが喫緊となろう。


cutting record - a record without (or with) prior acoustic information at freq2012 (JO Kazuhiro)

デジタル技術を駆使して紙に書きこまれた周波数の峩々たる痕跡が、紙から予期される物質性からは完全に遊離した電子音を発する、城一裕「紙のレコード」をひとつの補助線とするのもいいかもしれない。針は紙に落ちる。しかし紙そのものに発している音は、そこには帰属していない。「紙のレコード」のサウンドは、周波数の数値をデジタル技術に恃んで刻んだ痕跡に帰属している。もちろん周波数はPC上で操作可能なひとつの情報ではある。しかし空気すら物質であるという意味において、情報を物質性と切り離すことはできない。周波数や波形といった音響の情報論的分解と再構成から生成されたサウンドにそばだつわたしたちのアナログな耳は、そのサウンドが帰属するデジタルな物質性を聞いている。


Formant Brothers "Ordering a Pizza de Brothers!"

デジタルの音声パラメータから出来上がった声は人間には帰属していないし、ましてや女性化などできない彼岸に存在している。人間も無縁ではない。そもそも人間が発声する声は、人間の声なのだろうか。人間の発声過程はデジタル技術の前ではひとつのメカニクスであり、メカニクスである以上、他にあまたとあるサウンドと同じく、機械的に処理することが可能な素材=マテリアルに過ぎない。ピザを注文できるのは人間だけだろう、という思い込み。Formant Brothersによるチューリングテストの再発明は、機械的に生成する声を人間のモノとして聞こうとする人間の習慣をあらわにする。

黒嵜の「仮声のマスク」に端を発する声の公有制の波紋は、女性化も人間化も不可能な、人間的身体とは別の位相にある、声のマテリアリティの問いへと波及するだろう。どの声も潜在的には周波数に分解できる。今やあらゆる声は、生物/非生物の垣根のないデジタル技術の素材=マテリアルという公有地に帰属しながら、それでもなお人間的に響くことを期待されている。

モノモノしいイカ

 第15回国際テクノロジー・アート・404フェスティバルの一環、10/12ドーム・ショー@福岡市科学館ドーム・シアターに行ってきた。若干の私的印象を残しておこうと思う。
 プラネタリウムの天球に映像を映し、これとサウンドの関係を問う作品が五つ並んだ。別々の映像と音をシンクロさせるもの、音をライヴで発生させる身体のセンスを映像の動きに変換するもの、映像内の動きに音を合わせるもの。
 トリを飾った真鍋大度 + 堀井哲史の作品「Phenomena」は、軽くて単調なベース音にさまざまな電子音が積み重ねられたりリズムから離散したりするサウンドと、白鍵の断片のようなものが全方位的に運動を展開する映像から構成されていた。右に動いているのか左に動いているのか、吸い込まれていくのか吐き出されているのか、方向感覚を失調させるような映像を見ているうちに、どれがベースのサウンドなのかときどきわからなくなる。全天球型の無重力的な視覚経験に聴覚経験が巻き込まれていくような眩暈を堪能した。
 横川十帆+牟田春輝の「イカ・ディスプレイ」はライヴパフォーマンス。(無事)呼子から取り寄せたイカをハサミで開き、内臓を外してディスプレイを制作する過程が矩形のスクリーンに流れる。ほどなく映像はCCDカメラ(?)でズームアップ、色素胞の点々が大写しになる。リズミカルな重低音が流れ始めると、半死半生(ゾンビ?)のイカの筋が収縮・弛緩しはじめる。色素胞の表面積が拡大・縮小、瞬時に赤や、黄色、黒へと、サウンドに応じて体色を変えていく。
 どうやら、こいつは、イカの色素胞変色に最適化された周波数を計算し設計されたサウンドらしい。しかも、サウンドを構成する周波数を電気信号に変換してイカに直接流しこんでいるらしい。つまりわたしは、イカの身体に流れるサウンドを目にしながら、イカ・ディスプレイに映し出されるライヴ映像を聞いていたことになる。
 イカ研究の成果を生かしてデジタルにつくられたサウンドが、可塑性を失いつつある有限な生体物質の変様として変奏される。目に映るものはすべて聞こえるものであり、耳に届くものはすべて見えるもの。
 イカの体はフラットではないし、乾いてもいない。グネグネしたウェットなモノモノしさを備えている。色素胞と筋の運動の軌跡とその可塑性が「映し出す」活きのよいサウンドは、グネグネしていてウェットだった。

読了リスト(2018)

読了:
美術手帖』バイオアート
美術手帖』キーワード
クトゥルー神話全書』
『Weird Realism』
クトゥルーの呼び声』
『モノたちの宇宙』
『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』
『四方対象』
『具体性の哲学』
ユリイカ 二月号 クトゥルー神話の世界』
アセンブリ



積読
『公共性の喪失』『家庭の事情』『眼の探索』『アガメムノーン』『大学の歴史』『反哲学史』『現代の哲学』『ロンドン 都市と建築の歴史』『白い牙』『ブラウン神父の純智』『道の文化史』『廃墟の美学』『カンガルー・ノート』『燃えつきた地図』『他人の顔』『廃墟論』『テキストの記号論』『アメリカン・ゴシックの水脈』『海のカテドラル』『空間<機能から様相へ>』『革命について』『エレンディラ』『イタリアのおもかげ』『詩学/詩論』『モルグ街の殺人その他(新訳)』『エッセンシャル・マクルーハン』『伊藤計劃記録』『フランドルの呪い画』『大聖堂(上中下)』『香水』『中世民衆の世界』『悲劇の誕生』『エクリチュールと差異(上下)』『エッセンシャル法医学』『オン・ザ・ロード』『衣服哲学』『聖なる怪物』『砂漠の反乱』『ギリシア喜劇全集1』『ローマ喜劇』『ワインズバーグ・オハイオ』『都市の詩学』『ランボー全詩集』『伝奇集』『近代の拘束、日本の宿命』『ポオ小説全集3』『悪魔祓い』『ボードレール全詩集』『大伽藍』『ABC戦争』『バルセロナ―地中海都市の歴史と文化』『無為の共同体』『美の歴史』『醜の歴史』『ベンヤミンコレクション(1〜5)』『ヨーロッパ視覚文化史』『ゴシック・リヴァイヴァル』『ハワーズ・エンド』『失われた時を求めて(1)』『エロティシズム』『読書について』『町でいちばんの美女』『遊びと人間』『綺譚の箱(ホフマン他)』『世紀末の箱(ユイスマンス他)』『迷宮の箱(カフカボルヘス)』『アエネーイス(上下)』『イーリアス(上下)』『オデュッセイア(上下)』『中世騎士物語』『アーサー王の死』『もうひとつのルネッサンス』『汚された世界』『アメリカ文化論(ホイジンガ)』『海を見たことがなかった少年』『アメリカのデモクラシー(1〜4)』『アフリカの印象』『アメリカン・デモクラシーの逆説』『ヨーロッパ人のアメリカ論』『鏡の影』『文学空間』『バルザック:風俗研究』『散歩の文化学1』『十五少年漂流記』『Thames: Sacred river』『Mummy: the inside story』『Crying』『Fraud's Library』『タイム・マシーン』『宇宙戦争』『博士の愛した数式』『ブラフマンの埋葬』『レジャーの誕生(上下)』『ブラックダリア』『アンチ・オイディプス(上下)』『資本論(上下)』『存在と無(1〜3)』『存在と時間(上下)』『エセー(1〜4)』『ネオ唯物論』『近代日本奇想小説史』『音楽を展示する』『聖と俗』『ベストセラーはこうして生まれる』『The writing of the disaster』『西洋中世奇譚集成:東方の驚異』『西洋中世奇譚集成:聖パトリックの煉獄』『文化と外交』『動物裁判』『マゼラン 最初の世界一周航海』『郵便的不安たちβ』 『西洋中世奇譚集成:妖精メリジェーヌ物語』『声と現象』『シュルレアリスム:終わりなき革命』 『England, England』『男の子女の子』『未来の考古学』 『いろいろな人たち』 『未来からの手紙』    『トクヴィルの憂鬱』    『アメリカのデモクラシー 第一巻(上下)』 『アメリカのデモクラシー 第二巻(上下)』    『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』 『悪徳の栄え(上下)』  『ヘーゲル読解入門』  『離婚』 『嫉妬事件』 『悪魔の涎・追い求める男』 『二人であることの病』 『ムッシュー・テスト』 『バフチン』 『西洋音楽論』  『バートルビーと仲間たち』 『完全言語の探究』 『レヴィ=ストロース:夜と音楽』 『薄墨色の文法』 『風神の袋』   『音楽の感動を科学する』 『アメリカ・ハードボイルド紀行』 『The Book of Skin』 『The Book of Touch』 『恐るべき子供たち』 『ミステリアス・アイランド(ヴェルヌ)』  『Skin: on the cultural border between self and the world』 『The Senses of Touch』    『雷神の撥』  『ブラック・マシン・ミュージック』 『カリブ海偽典』 『宮廷人と異端者:ライプニッツスピノザ、そして近代における神』  『科学者たちのポール・ヴァレリー』 『変身』     『一億人の英文法』       『馬的思考』     『生家へ』  『喰いたい放題』 『イメージの歴史』   『賢い皮膚』 『印象派で「近代」を読む』   『<つながり>の精神史』 『聖なる神:三部作』 『From Melanchoria to Prozac: A History of Depression』 『BRUTUS(西洋美術総まとめ)』 『ガルガンチュアとパンタグリュエル:第5の書』 『Home』 『魅せられてプラスチック』 『ブラス・クーバスの死後の回想』  『オデオン通り』    『Sensory Perceptual Issues in Autism and Asperger Syndrome』 『Skin: Surface, Substance+Design』 『神経生理学コレクション タッチ』  『建築意匠講義』     『箱の女』  『空の戦争史』  『アビ・ヴァールブルグ:記憶の迷宮』        『機械という名の詩神』   『Contagious: Cultures, Carriers, and the Outbreak Narrative』   『キルヒャーの世界図鑑』 『五感:混合体の哲学』 『主流に逆らって:白いアメリカの黒い文学』 『異議申し立てとしての文学:モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』 『恋愛のディスクール・断章』   『The Deepest Sense:A Cultural History of Touch』 『The Eyes of the Skin: Architecture and the Senses』 『ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学』 『ジョルジュ・バタイユ:神秘体験をめぐる思想の限界と新たな可能性』  『清水アリカ全集』 『The Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness』   『色彩論』  『ロラン・バルト講義集成』(1〜3)  『友愛のポリティックス』    『ロマネスクの誘惑』 『新たな生の方へ』  『シュルレアリスト精神分析』  『サド、フーリエロヨラ』 『Johnny Got His Gun』 『漂流思考』  『The Inner Touch: Archaeolgy of a Sensation』  『霊降ろし』  『吐き気:ある強烈な感覚の理論と歴史』 『2666』  『知覚の哲学』    『牡猫ムルの人生観(上下)』 『自我の超越:情動論素描』     『コロノスのオイディプス』 『崇高とは何か』  『現代思想1993年7月臨時増刊:ヘーゲルの思想』 『雰囲気の美学』   『ベンヤミン・コレクション6:断片の力』      『Aesthetic Theory』 『常用字解』    『煙草は崇高である』 『現われる存在:脳と身体と世界の再統合』 『ミハイル・バフチン:対話の原理』    『キルケゴール著作集5:おそれとおののき/反復』 『ロマン主義のレトリック』 『美と倫理』  『観察者の系譜』 『クローゼットの認識論』   『味と雰囲気』 『差異の世界』   『読むことのアレゴリー』 『来るべき書物』 『Georges Bataille:Phenomenology and Phantasmatology』 『The Meaning of Disgust』    『From Disgust to Humanity: Sexual Orientation and Constitutional Law』 『平成ジャングル探検』 『The Wild Card of Reading: On Paul de Man』   『ギリシャ神話の構想力』         『ユリシーズ(1〜4)』  『ナボコフの文学講義(上下)』 『幻想怪奇短篇集』     『ムッシュー・アンチピリンの宣言』   『グランド・ブルティーシュ奇譚』  『人口論』  『善悪の彼岸道徳の系譜』 『悦ばしき知識』 『反時代的考察』 『権力への意志(上下)』 『偶像の黄昏/反キリスト者』  『芸術の至高性:アドルノデリダによる美的経験』 『絵画における真理(下)』  『リアルの倫理』  『Everyday Reading: poetry and popular culture in modern america』 『Negotiating Copyright: Authorship and the Discourse of Literary Property Rights in Nineteeth-Century America』 『The Democratization of Invention: Patents and conpyrights in Amercan economic development, 1790-1920』 『哲学者の使命と責任』 『撒種』 『なぜ人は走るのか:ランニングの人類史』 『装飾と犯罪』 『デザインと犯罪』 『娼婦』 『方法序説』 『US Popular Print Culture:1860-1920』    『Always Already New: Media, History, and the Data of Culture』 『Scripts, Grooves, and Writing Machines: Representing Technology in the Edison Era』  『Parting Ways: Jewishness and the Critique of Zionism』     『The Scrapbook in American Life』 『The Postal Age: The emergence of modern communications in nineteenth-centuy America』 『美の約束』 『Immaterial bodies: affect, embodiment, mediation』 『Black and white and blue: Adult cinema from the Vctorian age to the VCR』  『On touching: Jean-Luc Nancy』   『ラオコオン』 『芸術作品の根源』 『文化とは何か』    『カルチュラル・スタディーズへの招待』 『モダニティとポストモダン文化:カルチュラル・スタディーズ入門』 『夢の秘法:セノイの夢理論とユートピア』  『ニューレフトと呼ばれたモダニストたち:モダニズムの政治と文学』 『<朝鮮>表象の文化誌:近代日本と他者をめぐる知の植民地化』 『日本の政治文化』  『1968年』 『カルチュラル・ターン:文化の政治学へ』 『感情のカルチュラル・スタディーズ:『スクルーティニ』の時代からニュー・レフト運動へ』  『ヴェール/ファロス:真理への欲望をめぐる物語』   『カント「視霊者の夢」』    『Mapping the Nation: History and Cartography in Nineteeth-Century America』     『ジェンダー研究の現在:性という多面体』   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