『盲目と洞察』についての私的(マニ車的?)ツイートまとめ

 

盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)

盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)

 ド・マン『盲目と洞察』第1章「批評と危機」。批評の危機が叫ばれる時にこそ批評は明察に至るが、それはある視野の限定や焦点化によって可能となる。洞察の影には必ず盲目がある。危機の言説は常に黙示録的に働き、文学史的用語を用いれば、「エレミアの嘆き」は覚醒をもたらすものとして現われる。
 覚醒や解放の言説が視野を披く一方で、灯台もと暗しならぬ、光源そのものは不問に付される。ここで光源になっているのは、構造主義における構成概念(constructive concept)。構成概念は存在すると立証することはできないが、それが存在すると想定することでスムーズに分析を進めることができる、たとえば無意識や、ここでいう主体を指す。洞察は常にメタ言語の地点に現われるが、しかしそれ自体実はただの言語であるということ(光源)を隠すことによってそれは可能となる。 という分析。当然ながら、盲目と洞察も構成概念のようなものであり、メタ言語の位置を占めることはできない。「眼」が語源的に見る器官であると同時に、穴でもあるように。〆
 補足。(構成)概念には限界がある。でも概念規定をしてはならない、ということではなく、だからこそ概念は必要なのだ、と思う。概念は批判にさらされ、新しい批評の道を切り開くための一里塚なのだから。重要なのは概念をメタ言語として崇拝しないこと。ド・マンの批判は崇拝に向かっている。
 引き続き『盲目と洞察』第二章。ニュークリについて。志向性の切断(誤謬)によるテクストの囲い込み。テクストの有機性と詩的言語の類比関係を、ハイデガーの「了解の先行構造」と「循環性ないし全体性の観念」から反省的に分析。志向性を断つことで、詩学と解釈学の弁証法を隠蔽した新批評。(他方、構造主義は構成的主体を抑圧することで志向性を欠落させている。)新批評は「否定的な全体化の過程」、つまり全体化することの不可能性、形式の破綻に当面した、とド・マンはいう。解釈者は自らが知っていることをテクストに読むだけではなく、同時にそれを客観化しなければ形式は成立しないが、テクストは解釈者とは無関係に存在、違う時間に存在している以上、それを首尾よく客観化することはできない。新批評は志向性の排除によって解釈者を形式化し、テクストと解釈者の隔たりを抹消するという前提を掲げたが、読みの実践においては隠されているその前提は崩れさり、解釈者とテクストとの隔たりは露わになってしまう。これは、『理論への抵抗』における詩学/解釈学問題とも境を接している。しかし、ド・マンは踏み込んでいないが、新批評はその形式化不可能性を曖昧さ(ambiguity)という文学的価値として顕揚し、同時にその対象となるモダニズム詩や形而上学派詩の難解さを正典の根拠とした。ド・マンが詩学/解釈学問題とする新批評の蹉跌は、歴史的には彼らの文学的価値として「美学化」されていた。関連してこの章でも突然コールリッジに言及するド・マンが、新批評によって冷遇されたロマン派をどう扱っているのか。それは『ロマン主義のレトリック』にとっておこ。〆
 『盲目と洞察』第三章。もうひとつまとまらないが、とりあえず。/ 人格と自己、作者と作品について。ルカーチの「窓のないモナド」は芸術にかかわる自己を、自由な経験的自己と、形式に拘束される美的自己とにわけ、両者の相克に芸術行為を重ねる。藝術作品は到達不可能な企てであり、不完全な成功である(作家のやりたいことは作品において部分的にしか達成されない)。作品は作家という主体に対する客体以上のものであり(つまり作品における自己と作家の人格は別物)、経験的自己と美的自己との葛藤のプロセスとして存在論の次元を構成する。この葛藤は広がりの全体化と深さの全体化、というふたつの全体化の相克としてパラフレーズできる。想像力はどこまでも限りなく羽ばたいていくが、それを実現するには想像力に重りをつけなければ作品は実現できない。水平性と垂直性の解決不能なプロセスは、マラルメのいう「宙づり状態」に他ならない。ビンスヴァンガーは、水平性を垂直性に置き換える、つまり広がりの自由の問題を山登りの譬喩に組み込む。想像力の飛翔、自由の主体は山の頂に向かう。他方、その現実化は地上への接近、あるいは墜落となる。ビンスヴァンガーは、上方へ向かう運動そのものが予めその落胆・落下を含意しているという意味において、≪上方への落下≫という宙づりのもとに作家の想像力をとらえる。ここには作品をつくる芸術家の存在を問う存在論的問いが現われているが、精神科医の彼はそれを自己神経症的な虚偽意識の問題に結び、作品を生みだす過程で作家が陥る病理に還元する。自己をめぐる存在論的な問いは、作家の心理状態に収斂してしまう。作品がもつダイナミックな終わりなきプロセスへの問いは、作家の不安を映しだす鏡像としての作品という静的な解釈に至る。彼にとって、落下がもつ存在論的問いは、均整のとれた人格を回復するまでの過渡的な症状となる。しかしド・マンはビンスヴァンガーの解決を「手打ち」と退けるのではなく、存在論という無限の底無し沼に留まり続けることの難しさに代える。フーコーは、哲学者として自己と人格の取違えを戒める。確かに批評行為は、作品中で描かれる超越論的・存在論的な自己を、その作者の人格へと還元することを拒み続けるその禁欲、昇華なき否認こそがモデルとなる。しかしながら、そうした批評の禁欲モデルは自己と人格の区別、作品と作者の区別を前提とすることによって可能になる。 その意味において、哲学者フーコーもまた自己と人格の区別を設けた文学批評の恩恵を蒙っているのであり、『言葉と物』もその所産であるといえる。〆
 いや、違う。超越論的自己(作品における作者)と経験的自己(実生活における作者の人格)の区別が、批評行為の前提かな。その区別を前提として初めて、存在論を問うことができる、ということかな。
 『盲目と洞察』第4章「ジェルジ・ルカーチの『小説の理論』」。期せずして、小説における疎外と経験についてよくわかる短い論稿にめぐりあった。私的メモ。/ ギリシア世界における生と本質の調和的統合が近代において破綻し、文学に調和した現実からの「疎外」をもたらす。演劇は観念的になる。小説はしかし「経験」を手放さないが、現実は不完全なものとして表象されるしかない。かくして小説こそが近代の「疎外」を代表する形式となる。小説は有機的な連続性を実現しようとするが、疎外された現実の侵入により連続性は破綻する(アイロニー)。小説の構造的アイロニーによって、ルカーチは小説をミメーシスから解き放ったといえるだろう。他面、彼は経験的な現実から逃避するロマン主義的内面への耽溺を指弾し、「疎外」と向き合うアイロニカルな小説を評価する。しかし、そんなルカーチフローベールの『感情教育』を評価する際、小説に流れる時間の連続性に異質なものを統合する有機的な原理をみいだす。プルーストは同じ小説に、時制の使用法による非連続性、記憶構造の複雑さを見ていることを思えば、ルカーチの読解はアイロニーを手放し、ギリシャ世界へと舞い戻るロマンティックな逃避といえる。プルーストがいうように、非連続的な時間こそ、内面のアイロニーであり、内面の疎外ではなかったか。ルカーチの連続的な時間は、小説の史的展開全体に行きわたっている。小説のなかのアイロニーを語るルカーチは、小説を語る方法において有機性を保持している。ルカーチの後退。〆
 『理論への抵抗』などもそうだけど、言語を説明するメタ言語としての「文法」もド・マンは退ける。どこまでも退けていって追い詰めていって、残ったものが慧眼ではなくあくまでも「盲目」というか、裂け目のように感じる。披いて終わる。inscriptionや物質性はこの劈きのためにあるような。
 それと気になっているのは、ド・マンがロマン主義を論じている点。ここが新批評とは対蹠点にある。おそらくロマン主義を問うのは、ド・マンが美的なものを問う(『美学イデオロギー』)上で、重要だったのではないかと想像。『ロマン主義のレトリック』もまだ積読・・・。
 『盲目と洞察』ブランショとプーレの章を読むなど。ド・マンの批評自体に、盲目と洞察がないような気もしてきた。自分が主張したいことはない、とド・マンはインタヴューで語っていたし、批評の対象に語らせて、それが対象ではなくなるような地点、美的なものの領域、雰囲気の地平にまで達する? 主体にとって何かが感覚や経験である限りにおいて、対象は現れる。しかし批評する側とされる側が限りなく近づいてしまうと、それは感覚や経験では対象として捉えられない、主観的、しかし主観を裏切り刷新するような無感性的なものになる。つまり、崇高。その崇高が、主観や自己といった認識論的レベルで起こるのではなく、言語の次元で起こるのがド・マンの批評なのでは? あなたの言葉がわたしの言葉を生みだして、そこに本来的に他者である言語そのものが、崇高の「ようなもの」として訪れるような。「盲目と洞察」はあくまでも、最初にあなたの言葉を対象に選ぶための端緒となる、仮のわたしの言葉であり、それは見えるけれども事実上消えているような、マーキングのためだけにあるような、そんな言葉なのではないだろうか? というわたしの妄言。
 ド・マン『盲目と洞察』読了。「盲目性の修辞学」以前についてはこれまでツイートした。そのデリダ論はルソーを論じるデリダの結論がルソーのテクストにすでに書き込まれていることを示し、ルソーのテクストに先取りされたデリダを読んでいる。この章が、先行する章のまとめの役割を果たしている。
 続く「文学史と文学のモダニティ」、「抒情詩とモダニティ」はそれ以前の章とは切り離された独立したモダニティ論としても読める。新しさが常にその幻滅と一体となっているベンヤミン的な「モデルニテ」の観点から、モダニティ批評を読み、その必然的な挫折に翻ってテクストの解釈可能性を認める。時代区分を嫌うド・マンらしく、時代区分としてのモダンはいつも退けられるが、モデルニテはいつも文学テクストを構成する原理であり、批評を誘ってやまない誘蛾灯として論じられている。全編を通じて感じるのは、批評が常に完璧ではありないからといって、批評の無意味さを説いているわけでも、言葉遊びをしているわけでもなく、テクストは「完全には」読めないものだからこそ批評は連綿と続く営為でありうること、そして解釈はそのために繰り返されるということが強調されている。どこまでもテクストを忠実に「盲目的に」読むこと、その涯てで必ず解釈が求められる。その解釈は判断の瞬間であり、読みが盲目的であればあるほど洞察の輝きはいや増す。しかしながら、洞察は広大な闇夜を切りとって得られたものであり、瞬間瞬いた後に闇に呑みこまれる。決して空の全貌は見渡せない。ド・マンは空の全貌を知ることのできる批評のメタ言語的ポジションを退ける。ド・マンの批判は、批評をメタ言語的ポジションに位置づけようとする衝動や崇拝に向かっているのであり、批評そのものではない。ド・マン自身の批評を通じて、批評や解釈はその権利を保証される。たぶん、ド・マンの批評は、テクストの事実関係を問う批評のための権利関係の問いであるように思う。
 もう一点、付け加えるなら、本書には時間へのこだわりが多々見られる。それは、テクストの外にある現実の時間でも、歴史学的な時間でもなく、テクストに内在する時間のことで、この時間こそが盲目と洞察の原理であるように思う。換言すれば、読むものはテクストと同じ時間を共有できない。それはおそらく作者といえど同様で、書かれた瞬間に作者はテクストから疎外される。書いた瞬間に、作者は読者に回る。そして、読者はテクストとの時間のずれに盲目なまま、テクストを読み、また書き直しまた読む。時間的に先行するテクストに批評されとも知らずに。この疎外に由来するずれ、遅延が読むことの困難と可能性を明かしたてているのではないかと思う。そしてその隙間に対して盲目的であることが読むことを可能にするのではないかと。読めないとわかっているものを読むのは気が滅入るものだし。読めるという根拠のない自信って大事? けれども、その隙間のおかげで、批評という行為、解釈という行為の権利は守られているのだよ、ということかな。なんだかだらだらになったけども、そんなことを考えた。〆