竹村和子『彼女は何を視ているのか』

彼女は何を視ているのか――映像表象と欲望の深層

彼女は何を視ているのか――映像表象と欲望の深層

 主として映画に関する論稿を集めた一冊。竹村和子の闘病の記録が小冊子として差し挟まれている。
 書かれた年代が前後するので、十把一絡げにくくるわけにもいかないが、どれも概ねエネルギッシュかつ怜悧な竹村節に満ちている。映画研究のディシプリンに依らずに書かれたこれらの論稿を、映画研究プロパーの人たちがどのように読むのか興味深い。
 以下、映画に疎いわたしが個人的に興味をもった章をざっと。
 第2章「「噂」の俳優:グレタ・ガルボクィアに見る」は、クィア批評にとってのガルボの位置をよく示していると思った。無知なせいもあるだろうが、純粋に楽しんで読めた。
 第3章「カミングアウトして、どこへ:ジュディス・バトラーレズビアン映像表象」では、バトラーの身体と物質に力点を置いた行為遂行性の理論(主としてBodies That Matter: On the Discursive Limits of Sex (Routledge Classics))の解説篇としても興味深い。特に「物質」という観点は(ド・マンもそうだが)マルクスエンゲルス共産党宣言』、それを『帝国』の冒頭で模倣したネグリ=ハートの "materiarizing" と係わるだろうし、見逃せない。行為遂行性は、言語の物質性、身体の物質性、唯物論、さらには経済的な意味でのmaterialism("material girl"のような物欲)といかに「糾える問い」を切り結ぶのか、と少々考えてみたくもなる。
 第10章「<現実界>は非歴史的に性化されているか?:フェミニズムジジェク」は、バトラーとジジェクの論争について再考を迫る。争点は「性化の公式」、いわゆる「性関係は存在しない」というラカンの公式。バトラーが形式=公式(form-ulation)を変えていく戦略として行為遂行性を捉えているというのがよくわかる。形相/質料問題から連綿と続く思想上の性別の問いがここに集約されている。
 第12章「ローラ・マルヴィへの応答」は、映画理論の先駆者、デジタル時代の「複製技術時代の芸術」(ベンヤミン)論に相当するマルヴィの講演を受けて竹村がコメントをしている。ビデオ、さらにDVD等の録画機器の発達によって可能になった止める/動かすを、メドゥーサ/ピュグマリオンへと置き換えて展開する件りが秀抜。短いが的確で示唆に富み、竹村の批評を端的に体験できる。
 第13章「<愛のお話>と表象の可能性:覗き見るもの/見られるもの」は、竹村によるトリン・ミンハへのインタヴュー。アレゴリーや断片、フェティッシュの問題と係わる、短いが非常に濃密なインタヴューで本書の白眉。表象にこだわる竹村と表象とは別の次元にこだわるミンハのずれが興味深い。スピヴァクサバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)にも言及しているが、言説に載らない言説上の他者、声は持っているのに聞き取ってもらえない他者の問題について、ミンハは非常に前向きな解釈をしている。特にpetrified(=立ちすくむ、石化する、無感覚にされる)の件りはおもしろい。
 

 「立ちすくむ」というのは重要な概念です。わたしはそれを肯定的に解釈します。それはポジションをもたない」こと、「批判的な袋小路」を意味します。それはどちらにも行けない状況であると同時に、別の次元での「どこか」にわたしたちを導くものです。むしろ動き――新しい動き――に、必要なものなのです。

 
 以上の引用におけるミンハの見解を、第12章のマルヴィの議論における≪メドゥーサ≫、すなわち映像の静止(still pictures)と結びつけるのもいいかもしれない。あるいはヴィリリオ的な速度の世界(たとえば、速度と政治―地政学から時政学へ (平凡社ライブラリー (400)))への静かな抵抗をみてとるのもいいだろう。重要なのはpetrifiedしている者が死んではいないということであり、世界の内部で身体性と不動性、無感覚を介して違和感を表明しているということだと思う。言説という枠組みは、語ること/語られることを金科玉条のものとする。しかし、バトラーが(そしてスピヴァクも間接的に)示したのはジェスチャーやアクションといった身ぶりさえ身体化された言語であり、言説の体系に痕跡を残すものだ、ということだった。ミンハはpetrifiedに身体化された言語、言語にさざ波を立てる言語の萌芽を見ているのではないだろうか。それがa new motionを伴うmotion pictures、≪ピュグマリオン≫の次元を豊かにする、ということだろうか。
 petrifiedは崇高にも係わるだろう。無感性的なもの。