批評からメディアへ:触感の渦巻きと『ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?』

 

ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?―感性論的メディア論

ホワッチャドゥーイン、マーシャル・マクルーハン?―感性論的メディア論

 カナダの英文学者にして、60年代のアメリカで時代の寵児となったマクルーハンのテクストを精読、そのロジックとレトリックからメディア論の新しい可能性を浮かびあがせる一冊。
 「メディアはメッセージである」、あるいは「メディアはマッサージである」。このような耳触りのよいキャッチーなフレーズ(オヤジギャグ)で一世を風靡したマクルーハンだが、そのテクストは論理明快とは言い難く、多くの齟齬を抱えている。キャッチーなアフォリズムは人を惹きつける一方、えてして「わかったつもり効果」に人を浸らせたまま煙に巻く。マクルーハン知名度の高さに比して、彼のメッセージに真剣な思想を認める真剣な論者はさほど多くはなく、彼のテクストはひとつの文化現象としてキワモノ的扱いに甘んじるのが常だった。さもなくば、谷川渥『鏡と皮膚』のように、彼のテクストの一部を切りとりこしらえたアフォリズムを論の梃子とするのが、マクルーハンの無難な使用法だった。
 マクルーハンのテクストを総体として扱う本書の著者がマクルーハンの思想に重みを見出すことはない。先達を逆撫でにすることはない。マクルーハンのテクストは思想として軽薄だからだ。しかしながら、その軽薄さこそがマクルーハンの特異さである。
 軽薄さ。それはマクルーハンの言葉に翻訳すれば「クール」であり、youtubeのようなロー・ディフィニションの粗さとなるだろうか。果たしてマクルーハンは、「クール」や粗さの側に立ち続けた人だった。本書の議論に倣えば、その姿勢はボードレールベンヤミン的モデルニテとも言える。つまり、新しさに寄り添う。いずれ退屈なものになり果てる、ある種の諦観を含んだ新しさに寄り添い続ける。ミーハーで軽薄。クールで粗い。それはそのままマクルーハンの言辞の形容として通用するだろう。
 マクルーハンのテクストに横溢する二項対立は、彼の軽薄さが生みだしたものだ、という。例えば「クール」に対して「ホット」。静的な構造主義的な二項対立を彼のテクストは数珠つなぎに紡いでいく。しかし彼の「クール」がクール/ホットの構図に位置を占めることはない。彼のクールは姿勢であり、クール/ホットの構図を変奏し続けていく。彼のクールさは、文化事象を左右に薙ぐスリップ・ストリームそのものだ。ずっとまどろみのパサージュを歩き続けたベンヤミンのように。いや、マクルーハン自身、群集を掻き分け遊歩するパサージュであり、マクルーハンのテクストは群生するメディア論を二項的に、軽薄に離節合するメディアだ。
 メディア(media)が複数形であることに注意しよう。そう、マクルーハンが軽薄なのは、最新の媒体(medium)に飛びつくからだけではない。複数の媒体、メディアのあいだを行き交うからこそ、メディアとしての彼は軽薄なのだ。
 日本のテレビとアメリカのテレビは違う。テレビとインターネットは競合しながら共存している。喩えるなら、マクルーハンはそうした最新のメディア環境のなかに巻き込まれながらその状況を語るメディアだと言えるだろう。しかしメディアは共時態に存するだけではなく、通時態としても残存する。Windows-XPはすでに過去の遺物かもしれないが、依然としてOSシェアの30パーセントを占める。メディアとしての力を失って久しい書籍は変わらず流通しているし、詩人も絵描きも新聞屋もまだ職業として存在している。これら古いメディアは絶えずアップデートを繰り返しながら、新しいメディアとの出会いを凌いでいる。つまり、メディアは他のメディアに出会い、新しい技術革新の波に洗われながら、時を紡いでいる。複数の媒体、メディアを縫合するメディアとしてマクルーハンは、メディア特有の時空間の出会いの場だった。彼の軽薄さは、彼自身出会い系のメディアであったという点に尽きるだろう。メディアの本質、それはメッセージを伝えることではなく(だから客観性や真偽は他のメディアとの関係によってしか問うことができない)、それ自体が別のメディアと出会う、ということだ。*1
 かくしてマクルーハンが一世を風靡したことの意味、そして70年代以降、別の時代の寵児たちが湛える後光を前にして急速に色あせていったことの意味は明白となる。マクルーハンは新しいメディアとして登場し、すぐに古いメディアとなったというわけだ。そのあとには、スーザン・ソンタグジャック・デリダエドワード・サイードスラヴォイ・ジジェクマイケル・サンデルといった新しいメディアが続いた。彼らはマクルーハンと同じように、アカデミック・セレブであり、だからこそメディア足りうる。繰り返そう。メディアはメッセージを伝える手段ではない。彼ら自身がメディアなのだ。古色を帯びたメディアは、新しいメディアのありかたを逆照射する。彼らのテクストが内蔵すると思しきメッセージを読み解くのではなく、彼らがいかに時代と同衾し、他の古いメディアと出会い、そのかたちをかえていった(transform)かを語ること。マクルーハンは、知識人がメディアになる時代、いや新旧問わずあらゆるものがメディアであるという認識のけものみちを先駆けた原‐メディアだった。*2
 テレビまでしか語れなかったマクルーハンスマートフォン時代の今この瞬間にも残存しているメディアであるということ。そしてその古いメディアとの出会いを通じて読者をメディアへと成型すること。画素の粗い、しかし感度の高いメディアになること。対象との批評的距離を確保できない、ひいては対象を対象として認識する人間的な主体が失踪した現代において、本書は、たくさんの巻き込まれたメディアたちを仲介する出会いの場となるだろう。そして衝撃を受け、麻痺し、新しさに触れるだろう。目で鼻で手で耳で舌で。ただし五感に腑分けできないクールで粗い触感として、束の間の新しさを軽薄にも受け容れるだろう。次の新しさに巻き込まれるまで。*3
 
 
 

物語「メエルシュトレーム」の水夫は最初恐怖で麻痺させられる。しかし、まさにそうした麻痺のなかで、もうひとつの魅惑が湧き起ってくる。すなわち、切り離された観察の力であり、それは渦巻の作用への「科学的」関心となる。そして、これが脱出の手段を与える。ポーにあってはいつもの如く、話はさりげなく無造作に進められる。まるで育ちの良い上流社会の人間のおしゃべりのように。しかし、この寓話でポーは探偵自身の謎をそのままのかたちで保存している。ポーの水夫は分析というレトリックによって渦巻から逃れる。探偵は同じやり方で殺人者を産み出す。そして、それと同時に探偵は、科学的態度に関連する切り離された力という感覚を授けることで、読者が読者自身の世界の恐怖から「逃れる」ことを可能にする。少なくともこの限りで推理小説には、スウィフトが人間にとって大切なものとして注目した幸福の公式が是認されていなければならない。すなわち、永続的にうまくだまされ続けていることの所有である。*4

*1:ウィキー『広告する小説』が19世紀後半からモダニズムに至るまでのスパンで語る、文学に寄生した広告、そして内側から文学を食い破る広告、というテーゼは、マクルーハンのテクストにおいてはっきりとした像を結ぶように思われる。

*2:ペルニオーラ等のラディカルな感性論ともよくなじむ議論だろう。

*3:本書は五感の原器となるこのような感覚を皮膚に局限されない触覚的なものとして論じているが、techtile研究から言葉を借りて「触感」、あるいはヘラー=ローゼンに倣って「内的触発」(inner touch)と呼ぶ方がよいだろう。

*4:探偵の原型として、ポーの「群集の人」を挙げたベンヤミンの慧眼をポー研究が発見したのは、驚くべきことに21世紀に入ってからのことだった。「メエルシュトレーム」に探偵の原型を見出したマクルーハンの慧眼をポー研究が発見しているかどうか、わたしは寡聞にして知らない。