ハリネズミの温まり方

堀尾寛太「目的の設計」

pryo.jp

 

2018/10/20(土)17:00-18:30 ライヴ@川棚の杜・コルトーホール

施設案内│下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜

[出演]

heirakuG(平樂寺昌史)

G-RECORD Inc.

堀尾寛太

HORIO Kanta

 

 下関駅から山陰線に乗り換えると徐々に車内は冷えていく。日本海の匂いがした。

 川棚温泉駅に降り立つ。肌寒い。秋は終わろうとしている。

 川棚の杜を目指してまっすぐ歩く。だんだん体が温まってくる。

 分岐路に突きあたる。スマホは持っていない。手書きの地図だと右折して40号線を真っすぐ行くことになる。けれども目の前には川棚温泉と大書した看板が見える。一抹の不安を覚えつつ、地図に従う。

 真っすぐ進む。車が行きかう。少し上り坂。温かさを通り越して、体は放熱を始める。汗が滴り落ちる。車道の雰囲気と地図に書かれた位置関係から、いよいよ川棚温泉から遠ざかっていく気配が濃厚になる。農作業を終えて帰り支度をしていた老夫婦に道を訊く。やはり道を間違えた。来た道を引き返し、温泉街道とかなんとか書かれた案内板を見て右折して右に森を見ながら進んでいくといかにも温泉街という風情の建物に出会うようになる。念には念を入れてパン屋の主人に道を訊くと、「あの変な建物だよ」と教えてもらう。見間違えようのない変な建物。

 もうライヴは始まっている時間だろう。いかんせん時計も持たない主義なのでどれぐらいの遅刻かさえわからない。わき目もふらず件の変な建物のなかを直進し、予約していたチケットを購入、受付の方に案内されて、同じく遅刻した同志たちとコルトーホールのなかに素早く入る。子どもたちも一緒だ。

 扉が開くと中は真っ暗、目の前には線形のユニットが幾何学模様のなかにいくつか収まっていて、それらがズームインしたりズームアウトしたり、近接したり、遠ざかったりしている、こっそり進化を遂げたインベーダーゲームのプレイ動画のような映像が壁面に投影されていた。といっても配管が剥き出しになっている壁面はスクリーンとしてはあまりにも歪で、二次元の映像から土管サイズの管が飛び出してくる恰好になっていた。ほどなくして、電子音の連鎖がときおり途絶えつつ聞こえてくるようになる。

 歩き疲れたし、演奏中に客席まで向かう蛮勇に欠けてもいたので、入り口近くの手近な壁にもたれかかってへたりこみ、汗を拭きながら電子音が音楽になっていく様子を伺うことにした。

 右手に客席、左手にパフォーマーという並びのようだ。パフォーマーのメガネは妖しい光を湛えている。Macのリンゴマークが暗闇に浮いている。なにやら操作をしているらしい(後で聴いた話だけど、映像を動かして音楽を演奏するという趣向なのだそうだ。つまり、映像は楽器のようなもの)。画面上部にはドイツ語らしき文字列が次々と現れる。

 ほどなくして、映像のスケールが大きくなる。色とりどりの、角ばった針金のようなものに結ばれた星座のように見えた。それまでの映像はこの巨視的な宇宙の一部であったことが察せられる。スケールが変わっても電子音楽の質は変わらない。そしてドイツ語らしき文字列の介入も変わらない(後で聴いた話だけど、これはウィトゲンシュタイン『論考』の引用らしい)。マリリン・ストラザーン(カントールの塵)か、と構造を捉えて思ったけども、それはたぶん電子音楽を記述する言葉を僕が持たないせいだろう。子どもたちも楽しそうに映像を眺めながら、音楽に身を委ねている。

 ほどなくして、今度は円形の構造体が登場する。爆発(explosion)というか爆縮(implosion)のようだ。円形が内側へとさざ波を立てる。爆発音のような電子音が音楽にとって代る。どこにも解放されることなく、いつまでも内へ内へと力が溜まっていく。映像の右手にはworld〇: personal〇~という記号の列があって、数字の変化に従って、映像や音楽も変化しているように感じられる。やがてスケールが変わったのか、それとも円が解けたのか忘れたけども、ほとんど無限とも思える点の集合が現れた。星雲のようでもあるし、砂粒のようでもある。もしかしたら先ほどまで見ていた「爆縮」が起こっていたのは、このほとんど無限にも思える点のうちのひとつだったのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、heirakuGさんは楚々とMacのディスプレイを閉じ、小さく「ありがとうございました」と言い残して立ち去った。明転と拍手の合図だった。

 ここで休憩が入った。僕はタバコの箱を掴んで外に出た。右手の方を見ると、微かに夕焼けが空で滲んでいて、飛行機雲が一条たなびいていた。願わくば飛行機が無事に飛んでいった形跡であってほしいけれども、墜落の形跡だと言われたらそうですねと相槌をうってしまうほど、行き先の分からない飛行機雲だった。知人と少し喋って二本分のニコチンを補給した僕は、再び会場の中に戻った。

 会場は明るかった。巨大な配管が天井や横壁からにょきにょきと生えていて、なにか得体の知れないものの内臓のなかのようだった。コルトーホールは予算不足のおかげで臓器になった。できることなら、この空間が脈打ち、動態的に生きていてくれたらとさえ思ったけれども、建築にそこまで望むのは酷というもの。このインフラはとても堅そうで、生体としての可塑性やホメオスタシスは望めそうもなかった。でもこのつくりかけの、なんなら少し失敗した感じの臓腑らしさがよいのだ。いかにも目的が未定で、いかにも先がありそうで。

 果たして堀尾寛太が目的を設計することになるのだろうか。僕は客席最前列中央に相当する、地べたに置かれた分厚いブロックの上に腰かけた。よくわからない部品や道具がパフォーマー側の長机の上に、床に置かれた荷台の上に、あちこちに転がっている。堀尾さんは、長机の上に設置された電球のようなもののまわりになにかを巻きつける。セッティングは終わったとばかりに消灯をするが、少ししてもう一度明転する。少し手探りな感じがする。ややあって暗転すると、小さな箱のなかになにかを投げ入れる。ルーレット台を玉が高速で転がっているような音が延々と続く。電球のあたりから垂れ下がったイヤホンのようなものが、コロコロカラカラという音を拾っているようだ。それから慎重に距離を測り、微修正を加えながらまわりに小さなオブジェクトを置いていく。スピーカーのようなものやマイクロフォンのようなものが載っている。やがてイヤホンのようなものが回転を始める。周囲のオブジェクトに触れるか触れないかという距たり。イヤホンは音を拾うけれども、ヒュンヒュンという回転音を立てる役回りも演じている。ときどきオブジェクトをイヤホンに近づけて当てたり、別のオブジェクトを足したり、既存のオブジェクトを引いたりしながら、どんどんサウンドのありようが変わっていく。古いラジオから流れる民謡を補完するお囃子が聞こえる。

 やがて道具箱のなかから、針金やら紙コップやらよくわからないもので構成された、発作的で断続的な痙攣をする小道具が出てくる。どうやってつくったのか、まったく意味が分からない。意味が分からないが、やがてすぐ近くにある箱のなかの何者かに干渉することで、赤や青や緑といった色を発するものであることがわかる。僕の目の前でその奇妙な物体の蠢きと網膜に焼きつくような激しいフラッシュが繰り返される。テレビだったら、「光の激しい明滅がうんたらかんたら」というテロップが出る局面だが、なにしろ堀尾さんはそのよくわからない装置の周りに、これまたわけのわからない、穴のなかで小さなものが回っているお団子サイズのオブジェクトや、基板のようなものなど、さまざまなものを慎重に並べ始めている最中なのだ。わけがわからないが、くるくる回るオブジェクトの影絵が右の壁にできていることは確かだ。そうしてだんだん、間隔がばらばらに設置されたいろんなオブジェクトのいろんな動きと光と音によって、暗闇の中、このホールの全体を見回すよう導かれる。天井にはいつの間にか、稼働中のシーリングファンの影絵ができていた。左の壁にも影絵が。こうして僕は、この未完成の空間で行われるさまざまな遊びが、未だ目的を与えられていないなにかを見つけるように促されているように感じた。オブジェクトの微妙な距離、角度、位置の変更によって変化する音や風景。ハリネズミたちの距たりを調節しているようだ。堀尾さんはたびたび小さな失敗を犯し、そのたびにやり直す。他人との距離を測りかねて、つながりや切断をオン/オフの二極で考えてしまう僕たちのために失敗しているようにも見えた。もちろん遊びのなかで試行錯誤しているようにも見える。どちらでもいい。とにかくオン/オフの二極のあいだには無限に遊ぶことのできる余地がある。

 それからもなにかがいろいろとあったような気がする。忘れてしまった。けれども忘れてしまったのは僕のせいではない。堀尾さんのせいだ。最後に堀尾さんはブロアーの先っぽに細くて長い、二メートルはあろうかという筒状のビニールを差し込んで、送風を始めてしまうのだから。手を筒のあちこちに添えると、筒は折れて天翔ける稲光のように予期しない方向に伸びていく。ブロアーの強弱のスイッチを切り替えると、ビニールの筒は不規則に変形しながら、びゅんびゅんと闇の中を飛び交う。お忘れかもしれないが僕は特等席の砂かぶり席に座っていたものだから、筒の先端が帽子に直撃したり、頬を掠めたり、それはそれは賑やかだった。丁寧な距たりの調節という僕の頭を支配していた仮想のコンセプトを、このブロアーパフォーマンスが見事に打ち破った。これぞ機械仕掛けの神というやつだ。ずるい。けれど、この蛮勇が僕の求めていたものでもあったはずだ。ハリネズミのジレンマを克服するなら、さっさと針を抜いてしまえばいい。この真っ暗な内臓のなかで、僕はここでしか見れないもの、聴けないものを見聞きし、とうとう最後には見えない管が飛んでくる感覚を肌で触知することになった。

 種明かしはない。目的を設計するのはheirakuGさんでも堀尾さんでもない。たぶん僕だろう。パフォーマンスや作品は事実上未完成だからこそ、アーティストは作品をつくり続けることができるし、その作業をたまさか誰かが引き継ぐことになる。だから僕は、アートのことはろくに知らないくせに、これを書いている。子どもたちも一緒に楽しめるイベントは素晴らしい。それぐらいのことしか確実なことはわからない。

 僕はここで今回のイベントに参加するという目的を達成したつもりでいた。ところがトイレで堀尾さんと並びションをしたときに挨拶をしたら、いろいろなことが起こって、今回のイベントの主催者である増田玲子さん(Permanent Reality代表 PR Ryoko MASUDA | Music for Happiness, Happiness for Life)の車に乗っけてもらったばかりか、増田さんが経営する青木屋ビル一階にある、その名も「カフェ 青木屋ビル一階」(Google マップ)で行われる打ち上げに交ぜていただけることになった。初めて会うのに異物だと感じる必要のない、温めあい方の上手な人たちと一緒に、日にちが変わる頃合いまで楽しく語り合った。

 そういうわけで、僕はとてもいい週末を過ごした。