「カトリーヌ・マラブーとの対話」(聞き手:ノエル・ヴァハニアン)

 当該インタヴューの原文はこちら(pdfファイル注意)→http://www.jcrt.org/archives/09.1/Malabou.pdf#search='JCRT+9.1'

 カトリーヌ・マラブーの略歴は「哲学の劇場」(http://www.logico-philosophicus.net/profile/MalabouCatherine.htm)を参照。
 マラブー来日講演の模様は「哲劇メモ」(http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050705/p1)を参照。
 心身問題の系では「作品メモランダム」(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050627)を参照。
 目下、邦訳文献は、

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)

の三冊。

 
 以下、インタヴューでの問いかけが狙いとしているのは、カトリーヌ・マラブーの業績と哲学的視座とを、彼女のことを聞いたことがなかったり、彼女がデリダの指導学生だったことしか知らなかったりするような読者諸氏に紹介するということです。とはいえ、このインタヴューによって明らかになってほしいとわたしが願っているのは、マラブーがいいタイミングでしかも手際よく、脱構築を「フォロー」している、ということなのです。というのも、他はともかく少なくともアメリカの批評家たちが異口同音に脱構築へ課す責任のひとつは、脱構築がテクストを無限の解釈に開くことによって、残念ながら大きな物語たち*1 を放逐する以上のことをしでかした、というものです。つまり脱構築は、政治的な自由 [political agency] をアイデンティティ・ポリティクス*2 の泥濘に落とし込み、社会も歴史も政治もテクストに作られた構築物である*3、 という袋小路を脱する道はといえば、よく見積もっても信じることにしか根拠のない希望の他になにも残さなかったというのです。でなければ単に信じる意志、つまり、他者に胸襟を開く態度が、他者を多数者の言説群の仲間に入れることを許すとはいえ、その際多数者の言説群を脇に追いやったり、それと他者とを十把一絡げにしたりはしないだろう、ということを信じる意志でしょうか。
 どのようにマラブー脱構築を「フォロー」しているのでしょうか? 実際、彼女はデリダとの係累[affiliation]を否定はしていませんし、あっさりとテクストの外部が存在しないことを認めてもいるのです。しかし同時に、彼女は自分の哲学にヘーゲルが深甚なる影響を与えたことを肯定しもするのです。彼女はヘーゲルから自身の哲学の中心となる概念、可塑性の概念を借用しています。つまり主体は可塑的なのであり(伸縮自在というわけではない、主体のもともとのかたちへと遡ることはありえない)、主体はまわりに流されやすいものではありますが、主体の方から外に飛び出たり、自らを新しく作り変えたりできるものなのです。このような流れで、テクストの外部は存在せず、テクストは自然のものというより文化のもの、生物学的なものというより精神的なもの(もしくは心的なもの)、物質的なものというより歴史的なもの、ということになるのです。つまり主体は、徒になすがまま、ある時代の社会‐歴史‐経済的構築物(モダニティの絶頂なら理性的で自律的な主体、ポスト産業化・グローバル世界なら高度に順応的で、柔軟で、規律のある主体)であるというわけではありません。むしろ主体は、あがきようもない決定論に対し、彼女の独創性の中心に銘記されたとある弁証法のおかげで抵抗することができるのです。だから、マラブー脱構築の「フォロワー」なのは、彼女が≪創発主義≫*4 を肯定し、その上その肯定によって、脱構築(≪差延*5 )の限界を「可塑性」と共に乗り越えることができる、という点においてなのです。
 しかし、デリダヘーゲルの「フォロワー」である、というような自家撞着的なマラブーの評価は、適切ではありません。公平を期すなら、彼女は神経生物学と神経科学の「フォロワー」でもあると付け加えることもできるでしょう。彼女がこれから訴えるのは、主体がニューロン的主体だということでしょうし、昨今の神経科学研究と足並みを揃え、そのような主体は可塑的である、ということにもなるでしょう。彼女が訴えるのは、資本主義社会は脳のニューロンの組成を引き写したものであり、脳も資本主義社会の引き写しであり、それは両者ともが中心を欠いており、高度に順応的で柔軟である点においてそうなのだ、ということになるでしょう。彼女は生物学的に決定された脳に自己の起源を置くでしょう。しかしながら他方で、科学言説がそのイデオロギーパラダイムを否定し、可塑性の神髄を括弧に入れて留保してしまう、というその還元主義的傾向を自覚してもいることでしょう。ニューロン的主体は従順で、融通無碍で、適応力が高いのですが、彼女が強調するのは、その主体には抵抗や反抗をする能力もあるということです。だからマラブー哲学のプログラムは、心と神経科学のひどく型に嵌った哲学のプログラムとは違い、なんらかの方法でニューロン的主体をいっそう従順で規律のとれたものに仕立て上げることによって、資本主義的なイデオロギーパラダイムを格上げするようなことには係わりません。そうではなく、マラブーのプログラムは、自分たちの脳、自分たちの主体性の責任を、ひいては自分たちの社会の責任をとるよう心の底から訴えかけることに係わっているのです。わたしたちには実行する能力があるのです。わたしたちの脳と思考、ニューロン的なものと心的なもの、自然なものと文化的なもの、これらの連続性の存在を否定することなくできるのです。むしろ、こうした連続性には矛盾がつきものであることを認めること、つまりニューロン的なものから心的なものへ至る過程は争点となる場であり、その場で自由が確立されるのもまさしく脳が生来可塑的なものだからだ、ということを認めることによって、マラブーのプログラムはわたしたちにとって実行可能なものになるのです。


 当該のインタヴューは、2007年7月、パリにあるマラブー教授のアパートで行われました。マラブー教授のおもてなしと文字起こしを手伝ってくれたカリッサ・デヴィーヌに感謝の意を表したいと思います。


 ノエル・ヴァハニア:あなたは哲学者であり、哲学の教授であり、ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法Counterpath: Traveling with Jacques Derrida (Cultural Memory of the Present)The Heidegger Change: On the Fantastic in Philosophy (SUNY Series in Contemporary French Thought)わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義の著者でもありますよね? あなたは晩年のジャック・デリダに師事していました。しかし、あなたは脱構築のフォロワーではない。そのため、もちろんのこと、脱構築自体に反対しておられるのかもしれない。あなたはどのようにして哲学者になり、どのようにしてデリダと仕事をするようになったのですか?
 カトリーヌ・マラブー:わたしは自分が哲学者になったなりゆきも、デリダと仕事をするようになったなりゆきも、同じようなものだと考えています。自分は哲学者ではない、と彼に会う前には言ったことがあったかもしれませんね。わたしは単なる哲学の一学生でしたし、私が彼に会ったときにすべては実際に始まったのです。他方で、あなたの言うとおり、わたしはどうしても自分を脱構築のフォロワーとして定義してしまいたくはなかったんですよ。フォローという言葉、「フォロー」の意味を定義しないうちはだめですね。「フォローすること」の問題は、デリダの著書The Post Card: From Socrates to Freud and Beyondにおける導きの糸のうちの一本となっています。この著書でデリダは、古典的な父子関係[filiation]の秩序、まず父でそれから息子や娘、というような秩序の土台を掘り崩しています。彼はこの秩序を掘り崩して、「フォローすること」が時に(あるいはおそらくいつも)「先立つこと」を意味することもある、ということを示しています。プラトンの口述筆記の許でソクラテスが書いていることを示すこの特異な葉書について考えてみましょう。「わたしはまだソクラテスの背後にプラトンがいる、という啓示的な災厄から立ち直れていません。わたしはと言えば、ずっとそのことを知っていましたし、彼らだって知っていました、ええ、ふたりともが、ということです。なんて組み合わせでしょう。≪ソクラテス≫がプラトンに≪背≫を向けて(プラトンを見送って[turn his back to Plato])いるのです。プラトンのほうが自分の好きなようにソクラテスに書きとらせ、一方でソクラテスからあたかもそれを受けとるかのようなふりをしているのです。」(12)
 では、フォローするということが必ずしも後ろからついていくということ、真似をすること、コピーをするということではないというのなら、フォローすることがなにかしら先取り[anticipation]の次元を含みもつのであれば、それが条件なら、自分を脱構築のフォロワーとして定義するのをわたしは受け容れることでしょう。*6
 NVデリダはかつて映画のインタヴューで、哲学者は哲学者の母にはなりえないだろう、というような趣旨のことを言っていました。ここでは[よく覚えていないので]デリダの言葉をパラフレーズしていくことになりますが。脱構築が哲学、理性、そして思考の父権的な同盟関係を変える、もしくは破砕するものであることを、彼は希っていました。そしてまあこういう事情ですので、わたしの記憶が確かであればということになりますが、哲学者はおそらくは、哲学者の娘にだったらなれるのかもしれません。だとしたら、その哲学者はどんな人なのか、どんなことを考えるのか、どんなことを書くものでしょうか? その哲学者はあなたの父と対立するような母となりうるのではないでしょうか?*7
 CM:もちろん、母のような哲学者は排除の謂い[a figure]となったことでしょう。ご存知のように、私はこのかた、有名な哲学者たちについて研究してきました。彼らは形而上学の歴史(その脱構築においてもですが)において中心的な位置を占めています。それとは反対に母なる哲学者は、疎隔された場、抑圧された地に由来することになるでしょうか。そのような母性は、それが存在するとしたらの話ですが、伝承の様式、遺贈の様式、遺伝の様式のようなものが存在することを仄めかしていることになりますね。そのような母に由来する様式は、哲学史の埒内で伝統的になされてきた用語[伝承・遺贈・遺伝]の定義には収まらず、また同様に、同じ理由で、母なるものの伝統的な理解にも収まらないものです。女性思想家のうちでこの点に関して最も鋭いことを言うのは、リュス・イリガライを措いて他にいないでしょう。彼女は伝統的に母なるものが「形相」と対立する「質料」、あるいは「物質性」と看做されていることを明らかにしているのですから。
 それどころか彼女が考えているのは、女性的なものはこうした二項対立そのものによって排除されていると同時にそのような対立関係には収まらないものでもあるということです。『問題なのは身体だ』(Bodies That Matter: On the Discursive Limits of Sex (Routledge Classics))で、ジュディス・バトラーはこう書いています。「イリガライの課題は、形相/質料の区別を、身体と魂の区別を融和させることでもない。[中略] むしろ彼女が力を入れているのは、こうした二項対立がかたちをとっていく過程、邪魔になる可能性がある領野を排除する過程を明らかにすることなのだ。イリガライによる形相/質料分断の歴史への介入は、女性的なものが哲学的二項性から排除される地点となる「質料」を際立たせている。」(35)
 ですからわたしの母となる哲学者は、こうした「構成的外部」、あるいは型に収まりきらない物質性の子供となるのでしょうね。
 NV:そのことを念頭に置きますと、あなたの哲学はなにかしら主体性の未来を思い描くものなのでしょうか? 哲学における正当な嫡子としての発言権を女性に許すような主体性を?
 CM:問題なのは、女性性の「本質」が存在しないということです。この言明には多くの女性思想家や著述家(ボーヴォワールクリステヴァ、ウィティッグ、バトラー・・・)が合意するところです。わたしが今しがた言及した型に収まりきらない物質性というのは、何かとして≪存在している≫とは言うことができないものです。そうでなければそれが存在論の限界を侵犯することなどできないでしょう。だからともかくも「女性的‐哲学的」主体性になりそうなものを作り出したり構想したりすることは不可能なのです。
 NV:なぜ不可能なのでしょう?
 CM:もう一度言いますが、女性的なものの存在論は伝統的な存在論のあらゆる症候を間違いなく帯びることになるでしょう。つまり、女性的なものそれ自体の排除です。周知のように、財産、礼節、主体性の言説、及びそれらについての言説は、存在の(おそらくその上存在者たちの)領域から女性たちを排除してきた当の言説そのものなのです。この点に関してイリガライにもう一度言及しましょう、「女性は本質でも、本質を持っているわけでもない」。
 他方、ハイデッガーによる≪現存在≫という主体の定義、つまり、女性でも男性でもない審級がありますが、ドイツ語の中性語である≪現存在≫であれ≪エス≫であれ、十分に満足できるものではありません。≪現存在≫はいまだ存在論的に硬直し過ぎたものなので、女性的なものを特徴づけることはできません。女性には本質はありません。しかしだからといって女性は中性だというわけでもありません。ハイデガーにおけるジェンダーのモチーフに関するデリダの決然たる分析に言及しておけば十分でしょう。*8
 NV:お言葉ですがあなたは哲学的にお書きになるわけで、特に主体や個人に相当するものについてお書きになるわけですが、あなたの理解ではこれが女性の声、哲学における女性の声を代表しているとお考えでしょうか? それともそれは、男性の中にいかにもそんなことを言いそうな人がいるような、そんな[男性から見た]哲学における女性の声を代表しているのでしょうか?
 CM:女性的なものにまつわる質料/形相問題について、わたし自身の考えを少しばかり述べてみましょうか。もしわたしたちが、いや実際わたしがそう思うのですが、女性的なものは質料/形相という二項対立の圏外にあるものとして生産される物質性のようなものだと考えるなら、哲学における女性の声は、この二項対立の内奥から(ずっとその二項対立の中に抑圧されてきたものとして)聞こえるか、もしくはまったく関係のない外野から聞こえることになるのかもしれません。周知のとおり、イリガライは覚悟を決めて哲学の基底を、そして哲学における理性の枠組みを、その著作において≪身ぶりで真似た≫(mime)のです。このような擬態は、形而上学の言説を顛覆するひとつの方法と目されるものでした。わたし自身、自分の思考を他ならぬこの言説のど真ん中に位置づけ、その内側に陣取ることにしました。これはとても古典的なやり方でして、この身ぶりになんら独創的なものはありません。
 わたしが可塑性の概念に賭けていると申し上げたこと、それはヘーゲルにおいては質料と形相の相互作用というよりも、形相と形相それ自体の相互作用、つまり形相と形相の関係のことです。『精神現象学』でヘーゲルが証明したのは、主体は可塑的なものである、ということなのですが、それが可塑的なのは、彼/女が形相を受け取る(受動性)ことができ、かつ形相を与える(能動性)こともできる、という意味においてのことです。こうした主体の存在様式が男性/女性間の関係を表象している、などということを証明するつもりは全然ありません。わたしが興味をもって証明しようとしているのは、この形相と形相自体との関係がなんらかの≪差異≫に基礎づけられているわけではない、ということなのです。ふたつの主体の存在様式はお互いに異なるものではありませんが、一方は自身の形相を他方の形相に変えるのです。可塑性によって、わたしたちは所与の差異に向きあっているわけではなく、形態変成の過程に向きあっているのです。つまり、ヘーゲルの主体はたえずそれ自体≪超越論的主体≫なのです。主体の形相はその質料なのです。
 知っての通り、ドゥルーズヘーゲルに対する痛烈な批判が前提としていたのは、弁証法が差異をなくしてしまうような論理である、ということでした。ドゥルーズの考えにしたがえば、矛盾によって差異が亡きものになってしまうと、弁証法とは無縁の差異による関係を抹消してしまうことになってしまいます。可塑性に取り組んでいるわたしだったら、差異を亡きものにする別の案を提示できますよ。差異を放棄するということは、つまり、ふたつの主体の存在様式間の関係を特徴づけるのに「差異」は適切な言葉ではない、ということなのかもしれません。
 こうした差異の不適切さをジェンダーをめぐる二元論的問題に引きつけるなら、「性的差異」の概念は厳密さに欠けると述べることになるでしょうか。ここではフーコーへと話題を変えたいと思います。ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)*9で、フーコーはいわゆる「超越論的主体化」の過程を強調しています(214)。それは自己の≪内奥にある≫[主体化の]軌跡にその本質があるのです。この超越論的主体化は、以前とは≪違った≫人になるということではありません。他人の≪差異≫を吸収できるということでもありません。そうではなくて、超越論的主体化というのは、自己の内奥でふたつの自己のかたちのあいだに[差異ではなく]余白(a space)を切り披く、ということなのです。つまり人は自己の内奥で、自己がとるふたつのかたちと≪対立している≫、ということです。
 フーコーはこう書いています。「自己の周りに余白を切り披き、周りを取り巻くあらゆる物音、顔という顔、人々に自己が夢中になったり気をそらされたりしないようにするのです。一切の注意を、自己から自己へ至るこうした軌跡に集中するべきです。自己の自己に対する現前(presence)に。他ならぬ自己と自己の間にまだ残り続ける懸隔に起因する現前に。」(222-23) 自己の内奥における旅として概念化されるこうした超越論的主体化は、かたちからかたちへの変容の産物なのです。フーコーギリシャ語ethopoieinを強調しています。「Ethopoienというのは、エートスをつくること、エートスを生産すること、エートスを変化させること、エートス、個人的な存在のあり方、存在様式のかたちを別のかたちに変えることです。」(237)
 それなら、自己と自己のあいだにある[内的]差異を消すかもしれないようなかたちの変容、つまり、自己の内奥で稼働しているふたつの形式が対立する結果、新しい自己を生みだしたり、生産したりするようなかたちの変容も存在するかもしれませんね。
 可塑性というのは、この超越論的主体化につけられた名前のことなのかもしれません。ヘーゲル哲学のなかに、弁証法を「ethopoiein」の過程として理解する可能性を見出すことになるかもしれません。可塑的な主体には、その存在のありようのかたちを変える能力があるのかもしれません。こうした可塑的な存在論は当然ながら、他でもないジェンダーの可塑性を巻き込むというわけです。
 以上が、ヘーゲル哲学における質料/形相関係の私的な解釈です。
 NV:これまでに偏見に出くわしたことはありますか?
 CM:あります。始めはずいぶん以前で、わたしがフランスでいう「準備クラス」の学生だった頃でした。わたしは高等師範学校の入試準備をしていました。わたしの担任教師が言ったんです、君は絶対に成功しないよ、だって女だから、と。わたしが聞かされてきたのは、哲学は男の領域とか男の世界、というものでしたね。それからというもののずっと、わたしは変わらず脱構築とセットで紹介されています、今でもですよ。たとえ脱構築とはぜんぜん違う話であっても、私がデリダの学生だったことに関する質問でもそれは変わりません。わたしの名前はいつでも男性の名前に結びつけられてしまうのです。わたしはヘーゲルの専門家、あるいはデリダの専門家として看做されてしまうのです。わたしはぜんぜん個人として評価されないのです。
 つけ加えておきたいのですが、わたしは社会的につまはじきになっていることにひどく悩んでいます。わたしはまだパリで准教授をしています。(他のすべての同僚よりたくさんの業績を残してきたというのに完全な教授ではありません)。アメリカ合衆国でもちっともサポートを得られないので、はっきりしたのはいわゆる「女性の共同体」とか「フェミニストの共同体」なんて神話だったということですね。
 NV:よろしかったら、先ほどの可塑性の概念の話に移りましょうか。というのもそれこそが、あなたのご研究で特筆すべき位置を占めているからです。可塑性にはどんな含みがあるのか、その霊感源はなんなのか、ご説明願えますでしょうか?
 CM:わたしが最初に可塑性の概念を見つけたのはヘーゲルでした。彼は可塑性の概念を『精神現象学』の序文で主体性を定義する際に使っています。主体はしなやかなもの(supple)でも柔らかいもの(soft)でもなく、堅いもの(rigid)でもなく、その中間にあるものなのです。主体は「可塑的」なのです。可塑的という言葉を辞書で引いてみると、物質(matter)の質とありますが、どういう質かと言いますと、流動的(fluid)であると同時に影響に抗う(resisting)ような質ですね。いったんかたちを得ると、物質は以前の状態には戻ることができません。たとえば、彫刻家が大理石を彫っているとしましょう。大理石に一度鑿が入ると、覆水盆に返らずというわけです。というわけで、可塑性が非常に興味深い概念なのは、その概念があらゆる種類の影響に開かれていることとそれに対して抵抗することを同時に意味するからです。
 NV:可塑性の観念の起源はヘーゲルにありますが、それはヘーゲルの曲解(a corruption)でもありますよね。それからあなたは神経生物学を自身の哲学に組み込むことによってこの曲解をやってのけている。神経生物学に関心を持たれた理由、それからそれによってなにが得られたのか、ご教示願えますでしょうか?
 CM:「可塑性」はヘーゲルの曲解ではありません。先ほど申し上げましたように、可塑性は超越論的主体化を思考するための場なのかもしれませんが、わたしの話は曲解ではありません。神経生物学とヘーゲル哲学は一見したところ遠く隔たっているように思いますよね。ところが、「可塑性」の概念は、双方の研究領域で主要な役割を演じており、同じことを意味しているのです。つまり可塑性の概念は、ある種の有機体の特徴づけるもの、つまりは≪システムの≫可塑性なのです。ヘーゲルにおける絶対知、絶対的主体性のシステムと神経生物学における神経システムとのあいだにある違いは、それほど大袈裟なものではありません。それは同じ存在様式、同じ機能、同じエコノミーなのです。この点に関しては、自著『私たちの脳をどうするか』を参照することに致しましょうか。この著書でわたしは、可塑的なシステムになっている別々の有機体同士のあいだに共同性(community)があることを訴えています。
 それにこれもまた一目瞭然のことなのですが、最新の神経生物学が主体性に新しい見方をもたらしているんですよ。大陸哲学の人たちはいつも斯界を腐してきました。曰く、「いいや。それはわたしたちには関係のないことだ。分析哲学の問題だろう。アングロアメリカの哲学者たちの問題だろう。」とね。デリダでさえ、斯界には極めて苛烈な言葉をぶつけていました。彼が言うには「約束」の概念*10 は神経生物学とは相容れない、神経生物学が関係するのは「プログラム」の観念だけだ、と。約束とプログラムの対立は脱構築されなければなりませんね。というのもそれこそ脱構築そのものの限界点をしるしづける(mark)ものですから。
 NV:では、脱構築は神経生物学や神経科学に抗ったり、そういうものに対して壁を作ったりするようなものだとお考えですか?
 CM:大陸哲学や精神分析家のような人たちが、神経科学一般に影響を及ぼしていた四角四面な還元主義的傾向と戦うことが正しかった時代がありました。神経生物学は完全に自閉しておりまして、大陸哲学の理論、構造主義、それにポスト構造主義にもなびかなかった分野でした。しかし50年ほど前に、状況はすっかり変わったのです。ここでマーク・ソームズ、オリヴァー・サックス、アントニオ・ダマシオ、エリック・カンデルあたりの科学者にふれておきましょうか。マーク・ソームズとオリヴァー・ターンブルの脳と心的世界―主観的経験のニューロサイエンスへの招待 の序文で、オリヴァー・サックスが思い出させてくれるのは、ソームズによれば、精神科学はフロイトにとって「過渡期」(ソームズの処女作でマイケル・セーリングとの共編著のタイトルがA Moment of Transition: Two Neuroscientific Articles by Sigmund Freud でした)になっていたかもしれない、ということです。「これは、当時の神経学的(そして生理学的)な説明ではまったく適格ではない事情があったためだった。原理上、神経生物学な説明と些かなりとも敵対したというわけではない。フロイトには、精神分析と神経学をどんなに統合しようとしてもまだ時期尚早だろう、ということがわかっていた。【中略】 神経学は自力で機械論的な科学から脱し、進歩しなければならない。「機能」や中心といったお仕着せの言葉を使った思想、骨相学の後継学問のようなものから脱して、臨床的アプローチをもっともっと洗練させ、論理的思考力をより深めて、しばしば脳に広く分布し、常に互いに働きかけあっている複数の機能システムに鑑みた場合に神経学上の難問となるものを、もっと力学的に分析できるようにならなければならない。」(viii) さらに神経学はもう「微視(subtility)の時代に突入」している、というわけです。サックスは畳みかけます。「それならソームズのアプローチは、二つのことを同時になすアプローチということになる。つまり、脳に損傷を負った患者をこれ以上ないほど詳細に神経精神科学的に分析すること、それからその成果をモデルとなる精神分析に委ねるということだ。そうするとうまくいけば、【中略】 脳の諸機制と患者の内面世界を統合できる。」(ix)
 それなら、今言ったような神経学の開かれた定義を批判するのは極めて困難です。それに「神経学‐精神分析的」潮流を唱道するひとの多くは、自分たちがやっていることを認識するために哲学の伝統を受け容れるのです。たとえばダマシオのデカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ といったよく知られた著書などは、ともかくも大陸哲学の伝統に棹さしていることをあからさまに公言しています。デリダにはそうしたことをしっかりと自覚する時間がなかったのだと、わたしは思います。
 もう一度いいますが、デリダによるプログラムと約束の差異化は、もはやわたしたちが信じることのできない区別なのです。機械――パスカルが最初に言ったのだと思うのですが――だって約束できるのです。パスカルの『パンセ』の一節で誰かがこう言うのを御存じでしょう。「ええしかし、わたしが神を信じていないとしたら?」 パスカルは答えます。「ただ跪いて、機械的に祈りの言葉を繰り返せばよい。さすれば神は訪れるであろう」。これこそ機械に内蔵された約束です。機械的なものとメシア的なものとのあいだに線を引くことなど実際にはできません。これは同時に脳の、そしてコンピュータのとてもおもしろいところでもあるのです。ダニエル・デネットのような俊英が今日明らかにしているのは、コンピュータは可塑的だと言えるのかもしれない、ということなのです。
 NV:あなたの最近の脳についての業績に明るくない方々のために訊きますが、盲目的な脳(the blind brain)をフロイトのいう無意識から区別したのはいつのことなのですか、それが重要なのはなぜですか? フロイトのいう想像的な無意識とは対立する生物学的に決定される無意識という観念――盲目的な脳――は、主体の自由を脅かすことには、つまり生まれつき人の性向は決定されているというような考えの先触れとはならないのでしょうか?
 CM:脳が完全に決定されているわけではない、というのは非常に重要な発見でした。脳の解剖学的構造のうちにはもちろん遺伝的にプログラムされているものもありますが、神経組織の重要な箇所は外からの影響に開かれていて、最終的にさまざまな影響や相互関係に自らを披いていく(develop)のです。ということはつまり、脳の構造上重要な箇所は生き方やその人の経験に委ねられている、ということになりますよね。歴史が生物学的なものの内部に書きこまれているのです。以上が、脳に応用した場合の「可塑的」の定義です。
 NVフロイトを論じた最新作について紹介してくださいますか?
 CM:最新作のフランス語のタイトルはLes nouveaux blessésです。少し翻訳する必要があると思いますが。(「新しい怪我を負ったもの」や「新しく負傷を負ったもの」というよりは)「新たな怪我人たち」、「新たな負傷者たち」といったところでしょうか。では『新たな負傷者たち』(The New Wounded: From Neurosis to Brain Damage (Forms of Living))と呼んでおきましょう。*11 外傷や負傷、脳の損傷といった精神分析が一顧だにしないようなことについての本です。脳の損傷や脳の病理学(アルツハイマー病やパーキンソン病)について省察した本ですが、それだけではなく、トラウマ一般(PTSD、あらゆる類の「社会‐政治的」トラウマとわたしが呼ぶようなもの)について考察した本です。今日の神経学がどの程度フロイト的なトラウマや心的な苦痛の概念を拡張するのに役に立つか、そういった問題ですね。『快原理の彼岸』でのフロイトは、快原理を超えるかもしれないもの、この「彼岸」(beyond)が正確にはどんな意味なのかを定義し損なっているように見えます。神経学から見たトラウマは、この原理の彼岸に向かい、快とは全く関係のないもののあらゆる重度のトラウマと関係しているなにかを開示するのです。本書は愛憎や内的な葛藤ではどうしても説明できないような外傷を考察したものです。
 NV:では、トラウマの外傷というのは、単に心的な外傷というより、物質的な外傷なのでしょうか?
 CM「物質的」と「心的」の違いがとても僅かなもの、おそらくは存在しないものであることを認めることができるのであれば、つまり、脳と心的なものとをあまりに懸隔のある、あまりに判然と分かたれた審級としてみなすことが不条理だという意見の一致をみるならば、前進したことになるでしょうね、ずいぶんと・・・。
 今日周知のことですが、あらゆる重度の衝撃、そうですね、戦場での外傷、シェルショックもそうですが、まったく身体的な外傷がなくても家庭内のトラウマだったり、しつけと称する虐待だったり、そういうものが該当するわけですが、ええ、そうしたあらゆる重度のトラウマは、前頭葉に位置する「感情的な脳」と今では呼ばれるものの内部に損壊をひきおこすわけですね。この物質的な損壊によって、誰が見ても明らかなほど、心の一部が変わってしまったり、あるいは心が様変わりしてしまうようなことになってしまいます。心の病と神経学的な病とのあいだのフロンティア、境界の話はそれでもうおしまいというわけです。
 NV:おもしろいですね。
 CM:おもしろいんですよ、本当に。軍事精神療法のおもしろい本をたくさん読みましたよ。とってもおもしろいんですが、ヴェトナムの退役軍人に起こることや今ならイラクに行った兵士たち、つまりまあ戦場で起こること、それだけではなく、捕虜になったとき、爆撃を受けたとき、たとえば家にいて突然ガス爆発に遭ったとき、まあそういうあらゆる見かけ上異なる状況で起こることにも共通点があるんです。それらは違って見えても同じショックであり、同じように人の心を変えてしまうというわけです。
 NV:可塑性の概念に話を戻すことになるのかもしれませんし、それは脳の損傷の話と繋がるかもしれませんし、プログラムのなかに希望もしくは約束がある、というようなお話に戻ることになるかもしれません。神経科学、可塑性の概念、そうしたものは、どのようにして主体性の力学を再考することに寄与するのでしょうか? つまりですね、単独の個人(the singular indivisual)が常にすでに抹消に脅かされているのではなく、生産され、確認されている、つまり、矛盾することなく、疎外されることなく、公的領域に雲散霧消することなく、単独の個人が公的な個人になるというわけですよね。そうでないとしたら、単独の個人の雲散霧消、あるいはそれと公的な個人との軋轢は避けられないものなのでしょうか?
 CM:神経学の、神経生物学の本を読んだおかげで、死についての哲学的な思考にいくらか変化があることを自覚するようになりました。特にハイデッガーのいう「死に向かう存在」(being-toward-death)の観念のかたちが変わってしまいました(A transformation)。*12 ハイデッガーが言うには、死はあらゆる契機に可能な(possible)ものです。神経生物学がわたしたちに意識させるのは、脳に損傷を負ってわたし自身の形態変成(metamorphosis)が、あらゆる契機に起こりうる(possible)という事実です。つまり、主体の損壊のようなものが存在するということです。それは死ではなく、別様の≪可能性≫(possibility)なのです。たとえば、脳に衝撃を蒙ってひとつの主体として損壊を受けるということが意味するのは、別人になるということです。あらゆる契機において別人になってしまう可能性、それもあらゆる人が平等にそうだということです、というのも、もしある種の人々がそのような損傷の被害者になりやすい人々であるということが分かるのであれば、それはあらゆる人がどの契機においてもこうした損壊を人にもたらす可能性があるということをわたしたちがわかる、ということでもありますよね。すると、この可能性によってわたしたちの主体の考え方も変わります。死すべき存在であるという事実とは別に、可塑的な存在であるという事実が意味するのは、すっかり別のかたちをした存在になり、別人になることができる、ということなのです。たとえばダマシオなら、自分の患者の一人についてこう言うでしょう。「エリオットはもはやエリオットではなかった。」だから、主体性があらゆる契機に雲散霧消してしまう危機に瀕しているというのは避けられないことであり、この霧消は死ではないのです。どこか違うのです。
 NV:怖いですね。
 CM:ええ、とても怖いことです。しかし同時に、備えをしたくないせいで、わたしたちはいつも無防備なのですよ、ええ、誰かがアルツハイマーなどの病気を患う場合でも。どうすべきかはわかりませんが、これは不断の存在論的な可能性の話なのです。カフカの『変身』などいい例です。別人になる、朝起きたら別人になるという。わたしにしてみれば、これは現下、神経生物学の重大な形而上学的教訓です。脳の損傷を自分とは関係のない特異な可能性として考えるのではなく、病院での稀有な出来事として考えるのではなく、そういう出来事をいつでも起こりうること(a constant possibility)として考えるのです。
 NV:不断の存在論的可能性をもつ主体の話が出たところで、自己とは何なのか、教えて下さいませんか?
 CM:自己ですか? とてもいい質問です。というのも自己はすっかり定義し直されているからです。たとえばダマシオは、自己は全であると同時に無であると言っています。自己との対話の最初の一歩になるのが、「元気かい?」「元気だよ」「元気かい?」「元気だよ」、のような、心臓の鼓動のようなものですね。そういうものが、生のさまざまな過程を、自己のかたちを通じて知ること(self-information)、つまり身体と魂とのあいだのごく初歩的な対話なのです。あらゆる契機に、この儚い対話の審級は変容したり、傷を受けたりする可能性があります。そしてこれが自己‐対話である一方で、同時にこのインタヴューの冒頭で申し上げたように*13、自己‐対話は自己を引き写しはしません。それは思弁的な審級ではないのです。*14自己を鏡像として映すことはできないのですから。実際には自己を視ることはできないのです。自己は自己を視ることはできないのです。
 NV:ではダマシオによってもたらされた自己の解釈から何を引きだしますか? これはよいものなのですか?
 CM:ええ、つまりはわたしたちの内奥に書き込まれた脱構築です。主体性の生物学的脱構築です。この意味で、あなたが言うとおり「よいもの」ですよ。
 NVパラフレーズになるかもしれませんが、もう一度お願いします。では何が自己を構成しているのですか? 本物の、単独のアイデンティティや主体性は存在するのですか? それとも自己というものはいつでも公に現われる現象のようなものなのでしょうか?
 CM:もちろん、自己のかたちによって自己を知る(self-information)一般的なプロセスは、すべての人に共通しています。だからそういう意味では、自己は普遍的な構造だということです。しかし他方で、脳は自己を作り上げながらこの普遍的な構造から離れていく、ということを前提とするなら、それなら普遍的な構造を基礎とした自己への働きかけ(auto-affection)、つまりわたしたちが自己のかたちを自己に対して知らせ(informed)続ける流儀は、いつも人それぞれということですね。普遍と単独とのあいだに線を引くのは、ここでは無理ですよね。共通の構造は存在しますが、同時にその構造が生起する方法は、わたしとあなたとでは同じではありません。自己は実体ではまったくないのです。
 NV:個人的なものと公的な領域との関係についてなにかおっしゃりたいことはありますか?
 CM:神経生物学における最新かつ主流の研究が解き明かしているのは、新種の脳構造なのですが、それはあらゆる今日の有機的組織体、まあ、たとえば社会ですね、そうしたものを理解する上でモデルとして働くかもしれないのです。この点でわたしはジジェクが考えようとしていることにとても近いですね。彼は、新しい唯物論を模索していると言っているんですが、その唯物論は、ひとかたまりとしての、いかなる超越もない閉鎖的な全体性としての社会の概念を含意しています。これは特に斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ で彼が展開しているようなことでもありますね。
 わたしはまったく超越を信じていません。わたしは絶対的な他者のようなもの、なんらかの超越、他者への披かれといったものを信じていません。つまり、ヘーゲル主義者としてのわたしがジジェクと共に確信しているのは、わたしたちがある種、閉鎖的な有機組織体的構造のなかに生きており、社会は主要な閉鎖構造だということです。しかし他方で、この構造は可塑的でもあります。ということは、この構造の内部にいるわたしたちには、この構造が持つ硬直性から逃れるためのありとあらゆる可能性がある、ということでもあります。脳で起こることはそうした社会で起こることを理解するための範型なのです。わたしたちはニューロンのように組成された社会に生きているのです。わたしだけがそのような主張をしているわけではありませんよ。ニューロン的なものは、社会的なものについて考える、社会と社会的関係を考える範型となっているのです。というわけで、疑問の余地なく、社会というのは閉ざされた有機体です。このとき、「閉ざされた」を、超越できない、絶対的な他者へ至る出口はどこにもないという意味で解することです。しかし他方で、この閉ざされた構造が自由、あらゆる個人の為すこと、抵抗といったものに対立するわけではないのです。なので、そのような構造のなかにいる個々人すべてには、それぞれの配役がある、と思います。
 NVニューロン的構造のお話ですが、≪テクストの外部≫(hors-texte)は存在しない、ということでも構いませんか?
 CM:存在しないと同時に存在します。デリダの場合、≪テクストの外部≫は存在しない。しかし他方で、デリダの思想には外部のようなものがあるのです。全体として開かれた空間が。まったき他者(utterly other)、あるいは「絶対的な到来者」(arrivant absolu)の空間が。
 NV:そうするとつまり、あなたのいうニューロン的構造の観念と「テクストの外部」は存在しないということ、両方を念頭に置いた場合、脱構築に政治的な自由(political agency)の終焉を見る批評家たちにあなたならどう返答しますか? この種の全体性*15が拱手傍観の態度、あるいは相対主義には繋がらないだろうか、疑問に思う人もいるでしょう? 根源的で予見することのできない他者への愛や欲望といったメシア的な身ぶり(a soteriological gesture)がこうした閉鎖構造を間違いなくこじ開けるはずだ、とするような人たちに対して、あなたならどう言うでしょうか? あるいは、たとえ可塑的ではあっても閉ざされた構造を新種の原理主義と見るような人と、あなたならどのように話すのでしょうか?
 CM:そうですね、資本主義に代わるものが存在しないことを認める必要がありますね。これは今日ですね、避けようがないことだと思うんですよ。それで、わたしたちは疑いなく選択の余地がまったくないところに生きている。5,60年前の父親たちの世代が置かれていた状況と今を比較してみればそうでしょう。ぜんぜん違うのは、今とは異なる社会、もしくは経済のモデルを練り上げることができないということですね。それだから、資本主義のなかにいる必要がわたしたちにはある、というのはとても自然なことなのです。それが原理主義を仄めかすことになるでしょうか? わたしはそうは思わないのですが、つまり、今ある一般構造(資本主義)のかたちを別のモデルへと変えることができないという意味においてはそれは所与のもので今言ったように変えることができないものではありますが、ええ、きっぱりと、このかたちが所与のもの、この構造が所与のものだということを当然だと考えたとしてもですが、ええ、それは資本主義の場合、本当のことでしょうしね、それでもです、それでも他方ではこのかたちの埒内でありさえすれば、あらゆる指し手(moves)*16は許されている、ということでもあるのです。たとえば、現代について考えてみましょうか。アメリカの資本主義、ヨーロッパの資本主義、極東の資本主義、そうですね、中国がいいでしょうか、マルクス主義国家に最も成功した資本主義のかたちが現れていることを勘定に入れるなら、資本主義は複数あることがわかるでしょう。それに中国が怖いというとき、その人たちが恐れているのは、わたしたちにとって資本主義がどういうものなのかをはっきりさせる力がマルクス主義国家にある、ということを理解すること、だとわたしは思います。しかし、こういうことは、単一のかたちがそれ自体を無限と言っていてもいいほどに差異化する方法を思考する助けになるかもしれませんね。同一のかたちがずっと同一のかたちではないことから判断するとですね、わたしたちはかたちの内部にある小さなギャップを利用して抵抗を組み立てることができる、とわたしは思います。わたしはここフランスで構造主義からずいぶん影響を受けました。つまりわたしの話は、神々がさまざまなやり方で表象されることについてレヴィ=ストロースが言ったことに似ている、ということですね。国は違っても、同じパターンにいつも出会うでしょうが、一般のレベルにある枠組みの内部では、構造と構造が同一だとは考えられないようにしてしまうようなたくさんの小さな差異にも出会うことでしょう。だから同一性は差異でもあるのです。*17とても抽象的な話だということはわかっていますが、一般的なレベルのパターンから始めないと、もっともっと具体的な社会を決定していく物事に向かって進んでいくことはできないのです。
 NV:価値のヒエラルキーを決めることはできるでしょうか? この話は倫理とどう係わるのでしょう?
 CM:そうですね、わたしが話していることが根源的な他者のようなものに規定されたレヴィナスの倫理像と対立するのは間違いないでしょうね。純粋に倫理的とされるような社会的なものの理想像には、変化に曝されているという含みがあるように見えますがね。「変化」というのを、他者がいつでも到来することを許すための方法だと理解するならですね。それとは正反対に、わたしの構造の定義は非常に暴力的に映るかもしれません。間違いなくヘーゲルにとても近いわけでして、周知のように、戦い、闘争そんな感じのものばかりが含まれていますものね。
 でも一方で、わたしがお話ししているような構造のなかでは、万人が万人に対して平等であるという含みもあるし、他人に対して責任を持つと他人に何かをする余地が生まれるという含みもあるんです。レヴィナスをしっかり読むと、彼はデリダと同じことを言っているような気がするんですが、他者はとても遠い存在なので他者の立場に立って振る舞うことはできない、とこういうことをときどき言っているように見えます。他者のために決定することはできないというわけです。たとえば、子供がいるとして、なにか子供が決断したとしましょうか、それでもわたしには子供にしてあげられることはなにもないというわけです。こういうふうに[レヴィナスデリダの]倫理的理想像はそれほど純粋ではないのです。他者は遠い存在だから、他者の孤独のようなものは生まれるというわけですね。わたしのものごとに対する理想像は、[レヴィナスデリダの理想像より]もっと互酬的・相互的関係に根ざしています。他人のためにできることはある、とわたしは思いますし、自分ではできない子供の代わりに、わたしがやってあげられると気づいても、それがたまにであれば面倒だと思うこともないでしょうし。そうですね、罪悪感を感じないのは、わたしが息子にこれをしなさい、と言うこともあるからですよ。だから、ふたつの[倫理の]概念は、水平的な関係を規定する図式(horizontal schema)のようなものをどうとるかで違うのです。*18レヴィナスハイデッガーのMitseinという観念、他者と共に存在しているという事実に強く反駁していました。彼が言うには倫理的ではない。わたしにはそれほど確信はないですね。わたしは他人と共に存在するという理念が好きですから。
 NV:そこには互酬性の観念が存在するから。
 CM:そうです、それにもちろん承認と承認における互酬性という古くからの問題でもありますしね。思うに倫理的な価値が存在すべきだというのなら、承認の観念がわたしにとって倫理的なものとなるでしょうね。もちろん、この観念には戦いや闘争が含まれているわけですが。*19
 NV:なるほど。では根源的な他者などいない?
 CM:いません、自分があっさりと自分自身にとっての他人となってしまうことを認めない場合は別ですが。脳の損傷についての話のようにですね。*20
 NV:だから脳の損傷は恐ろしいものなのですね。
 CM:途轍もないものですね。
 NV:ええ、途轍もない。では話はごろりと変わってアメリカの話なのですが、全能ではなく弱い根源的他者を必要とする方向へと向かう神学的な動向がいくらかありますよね。ジャンニ・ヴァッティモ、ジョン・カプート、キャサリン・ケラーのことを念頭に置いています。この観念、存在が弱っていくというようなことも恐ろしいものかもしれません。弱いというのは、力(power)を求めるということが、たとえば黙示録的だったり、暴力的だったりするような現世の未来予想図(visions)に帰結するからです。弱いというのは話に聞くに、これが替えの利かない世界だからで、これが唯一の王国なら、現世で神を、神の弱さを悟るから(have a realization)、だというのです。だから、そういう観念を信じている人は、これでじゅうぶんだ、この世界でじゅうぶんだ、とどうにか言い聞かせようとするのだと思います。それは超越を遠ざける観念です。まさにもうじゅうぶんですね。とはいえ、そうした考え方のおかげで、どれほど不可能な、あるいは見透しの悪いものであろうと、ある種の約束を守ってもらえる人もいるでしょう。*21
 CM:現世にメシア的救済があるということですか?
 NV:ええ、そうです、そんな感じです。でもあなたはもっと現実的(pragmatist)ですね。
 CM:ええ、現実的だと思いますね。
 NV:これでさっきの決定論と[ジジェクが提唱しているような新しい]唯物論の議論に戻りますね。*22
 CM:わたしはほどほどに決定論を信じてます。というのも、構造は一度与えられたらそれっきりだと思いますので。それにマルクスを読めば決定論は避けられないことがわかります。しかし、わたしは弁証法を信じていますし、自由はずっと決定論とその対立物とのあいだの闘争である、と言ったヘーゲルは正しかった、というのがわたしの本音です。純粋な自由も純粋な決定論も存在しません。自由も決定論も、いつでも両者相互の関係によって仕方なくかたちを変えていかざるをえない運動(a negative transformation)のようなものなのです。そして可塑性というのはだいたいそういうものなのです。
 NV:議論を締めくくるにあたり、あなたなりの展望について多少なりとも教えて下さい。
 CM:わたしは中国でこれから起こることを知りたくてしょうがありません。マルクス主義と資本主義の組み合わせにとても興味があるんです。だからわたしは、そのうち、社会的な意味での自由の達成がどういうものかよりよくわかるようになるだろうと確信しています。そうですね、社会的な意味での自由と個人的な達成のようなものですかね、リベラリズムの文脈でいうなら。これがわたしの未来予想図のなかにある最初の有機体(organization)ですね。*23 なにが起こるでしょうかね。次に神経生物学の領域で何が起こるか興味津々ですよ。きっともっとたくさんの発見があってわたしたちが自己に対して抱いている未来像も変わるでしょう。その次に、哲学は前のふたつの出来事に左右されてすっかり別のかたちに変わるだろうと思います。つまり、一方では経済や政治の約束事(promise)が変わって、他方では主体性の定義の仕方が新しくなるでしょう。まあわたしは心底楽観しているわけではありませんが、それでも今日の出来事にとてもわくわくしてるんですよ。

CATHERINE MALABOU is Maître de conférences at the University of Paris X-Nanterre. Her publications in English include The Future of Hegel (Routledge, 2004), Counterpath (with Jacques Derrida (Stanford University Press, 2004), What Should We Do With Our Brains? (forthcoming from Fordham University Press in 2008) and Plasticity at the Eve of Writing (forthcoming from Columbia University Press). Her latest book in French is Les nouveaux blessés: De Freud à la neurologie: penser les traumatismes contemporains (Bayard, 2007).

NOËLLE VAHANIAN is Assistant Professor of Religion and Philosophy at Lebanon Valley College. She is the author of Language, Desire, and Theology: A Geneology of the Will to Speak (Routledge,2003). She has been contributing to the JCRT since April 2000.

*1:master narratives。白人男性作家を中心とした文学史観や作家崇拝、テクストの意味、唯一の正しい解釈、教養主義進歩史観、といったものが含まれている。ポスト構造主義やポストコロニアリズムフェミニズム、黒人研究等により「主人の物語」は突き崩された。アメリカでは公民権運動後の多文化主義教育を通じて、教えるべきものが多様化し、誰も知を俯瞰できなくなったことに対するバックラッシュがしばしば起こった。もっとも有名なのは、アラン・ブルームアメリカン・マインドの終焉』。

*2:社会から不当に見えない存在にされていた、主婦、ゲイ、黒人、老人、といったマイナーな指標を、社会的な立場として承認することを社会に求めること。ここでは自由に政治を語れる世界から、政治と言えば例外なく個やマイノリティ集団の権利主張に行き着く状況を指している、と思われる。マスター・ナラティヴの突き崩しが共通基盤をなくし、統合原理を失った状況を言っている。devided, disunited, culture warsといった語彙や「〜の終焉」という言いまわしが流行する。

*3:構築主義の用語。社会構成主義ともほぼ同義。すべてのものごとには絶対に変わらない本質があるという本質主義に対し、すべてのものは後天的に人為的に(主として言語によって)つくられたものであるため絶対的な根拠はない、とする批判理論。

*4:inventionismとなっているが、英語ではemergentismで流通している。創発複雑系の用語だが、ここでは構造にその構成要素が還元される(還元主義)のではなく、構成要素が構造のかたちを変えていく、ぐらいの理解で以下のインタヴューを読めばいいと思う。

*5:différance。デリダの用語。差異と遅延がかけ合わされて訳されている。「差延」が主体性の捉えどころのなさを示す一方で、「可塑性」は主体を構築や構造化、創発に関係づける。後の約束の議論、visionの議論に係わる。

*6:filiationではなく、affiliationであれば受け容れるということ。このふたつの概念については、エドワード・サイードが『文化と帝国主義』と『世界・テキスト・批評家』において批評用語として用いている。

*7:デリダマラブーの関係について遠まわしに訊いている。

*8:Jacques Derrida, “Geschlecht: Sexual Difference, Ontological Difference,” trans. Ruben Berezdivin, Research in Phenomenology, vol. 13, 1983, pp.65-83.

*9:Michel Foucault, The Hermeneutics of the Subject, New York: Picador, 2004.

*10:もっとも有名なのは、デリダ-サール論争だろうか。「事実確認的」(constative)と「行為遂行的」(performative)とを分けることができるとするサールに反駁すべく、デリダが一例として挙げたのが「約束」。「誓います」の言明には、誓っている事実を単に述べているだけでなく、それを口にすることによって誓う行為も同居している。

*11:宮崎裕助さんの指摘を受け、訂正いたしました。

*12:あるかたちが別のかたちに変わるということ。可塑性の原理をもとに生を理解している。

*13:フーコーヘーゲルから引き出した自己の複数のかたちの話。差異ではなく余白を披く「超越論的主体化」。「人は自己の内奥で、自己がとるふたつのかたちと≪対立している≫」。

*14:つまり、存在論的な審級だということ。

*15:「テクストの外部は存在しない」やニューロン的な閉鎖構造のこと。

*16:制限のなかの自由。チェスになぞらえている。

*17:わかりやすくしようとしてかえって混乱している。静態的な構造を分析する構造主義に引きつけて話を展開しているため、動態的な可塑性の理論と整合しない。ここでの差異やギャップは超越論的主体化の話に出てきたa open spaceとして、差異化はtransformとして考えたほうがわかりやすい。

*18:horizontalはヘーゲル、schemaはカントだと思うが、正直、正確な意味はわからない。the otherを「他者」と捉えるか、「他人」と捉えるか、ということを指していると思われる。つまり、デリダレヴィナスはthe otherを手の届かない世界の外部に置くが、マラブーはthe otherを世界の内部を構成するものとして考えている。the otherに対する距離の違い。「他者」/「他人」を訳しわけている。この他者観の違いがマラブーデリダの批判的フォロワーにしているのではないか、と思う。

*19:recognitionはヘーゲルの鍵語。人に存在価値を認めたり、認めてもらったりするような水平的な関係を示唆する。

*20:マラブーにとって、the otherは獅子身中の虫のように身近な存在であるようだ。それはリスクであると同時に、可能性でもある。

*21:今度は他者の遠さではなく、他者の弱さの話。どちらもある種の諦念に根ざしているが、ここでは、自己の他者に対する無力さではなく、他者の弱さに焦点が当てられている。この平和主義的な弱さの思想が、世界の脆さを拱手傍観する態度や未来像の先細りに繋がるのではないか、という危惧が見られる。

*22:所与の構造(資本主義)とその内部におけるtransformの可能性についての話。

*23:社会や人間を生きものとして見るマラブーらしく、未来も生きもののように語られている。可塑的な未来。