4/13 亀川豊未個展オープニングレセプション当日の私的記録

 洗濯機が壊れた。

 しばらく前から洗濯するたびに爆音を発していた洗濯機。生活音からはかけ離れた、メカニカルな断末魔といった趣きの轟音だったから、看取る覚悟はできていたのだけど、いざ逝去されてみるとやっぱり困る。洗濯できないから。

 そこでヤマダ電機に洗濯機を買いに行ったのが一週間前。4/13は洗濯機が我が家に到着する前日だった。そこで、大掃除である。山積みの段ボールを畳んで紐で括り、古新聞や古雑誌と一緒に共同のゴミ庫へと運ぶ。キッチン周りをピカピカに洗浄する。風呂場やトイレ、洗濯機まわりをきれいに整える。普段がぐうたらだから、家電でも買わないと本気で掃除しない。だから洗濯機を買うということは、人間らしい生活をする雰囲気を出すための儀式、あるいは配達員という世間を代表する社会人に一応当方も人間であるということを知らしめるための儀式、すなわち掃除をするということを意味する。

 そして掃除をした。掃除は理念上常に未完の活動なので終了を軽々しく宣言することはできないが、一応した。そこは認めてほしい。

 そしてバスに乗って、小倉駅前で下車し、いつものコンビニでチーカマ2パックと水、笹かま、タンの燻製を買って、Gallery Soapに続く真っ暗な階段を上る。まだ夕方の6時過ぎだというのに真っ暗なのは、照明のせいではないし誰のせいでもない。僕がサングラスをかけているせいだ。

 珍しくSoapの扉が開けっ放しになっていた。入ると、DJブースがあって、知らないDJがなにやら東南アジアっぽい音楽を流している。20人ぐらいの人の顔が見える。なにやら食べながらなにやら飲んでいる。右のほうにはなにやら彫刻作品がなにやらの床になにやら数体鎮座し、三方のなにやらの壁には抽象画と巨大な掛け軸、なにやら小さなオブジェが十数体かかっている。おそらくはこれが亀川さんの展示作品なのだろう。そこまで確認したところで、カウンターに赴き、なにやら参加費1,000円を払い、生ビールをなにやら手にした。いい加減なにやらが過ぎるのでここでサングラスを外し、ふつうの眼鏡をかける。けれどこれはふつうの眼鏡ではない。なにしろ哀川翔デザインのSAMURAI SHOモデルだ。特に哀川翔が好きなわけでもないし、それはどうでもいい。明るくなった。そこが大事だ。

 ビールを片手に、亀川さんに挨拶する。以前、カンボジア現代アート展に出品した際の経験をスライド付きで報告する会がここで開かれたことがある。そのときから折に触れて、何度かお話は伺ってきた。

 亀川さんは30歳。楠の丸太からプリミティヴな物体を彫り出す肉体労働派の彫刻家だ。素材となる楠はどこだったか山奥に住んでいる「木こり」から直接仕入れる。製材として利用される木からははじかれた、比較的な安価な楠を、地元の木彫作家がグループで買い取る。アーティストは孤独ではない。「木こり」とつながり、他の作家と協働で制作のための基盤をつくる。この亀川さんの個展で、学生時代の同級生がDJを務め、知り合いの画材屋の人がいつも全然使われていない厨房で軽食と言うには贅沢なつまみを作ってくれている。Gallery Soapのスタッフによる展示空間の提供と演出もつけ加えることができるだろう。僕にはその程度の広がりしか見えないけれども、おそらく亀川さんはもっと広大な絡み合いのなかで制作しているに違いない。

 作品どうしにもどこかつながりがある。

 まず、木彫はコンクリートの床から生えている。床を突き破って生えているといってもいい。あるいは埋まっている。どっちだろう。筍のシーズンでもあるしちょうどいいのは確かだ。ただし生えている(埋まっている)のは筍ではなくて、顔のあるなにか得体のしれない生きものだ。フォルムは人間のかたちをしているように見えるけれども、人間からはずれている。三体の木彫のうち、一体はシャム双生児のようにふたつの顔面が接合している。体育座りをしているまた別の一体は、よくよく見ると右手がつくった鋭角のなかに膝を立てているのに左手が見当たらない。足首から下は床面のなかに沈んで見えない。中央に鎮座する一体は、四つのこぶのようなものの囲いのなかから頭が生えている。こぶには草花のようなものが挿してある。人間ではなさそうだ。かといってまったく人間に似ていないというわけでもない。三体の木彫だけを抜き出せば、エイリアンの化石かなにかを発掘している途中のようでもある。

 近くに寄ってみれば、当たり前だけど表面には生々しい彫琢のあとが刻まれている。牡蠣の殻を砕いてつくった白い顔料の紋様が木彫の身体にまとわりついている。草花からとられた青い染料がところどころにアクセントをつけている。楠の香りがほんのりと漂う。離れて鑑賞するときとは対照的に、まだ生きている感じがする。動き出す気配はない。床面にからだを没していてまったく動きはとれない。それでいて、死んでいるわけでもなさそうな気がしてくる。

 正面の壁面に掛けられた掛け軸はおよそ2メートル近くはあるだろうか。天井と平行に上を向いた目鼻のついた顔面の下には、輪郭だけが丸く伸びて、人間のかたちをしている。すべて墨で描かれている。幽霊のようでもあるし、卵の殻を割ったあとに人面疽状の黄身が白身を携え落下していく瞬間のようにも見える。フォルムの下には、濃淡さまざまな紋様、あるいは点描が散っている。左端には「豊未」の揮毫。

 右側の壁面には、小さな素焼きが10数点掛けられている。彫刻の際に余った楠の木片に簡単な成形を施したのち、炭化させたものなのだろうか。聞きそびれたので、どんな工程でつくるのか僕にはよくわからない。ただどれもこれも「キモかわいい」かたちをしている。蝋細工の手のひらサイズのフナッシーにライターを近づけてちょっと溶かしたらこんなかたちになるのかもしれない。こういうかたちのピアスが欲しいな、と思った。

 左側の壁面には抽象画が一点。木彫作家として亀川さんのことは認識していたので、やや戸惑う。僕には抽象画の歴史やコンセプチュアル・アートを語る語彙が欠けているのでなんとも言い難いのだけど、木彫のためのデッサンからは切り離されたまったくの非具体的ななにか、まだ存在しない未分化なかたちのようなものを亀川さんなりに表現したものなのかもしれない。ただ言えるのは、このアクリル画の支持体の上には和紙が張られているということ。この一点において、掛け軸との親和性は残っているし、書と抽象絵画のあわいを衝くような予兆が萌しているようにも感じる。

 各作品をつなぐのは木という素材である。紙は木からつくられるし、木彫は当たり前に木を彫ってつくるものだし、焼きものも楠を焼いたものだ。作家本人の志向はどうなのか知らないけれども、僕には、楠、ひいては樹木の素材としての可能性を追求する作品群であるように感じられた。そう考えてみると、木彫や掛け軸に表された人間であるようなでも明らかに人間ではない何かは、亀川さんが個人的に交霊している木の精霊であるようにも思えてくる。ここにはなにか、近代と未開の相克を無視して生じる、未知のプリミティヴなものの到来、未だ存在していないコスモロジーの端緒のようなものがあるような気もする。それはモデルネ(近代)における新しさの追求とそれがすでに新しくはないことを発見してしまう幻滅とは無縁だ。美術界のトレンドとも無縁だ。既存の文脈とも無縁だ。これらは無縁仏ならぬ、無縁の精霊だ。この無縁の精霊を介して、たまさか存在してしまったものたちは気まぐれに結び付けられて別様のコレクティヴをつくっていくのかもしれない。そんな亀川コスモロジーの萌芽。真相は知らないし、知りたくもないし、真相を言葉にする能力は僕にはない。それぞれ好きなことを考えたらいい。好きなことを考えることができるのがアートのいいところだと思う。

 というような僕の個人的なできの悪い彷徨は放っておいてもらうとして、とにかく木彫は存在感と厚み、重量が桁違いだし、平面作品と違って、360度パノラマで体験することができる。常々イメージと実物の作品にはそれぞれ異なる質があると思っているけれども、彫刻やインスタレーションはその差が途轍もなく大きい。

 以上の記述は、僕の酔っ払ったいい加減な記憶に依っているので制作に関する情報に間違いもあるかもしれない。当たり前だけど、それは僕のせいだ。ただ責めないでほしい。

 その代わり体験したいという人は、入場は無料だし、気のいいおじさんたちが歓待してくれるはずなので(保証はしない)、ふらりと出かけてみるといい。土日は亀川さん本人が在廊している。展示を体験できる上に、正確な情報を手にするチャンスだ。

www.google.com

開廊日時:
金曜日 午後6時 - 午後10時
土曜日 午後2時 - 午後8時
日曜日 午後2時 - 午後8時

g-soap.jp

 

 さて、予想通りまとまりのない記述になったけれども、まったく反省はしていない。その夜、僕はひたすら飲んだ。飲んでからラーメンを食べて電車が動き出すまで某映像作家のお宅にお邪魔し、朝方帰宅した。先週末もそうだった。だからまったく反省していない。

 昼過ぎにたたき起こされた僕が目にしたのは、新しい洗濯機だった。静かに洗濯して、静かに乾燥してくれる。文明万歳。