自己紹介&仕事

逆卷 しとね
学術運動家/野良研究者(ダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ論、出会いの実践)。執筆・翻訳。他、異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」企画・運営。トークイベント企画、読書会主宰など。
 
※お喋りシリーズ「デルクィアウッタエル」(featuring いりやさん)
※連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」
https://webmedia.akashi.co.jp/categories/786
※対談連載「ガイアの子どもたち」
※連載「自由と不自由のあいだ 拘束をめぐる身体論」
https://ikinobirubooks.jp/series/sakamaki-shitone/87/
 
★雑誌・書籍
※「ソロの身裡に死者らんまん——ダナ・ハラウェイ、死者、共命創発」(『現代思想』2026年8月号、169-81)
※「すみません、うちの睡魔がすみません——意識と落下をめぐる夜話』(『ユリイカ』2026年3月号、167-76)
※「未来のない政治は可能か——ダナ・ハラウェイと終末をめぐる試論」(『現代思想』2025年11月号、113-24)
※「常在ヌタ場」(『NEUTRAL COLORS』6号, 2025, 45-48)
※「ノラノラしく(Ferally)」(『野良になる Becoming Feral』展図録@十和田市現代美術館, 2025, 148-50)
※「骨をひっくり返す」(『Art Collectors'』2025年5月号、62-64)
※「普遍人という夢 人種と人類種の20世紀アメリカ」(『現代思想』2024年10月号、203-14) 
※「非人間的友情という隘路 最小の友情、そしてダナ・ハラウェイ「かけがえのないタガい」(『現代思想』2024年6月号、177-192)
※ZINEまどかしとね『サイボーグ魔女宣言』(共同監修、編集、執筆

bccks.jp

※座談会「トールキンに/から伸びる「道」ーー創られた世界で生きるということ」(大久保ゆう+川野芽生+逆卷しとね 『ユリイカ』2023年11月臨時増刊号 総特集=J・R・R・トールキン 84-99)
※「怪文書のススメ」(『ユリイカ』2023年7月号 187-200)
※「とんでもなくもつれあっているのに全然違うし――フェミニストにして動的協働体、ブリュノ・ハラウェイ」(『現代思想』2023年3月号 137-50)
※「湾の果てで撫でる」(ソー・ソウエン個展「どうしてわたしの手は、目は、乳首は2つあるの?」@ Gallery Soapに寄せて)

ソー・ソウエン個展「どうしてわたしの手は、目は、乳首は2つあるの?」@Gallery Soapフライヤー掲載、逆卷しとね「湾の果てで撫でる」

※翻訳 マイケル・ハッドフィールド+ダナ・ハラウェイ「樹上性マイマイ宣言」(『思想』2022年10月号「マルチスピーシーズ人類学」49-81・11月号「環境人文学」139-59)
※「解放区」(『ユリイカ』2022年8月号「 Jホラーの現在――伝播する映画の恐怖——」230-36)
※「トラブルと共に生きる術 第六の絶滅期における菌類とkin-making」(『ユリイカ』2022年5月号 「菌類の世界」 222-31)
※『メディウム』2号 「特集・ダナ・ハラウェイ」 (2021) 特集緒言「ダナ・ハラウェイとマジメに遊ぶために」、ターシュ・ベイツ「私たちがホモ・サピエンスだったことは一度もない」翻訳、付録3点(バイオ、全論文・著作・インタヴュー書誌、研究参考文献一覧)作成、その他査読・校正作業等。

https://mediensysteme2019.wordpress.com/2021/10/23/mediumv2/

※足立薫×逆卷しとね「すべてがサルになる 種社会論とダナ・ハラウェイが出会うとき」(『たぐい』vol.3 亜紀書房 2021年 107-23)
※逆卷しとね×尾崎日菜子「接触と隔離の「あいだ」を考える コロナの時代の愛をめぐって」(奥野克巳+近藤祉秋+辻陽介編 『コロナ禍をどう読むか 16の知性による8つの対話』亜紀書房 2021年 68-113)
※宮野真生子+磯野真穂『急に具合が悪くなる』書評「死を掴み私を手放す――自己(責任)の物語の彼岸――」(『倫理と社会』35 2020年 245-47)http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se35/35-17sakamaki.pdf
※「未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ――ダナ・ハラウェイと再生産概念の更新」(『現代思想』2019年11月号 「反出生主義を考える」209-21)
※「彷徨うコレクティヴ」(荒木優太編著 『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』 2019年 218-31)
※「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想」(『たぐい』vol. 1 亜紀書房 2019年 55-67)
※「ジャングル! ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル! トニ・モリスンと擬獣化の時空」(『ユリイカ』2019年10月号 「トニ・モリスン」 204-13)
※「卒業は実在しない――学び続けるパートナーたちのために」(『現代思想』「引退・卒業・定年」2019年3月号 52-59)
※「アーティチョークの茎とアカシアの石板――アーシュラとダナが出会うとき」(『ユリイカ』2018年5月号 「アーシュラ・K・ル=グウィンの世界」87-97)
※「クトゥルーの呼び声に応えよ――ラヴクラフト時代の思想/クトゥルー新世の物語」(『ユリイカ』2018年2月号 「クトゥルー神話の世界」182-89)
※批評誌『アーギュメンツ#3』のJホラー座談会(黒嵜想・仲山ひふみ・佐々木友輔)38-59に参加。
 
★ウェブ媒体

※「映画『サブスタンス』レビュー:誇張する食と蝕」(TAB, June 6, 2025)

www.tokyoartbeat.com

※攻殻機動隊グローバルサイト MMA 特集「アウトロー」監修(&辻陽介)

ISSUE #02 | 【公式】攻殻機動隊グローバルサイト

   ※まどかしとね「すべてはファミリーのために——押井守と冷たい身体/獣の匂い立つ身体」

 

 

※【リレーコラム】魔女と蜘蛛とサイボーグ(まどかしとね) | Fashion Tech News

※「Cyborging, Witchcrafting, ダナ・ハラウェイと現代魔女の邂逅」宣伝動画→https://vimeo.com/803384142

※「Cyborging, Witchcrafting」アーカイヴ販売記念トーク(音声のみ)→https://twitter.com/_pilate/status/1637061420364992514

※連続ゆるふわ対談「サカマキコミ」
清水知子、高村峰生、西江仁徳、三村尚央、佐々木ののか、木田真理子、なす、青原久子、森本めぐみ、遠藤麻衣(敬称略)→https://twitcasting.tv/_pilate/show/
 
※「参与と生命 Ⅲ」プレゼンまとめ+対談(2021年10月31日)

www.youtube.com

※講義録画「ダナ・ハラウェイ――Making Kin not Babiesの制作論」(Art Research Online)→ https://drive.google.com/file/d/17OWvg8XDJpnALVQhxWuq82Dhutyjmw07/view
※「エコトーンの砌(みぎり)は呪縛する──練馬区立美術館「Re construction」展
大小島真木「身体」に寄せて──」
https://makiohkojima.wordpress.com/2020/11/15/140/

※シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 02|逆卷しとね × 尾崎日菜子|接触と隔離の「あいだ」を考える──コロナの時代の愛をめぐって

https://hagamag.com/series/s0065/7383

※亜鶴 『SUICIDE COMPLEX』 #13 Don’t worry, everything is under control, also is out of control. ──齋藤恵汰、逆卷しとねとの対話

https://hagamag.com/series/s0062/7444
※「AKI INOMATA 相似の詩学──異種協働のプロセスとゆらぎ」展@北九州市立美術館本館・展評「互いに見ること──AKI INOMATAのポイエーシスと聖遺物」
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/21103
※菅実花「The Ghost in the Doll」展@丸木美術館に応答する対話篇「胎児の義体/擬態」→https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20349
※ハラウェイインタヴュー翻訳→https://hagamag.com/uncategory/4293
※「在野に学問あり」山本ぽてとによるインタヴュー→https://www.iwanamishinsho80.com/contents/zaiya3-sakamaki
※「辻陽介、背中が語る、終に」@Gallery Soapの聞き手
 
 

Xtream Biologies

「エクストリーム・バイオロジーズ
極限環境で生きる、眠る、漂う」展レポート

 

逆卷しとね(野良研究者)

 

※以下は、西暦2025年12月7日午後に、思念体ALH84001(以下、A)が、思念実体化の技術であるタルパマンシーを介し、展覧会「エクストリーム・バイオロジーズ」を視察した際の、思念体Yamato000593(以下、Y)との交信のログを、不幸にもタルパマンシーによって遠隔操作された逆卷が翻訳した怪文書である。

 


 A:こちらALH84001、[1] テラリンク、アクセスポイント35°21’52”N 136°37’10”E、タルパマンシー@カール・ルイスの墓、完了。[2] 35°21’51”N 136°36’26”Eへ転送。言語モデルGPT-8.5、UVインデックス4、聴覚2.5db、座高72.3、マナー検定準1級、オールラウド&クリア。リクエストYamato000593。[3]

 

 Y:こちらYamato000593、ALH84001、言語モデルGPT-8.5、UVインデックス4、聴覚2.5db、座高72.3、マナー検定準1級、オール同期完了。うまくいきましたか?

 

 A:そうですね、うまくいきましたけれど、少しぎこちないかもしれませんね。マナー検定3級のアルゴリズムにチューンできますでしょうか。

 

 Y:マナー検定3級、チューン。これぐらいでチョベリグ?

 

 A:大丈夫。やばたんイケてる。

 

 Y:ちょ、軽すぎなんだけどウケる。ログ残るからもう少し自助努力でやばたにえん。

 

 A:やばたに…、ログの読みやすさについては翻訳に委ねることにしよう。では、予定通りエクストリーム・バイオロジー展にチューンインする。

 

 Y:健闘を祈る。

 

エクストリーム・バイオロジーズとはなにか?

 

 A:テラ〔Terra: 地球〕の温暖化は温室効果ガスの排出により沸騰化と呼ばれるところまで加速している。海水面は上昇の一途をたどり、約7億人の人類が居住している、海域と接した沿岸地帯はいずれ水没すると見られている。化石燃料の探索と採掘、燃焼はとどまることを知らず、ナノ粒子化したプラスチックの破片が生物のなかにも外にも遍在しているし、人体に影響のある放射線を発する使用済み核燃料は10万年後の半減期まで潜在的な影響を残す。だから地質学的にはもはや完新世ではなく、ヒト由来の活動がテラに地質学的影響を及ぼす、人新世(Anthropocene)が到来しているという議論がある。

 

 Y:ではヒトの活動が環境負荷許容の極限に達したから、極限を探る生物学も必要になったということか。

 

 A:厳密には違う。まず、温度や酸素濃度、ph.、水圧などの数値がヒトの生存を脅かす水準に達している場所を極限環境(extreme environment)という。ヒマラヤ山脈や火山の噴火口、極地、深海、砂漠のような場所に足を踏み入れることはヒトにとっては冒険だ。足を踏み入れるのが精一杯で、そこに定住することはできない。もっと楽に住めるところがあるのに、わざわざそんな環境に生息する生物たちはヒトにとっては謎めいた存在のようだ。

 

 Y:ところが、ヒトが住める環境が少しずつ減りつつある人新世の時代においては、極限環境は広がりつつある。だから極限環境に生息する生物たちの助けを借りようという浅ましいことを考えているのか。

 

 A:ヒトは厚かましい生きものらしいからな。平均気温が上がるに従ってエアコンの設定温度が下がっていき、他方で室外機から排気される温風で気温が上がっていく。そんなマッチポンプを繰り返しながら、ヒトは最終的には太陽に向かって暑いと文句を言うらしい。それでも、テラ以外の惑星を植民地化しようとしている一部の資本家を除けば、たいていのヒトは傷ついた惑星で生きる術を探している。[4]

 

Arts of Living on a Damaged Planet: Ghosts and Monsters of the Anthropocene  eBook : Tsing, Anna Lowenhaupt, Bubandt, Nils, Gan, Elaine, Swanson,  Heather Anne: Amazon.com.au: Kindle Store

 

 Y:絶滅の瀬戸際で生きる方法を学ぶために、ヒトは極限環境に生きる生物を研究している、と。[5]

 

 A:確かに死を免れるという実利的な側面もあるだろう。なんでもアーキアのなかには、プラスチック分解能を獲得しているものもいるらしいからな。[6] 人新世の状況を変える技術への応用も視野に入っているだろう。だが、ヒトの絶滅を阻止するという方向とは反対に、極限環境を対象とした生物学は生命の起源を探す試みとも関係あるらしい。一番有力なのは、深海の熱水噴出孔で生命が誕生したという説だ。DNAやRNAとは異なる複製のあり方やたんぱく質のいらない代謝の仕組み、プロトセル(protocell)の作成を試行錯誤する合成生物学と化学もここに加わる。[7] いずれにしても生命が最初に出現したときの状況はヒトからするとそれはそれは過酷な極限環境だったわけだ。酸素もなかったのだし。絶滅と創発、生命の始まりと終わりが極限環境にはある。だから対象となる生物を安定的に制御できる実験室やヒトが暮らすことのできる環境を越えたところで生物を研究する、極限生物学(extreme biologies)が必要だというわけだ。

〔※訳註:老婆心から念を押しておくと、極限生物学という研究領域は存在しない。それは本展示を主催するアートプロジェクトの名称に過ぎないが、思念体たちには生命科学とアート、市民科学が協働する領域であるように見えている。〕

 

 Y:酸素なぞ必要としないわれわれには関係のない話だが。

 

 A:それが関係あるのだ。ヒトにとっては、宇宙空間や惑星、衛星、恒星、ブラックホールその他の天体すべてが居住不可能な極限環境だからな。テラの外からやってくる隕石に生命の痕跡がないか、太陽系の惑星や衛星に生命は存在しないか、系外にテラに似たホシはないか研究する極限生物学の一分野もある。宇宙生物学(astrobiology)というらしい。テラが誕生してわずか10億年ほどのあいだに生命が誕生したのは、テラの外から生命体がやってきたからだという説もある。それにテラが生息不可能な環境になった場合に、テラの外に植民する可能性を探る研究もある。

 まとめるなら、極限生物学は、極限環境が拡大する人新世の時代に、他人事ではないものとして、切迫感をもって、生命のはじまりと終わり、適応と生存のメカニズム、そして環境についてヒトが実践を創出する領域ということになるだろうか。

 

 Y:そうか、ならばわたしたち思念体も研究対象なのだな。

 

 A:やばたん。

 

極限環境モデル生物、クマムシ

 

 Y:その白い奇妙なかたちをした物体はなにかの生きものなのか?

 

 

 A:これは、テラに生えている植物の繊維に由来する素材〔紙〕でつくられたクマムシ〔tardigrade, water bear. 緩歩動物門に属する動物の総称〕の模造だ。この辺のコケに生息していたらしい。ヒトはどうやら視力が極端に低いらしいから、こうして顕微鏡なるものを使ってわざわざ拡大してやらねばならない。実寸は1mm前後というから、この紙の模造は本物を200倍ほどに拡大したモデルらしい。

 

 

 

 Y:それでその1mm程度の微生物をわざわざ顕微鏡とやらで拡大してまで観察する理由はなんなのだ。なにやらもふもふのようなものが見えるが、要するにクマムシはかわいいとされているからわざわざサイズを拡大してまでそばに置いておきたいのか。[8]

 

 A:概ねそのとおりだ。ヒトという生きものは、もこもこしていてずっぐりむっくりしているものが好きらしい。テラの地下奥深くに数億年前に残った植物の化石に由来する化学繊維を素材にした模造〔ぬいぐるみ〕までつくって愛でるらしい。変な生きものだ。

 

 Y:だがそれは世を忍ぶ仮の姿なのだろう。ALHが視察しているぐらいなのだから、クマムシは恐ろしい生きものなのだろう。

 

 A:そうだ。実はこのかわゆいクマムシ、極限環境耐性動物(extremotolerant animals)の一種なのだ。

 

 Y:やばたにえん! どこが極限なのだ。

 

 A:まず、一切の代謝を断つクリプトビオシス(cryptobiosis)という状態に入ったクマムシは、ガンマ線にして5,000グレイの紫外線の被爆、極度の乾燥、下は−273℃、上は100℃の低温・高温、地下180km、テラの上部マントルに相当する7.5ギガパスカルの超圧力、有機溶剤への浸漬(しんし)にも耐えられるらしい。[9]

 

 Y:なにを言っているのかまったくわからないが、それはヒトには耐えられないレベルなのか。

 

 A:不可能だ。

 

 Y:なるほど、クマムシは極限環境に耐えられるのか。げにやばす。ということは、テラの極地に生息しているのか。

 

 A:いや、クマムシは世界中の極限環境だけではなく、カール・ルイスの墓エリア〔岐阜県大垣市〕にもいる。これらは、スイトピア大垣敷地内のコケから採取されたクマムシだ。どこにでもいる。[10] ヒトにとっての極限環境ではないところにもいる。しかし、きゃつらはいつでもどこでも極限への備えができている。そこがヒトとは違うところだ。

 

 Y:では、エクストリーム・バイオロジーズは、クマムシを研究するプロジェクトなのか。

 

 A:というよりは、クマムシは極限環境研究のモデル生物になりうるということだ。

 モデル生物というのは、テラの生物の一定の機能や成り立ち、発生過程などを綿密に調査するのに適した生物たちのことをいう。たとえば、微生物なら大腸菌、動物ならショウジョウバエ、植物ならシロイヌナズナがよく知られている。これらは、ゲノムサイズが小さく、繁殖や培養が容易で、生活環も短い。つまり、実験の解析にそれほど手間がかからず、さらにはヒトだったら世代交代に何十年もかかるが、これらモデル生物なら数時間、数日、数カ月の単位で進化のプロセスを見ることができる。[11]

 クマムシも飼育できるし、なにより世界中どこにでもいるから手に入りやすい。それにかわゆいから、生物学者以外の人たちも関心を持ちやすい。身近な生きものとして感じられる可能性が大きい。

 

 

★We Drink the same Chlorella with Tardigrades 《同じクロレラを飲む》

 

菅実花+エクストリーム・バイオロジーズ・プロジェクト

Mika Kan, Extreme biologies project 2025

 

映像34分、インスタレーション

Video (34 minutes), installation

 

 Y:なるほど、ヒトがクロレラを食するこの企画は、異種間になんらかの親密性をつくるものなのかもしれないね。このプロジェクトで飼育しているクマムシには餌として淡水性の藻類であるクロレラを与えているらしい。他方、クロレラはヒトの健康食品のひとつで、粉末状のものを水に適量溶かし、ジュースとして飲むことができる。このバーでは、クマムシが食事しているのと同じスペースでヒトもクロレラを飲む。火星には「同じ釜の飯を食う」ということわざがあるがそれを地で行く団らんだ。ヒトは自分たちの食べ物をヒト以外の生物の食べ物と差別化するという習慣があるようだ。そのためか、なかにはドッグフードを食べるような感覚を覚えた参加者もいたらしい。いずれにしても、ヒトの肉眼ではなかなか視認できない、視認できたとしてもその存在を身近に感じることのないクマムシという生きものと食べ物を共有することによって、なにかしら奇妙な親密性が生まれる。テラには「食は人なり(You are what you eat)」ということわざがあるらしいが、食によって日々ヒトである状態を維持しているというよりは食のたびに以前の存在からはずれていくと考えたほうがいい。ただ健康のためにクロレラを飲んでいたとしても、すぐ近くでクマムシも同じものを食べているかも知れない。そのとき、ヒトはヒトとしての存在を再生産しているのではなく、クマムシへと近づいていっているのかもしれない。あるいは、クマムシのほうがヒトに近づいてくるということもあるだろう。

 

 

 A:そうだね。この極限生物学プロジェクトには細胞生物学から分子生物学、フィールド科学、宇宙生物学はもちろん、さらには地質学や人文諸学に至る領域まで含まれているし、市民やアーティストなどさまざまな身分のヒトが参加している。

 人新世は第6の絶滅期と言われるくらい、大量の生物が絶滅する時代だ。極限環境はどこか遠くにある場所なのではなく、実はクマムシがいる場所と同じくらい遍在している。クマムシに関心をもつことは、そうした極限環境にヒトも生きているという自覚をもつことにもつながりうる。[12] クロレラ以外にもきゃつらに共通点はある。たとえば、人類と同じくクマムシも宇宙空間でさまざまな実験をしている。とりわけ1969年7月20日にヒトは月面に着陸しているが、クマムシもまた2019年4月11日に月面に到達している。クマムシが「宇宙のクマ(space bear)」とも呼ばれる所以だ。

 どうだ、クマムシは極限環境研究のモデル生物にぴったりではないか。

 

 

イネと電界

 

 Y:だが、炭素量に換算して550ギガトンとも言われるバイオマスが生息しているテラのどこが極限環境なのかどうしてもわからないな。われわれのような思念体を別にすれば、宇宙に生命が棲んでいるホシはほとんどないじゃないか。それに極限環境としてテラを考えるときに、わざわざ宇宙を考えることの意義がどれほどあるのか。環境保護だけ訴えておけばいいのではないのか。

 

 A:いや、テラについて考えることは宇宙について考えることなんだ。たとえば、植物のモデル生物のひとつであるイネを考えてみようか。イネはヒトが狩猟採集生活とは別の生活様式である農耕を営む上で重要な役割を担ったことで知られている。移動せずにひとところに定住するという生活を始めるきっかけ、そして多様なヒトが集まる都市や国家ができるきっかけにもなった。特にカール・ルイスの墓エリアを含む花綵(はなづな)列島では、その昔イネの実であるコメは貨幣の代わりを果たすこともあったし、宇迦之御魂神(うかのみたまかみ)や田の神のようにイネに神や精霊が宿るという穀霊信仰が盛んだった。ある種のアニミズムだな。

 

 Y:アニミズムと宇宙がどう関係するというのだ。

 

 A:まあ慌てるな。穀霊信仰は、ヒトには感知できないものがイネの生育に関与していることを担保しようとする知、あるいはヒトには感知できないものを感知しようと試みるような知だったわけだが、ヒトの科学も基本的には感知できないものを観測する方向にある。たとえば電気だ。雷が鳴るとその年は豊作だという言い伝えがある。雷の強力な電流によって窒素化合物が生まれ、これにより植物の生育に欠かせない窒素が固定されるというのがその科学的なメカニズムだが、雷ぐらいにならないとヒトの肉眼には電気はふつう見えない。しかし実は、いたるところに微弱な電気は走っていて、それが生命に関係しているのではないかという発想は昔からあった。ガルバーニ電気のように、生命は電気エネルギーによって駆動するという考えから実験は重ねられていたし、18世紀ぐらいから植物の生育と電気の関係についての実験もあった。とりわけ、フィンランド・ヘルシンキ大学のカール・セリム・レムストレーム教授(Karl Selim Lemstrom)は、突針付きの鋼鉄ワイアを正の電極とした架空線をつくって、大地の負の電極とのあいだに電界をつくり、空気中の電気が植物の成長を促進する効果を観察したようだ。このように、静電気すら滅多に感知できないヒトが農産物の収穫量を高める要因のひとつとして空気中の電気の存在に注目したわけだ。[13]

 

 Y:だからそれもテラの話だろう。いつ宇宙に行くのだ。

 

 A:テラでは重力の関係で電気はあまり強く植物の成長に関連しないのだけども、宇宙には重力がほとんどない。そのため、宇宙では植物の根がテラに比べて50%もよく伸びるらしい。どうだ、満足かい。

 

 Y:宇宙に行けばいいというものではない。

 

 A:君の関心に引きつけようか。両極性電場だ。電気は、生命誕生の条件のひとつなんだ。

 重力がないとテラから大気がなくなってしまうから、好気性も嫌気性も生物は生きることができない。なにより大気の循環が生じないからね。それから太陽から常に降り注いでいる粒子を大気圏内に入れないための磁場がある。重力場と磁場についてはヒトのあいだではよく知られている。しかし、重力に逆らってテラの粒子を宇宙空間に放出する両極性電場をヒトは最近になってようやく見つけたようだ。極風(polar wind)と呼ばれる、大気が宇宙空間に散逸する現象はすでに知られていたが、極めて微弱な電場がそれにかかわっていることがわかった。電場はテラ全体に広がっている。ある意味、テラは電気のホシでもあるということだ。イネは両極性電場のモデル植物なのかもしれないね。[14]

 

 Y:なるほど、ようやく合点がいった。ヒトは両極性電場に今ごろ気づいたのか。あれがなければわれわれ思念体はテラにアクセスできないというのに。

 

 A:そういうことだ。

 

 

★Orbital Poaceae 《軌道上のイネ》

吉本梓 / Yoshimoto Azusa 2025

 

稲、水槽、水、スズメッキ銅線、LED、霧発生機、合板、ヘッドフォン、ミキサー

rice plants, aquarium, water, tinned copper wire, LED, fog machine, plywood, headphones, mixer

 

 Y:それで、このタルパマンシー・ディスプレイに映っている水槽のなかのイネの根には電気コイルがかませてあるというわけだな。プラント栽培の水を利用した、霧を発生させる装置が稼働している。ここには気体と液体の循環がある。さらにはヘッドフォンからは、エコーがかかった水滴が落ちる音が聞こえてくる。電場はヒトの目には見えないし、耳で聴き取ることもできないが、水の循環を通じてその存在を感知させるという仕組みなのだな。さらにいうなら、この水槽は本来植物が生息しているテラから切り離された閉鎖環境であるというだけではなく、電界に依存したテラのメカニズムを機械的に再現したミニチュアでもある。人工的に再現された擬似的なテラか。

 

 A:この水槽はテラリウム(terrarium)と呼ばれているらしい。帝国主義と植民地主義が全盛の時代には、プラントハンターたちが異国の物珍しい植物を母国に持ち帰るのにこれを利用していた。今ではヒトが室内で植物を美的に楽しむのに使われているらしい。

 

 Y:テラ-リウムか。言いえて妙だな。ヒトがつくった宇宙ステーションのなかに設置されたイネのテラリウムが軌道上を周回している姿を想像してみるといい。テラの圏域にありつつテラの外にも開かれている軌道上のイネは、生命のはじまり/終わりや生/死のあわいとはまた一風異なる、極限環境のひとつの解釈なのかもしれないね。

 

 

生きものは情報メディア

 

 

★Whispers from a Terrestrial Meteorite《地球隕石に封じられたささやき》

 

ホアン・カストロ / Juan Castro 2025

 

DNA (バクテリア)、クマムシのタンパク質(組み換えタンパク質)、蛍光染料、プロトセル、人工隕石、UVライト、顕微鏡、プロジェクター、LEDライト

 

DNA (bacteria), tardigrade proteins (recombinant proteins), fluorescent dyes, protocells, artificial meteorites, UV light, microscope, projector, LED lights

 

 A:さあ、クマムシの登場だ。

 

 Y:クマムシというよりは隕石のようだが。

 

 A:マルス〔火星〕とユピテル〔木星〕の軌道間にある小惑星帯から、テラには大量の隕石が降り注いでいる。[15] 年間5,200トンだ。もともとテラが誕生する過程でたくさんの原始惑星どうしが衝突を繰り返していたことを思えば、テラにはテラ固有のものではない物質がたくさんあることはすぐにわかることだし、そもそも固有のテラとはなんのことなのかわからなくなる。このように、宇宙からテラに原始生命がやってきたというパンスペルミア仮説にまったく根拠がないわけではない。隕石や彗星、あるいは高度な知的生命体による差し金で、テラに生命が生まれたという説は根強い。[16] もっともある物理学者の計算では、光が届く範囲の観測可能な宇宙にある1022個の恒星系をくまなく探してもテラ以外には生命はないという。[17] ヒトが考える生命というものはほんとうにややこしい。きゃつらにとっては思念体など生命ではないだろうからな。

 

 

 Y:なるほど。隕石は生命の乗り物である可能性があるということだな。ということは、この隕石にクマムシが乗って宇宙に出ていく、ということ、なのか。[18]

 

 A:どうやらそうではないらしい。かつてテラの白人たちが外洋に出ていって次々と植民していったときに、植民地に伝染病や未知の生物を持ち込んで先住民や在来の生物に甚大な被害をもたらしたことがある。生態学的帝国主義というやつだ。もしかしたらテラ以外のホシにいるかもしれない生物たちを死滅させたり、取り返しのつかない環境破壊を引き起こしたりしないよう、宇宙にテラの生物を持ち込まないようテラの民は配慮している。[19]

 

 Y:しかし、クマムシは月に行ったのでは?

 

 A:まあ、ともかくもだな、配慮はしているのだよ。だから、この隕石に乗っているのは、クマムシではない。顕微鏡から見えるのは、ゴミ埋立地にいる細菌群集のDNAとクマムシの組み換えタンパク質を使ったプロトセル(protocell)だ。プロトセルというのはつまり、細胞として生きているとは言えないが細胞を構成する物質はいくらか含まれている原始的な細胞の化学モデルのことだ。この場合、細菌とクマムシの生体物質が合わさったキメラ状のプロトセルだがね。[20] 

 

 Y:なるほど。ということは、隕石だけが乗り物なのではないということか。そのプロトセル自体が乗り物だ。そこにはテラの環境が乗っている。

 

 A:環境か。

 

 Y:まず、ゴミ埋め立て地の細菌たちは、周囲にあるゴミを分解する過程でさまざまな化学物質をとりこんでいるだろう。温暖化の影響もあるかもしれない。正面のスクリーンにプロジェクションされているのはDNAの配列だが、そこには損傷や変異のあとが、あるいは適応や進化の足跡が残っているかもしれない。ヒトが顕微鏡で拡大しなければ視認できないほどの微細なものであっても、たとえそれが生物そのものでなくとも、生物由来の生体物質にはそれらが生きていた環境の痕跡が必ず埋め込まれてしまう。できる限り不意の相互作用を排した実験室環境であっても、そこにはなんらかの影響が埋め込まれる。

 生物に由来する物質が変異するときには、そこに含まれている情報も変異するだろう。そしてその情報は小さな物質でも膨大なものになりうる。

 たとえば、テラでは有害物質とされている、タバコという嗜好品がある。そのフィルターは遠くから見ればただの点にしか見えない。しかしフィルターの中には、タールやニコチンを吸着させるための無数の空隙がある。これらの吸着面をすべて平面に展開するとリビングルームぐらいの大きさになってしまう。とるに足らない小さなものでも、次元を変えるとその情報量は膨大になるかもしれない。プロトセルはクマムシほどに小さく、また生きているわけでもないが、そこにはテラそのものと同じくらいの規模に達する情報が折り畳まれている。その情報はヒトにわかる範囲でも十分に膨大だが、ヒトではない、たとえばわれわれのような次元を違える存在からすれば、そこから読み取れる情報はさらに膨大になりうる。情報はそれを読み取る側の方法や意図によっても変異するのだよ。[21]

 肝心なのは、このプロトセルのように微視的なものの莫大さを知ることだ。人新世のようにテラ全体を包含する巨大な物語に親しむのもいいが、自分の生活圏のほんの些細なところに、人新世などという時空をはるかに越える潤沢な情報がヒトの意図とは無関係に畳み込まれているからね。

 

 

 A:ちょっとタルパウェブをググればすぐにわかることだが、ヒトは宇宙に進化を期待している側面もあるようだね。たとえば、ラファエル・キムとジェヨプ・キムの《Space Bacteria》(2012年)は、テラにいる微生物が火星のような極限環境で突然変異してまったく予期できない進化をする可能性を提示しているし、長谷川愛の《極限環境ラブホテル》(2012年)はテラよりはるかに重力が強い木星でヒトの愛情や性欲の表現、そして生殖行為はどのように進化するのか問いかけている。[22] 

 

 Y:そうだね、きゃつらはテラの環境にいる生きものを別の環境に移し替えるとどんな進化が生じるかというところに関心があるようだ。いわば能力の拡張だね。もちろんこの隕石にも進化の問題は含まれてはいるが、ここで強調されているのは、ヒトが意図せざるうちに残してしまった生物や生物に由来する物質の情報メディアとしての性質であるように思う。情報を記録したメディア単体に情報としての価値はないが、情報を発信する側とそれを受け取り読み取る側との関係に置かれたとき、それは情報メディアとして生成する。テラとそれ以外の世界をなんらかの生体物質がつなぐことがありうるとしたら、ヒトそれ自体も情報メディアだということになる。

 

 A:なるほど。君はヒトのアートとかいうわけのわからないものをよく理解しているのだね。

 

 Y:ヒトのことはさっぱりわからないしアートのこともよくわからないが、アートに賭けられているものぐらいはなんだかわかるのだよ。アートもこのプロトセルのようなものじゃないか。アートは、唯一の現実だと思われているもののスケールや次元を変えて見せる。われわれ思念体を知覚できないヒトに知覚できる現実なんて実にちっぽけなものであることに気づかせる。賭けはうまくいかないことのほうが多いのだけれどね。

 

ミカモン

 

 

★The Power of Tardigrade《パワーオブクマムシ》

 

菅実花 / Mika Kan 2025

 

映像インスタレーション

Video installation

 

 A:テラはAIブームらしい。チェスも将棋もAIソフトがヒトのプロフェッショナルを凌駕し、俳句のコンテストもAI作品だらけ、とうとうAIが書いた小説が文学賞を受賞してしまったようだ。イベントのフライヤーは画像生成AIを使えば簡単にできるらしいし、猫も杓子もAIだ。

 

 Y:クマムシもAIの時代か。

 

 A: そもそも《パワーオブクマムシ》は、チャールズ&レイ・イームズ夫妻の教育短編映画Powers of Ten(1977年)を踏まえている。元の作品は、シカゴの公園での昼食を終えた男女のショットから始まる。1辺が10の0乗メートル=1メートルの正方形のフレームで、垂直に見下ろすカメラが10秒かけて上空へ上がっていき、フレームに映し出される範囲が公園全体に相当する10の1乗平方メートル=10平方メートルに達する。同様に、カメラは上昇を続け、フレームの範囲がアメリカ合衆国全体、テラ全体、太陽系全体、銀河系全体へと累乗・べき乗的に拡大していく。1辺が1024メートルのところでカメラは上昇をやめ、スピードを上げて再び公園の男女まで戻っていく。フレームが今度は負の累乗方向へ、つまり10のマイナス1乗平方メートル=10平方センチメートルへと縮小し、やがてヒトの体内へ、皮膚組織、毛細血管、白血球、細胞核、DNA、タンパク質、炭素原子、原子核、そして陽子へ達する。10-16メートルでカメラの下降は止まる。

 

youtu.be

 

 Y:なるほど、補足情報ありがとう。では、“Powers of Ten” の “power” は「累乗・べき乗」の意味なのだね。ところが、生成AIがつくった《パワーオブクマムシ》の「パワー」は明らかに「力」や「エネルギー」という方向にズレている。まず、スケールの感覚がおかしい。本来的にクマムシはどうあがいても1mm程度しかない生物なのだが、宇宙空間に出ていくとヒトと同じくらい、あるいはヒトを凌駕した大きさになってしまう。「累乗」で考えると、フレームは累乗が増えるたびに大きくなったり小さくなったりするけれども、フレームのなかに映っているものは同じサイズだ。しかし、《パワーオブクマムシ》ではフレームの大きさはずっとそのままで、フレームのなかの個体、クマムシのような生物——仮にくまモンと呼んでおこう——が巨大化する。スケール感覚が混乱するね。クマもんが宇宙空間で「パワー」を得たかのように。

 

 

 もう一点、菅実花によく似たヒト——仮にミカンと呼んでおこう——が宇宙空間をなんの装備もないままに遊泳する。ヒトは無酸素状態で長時間生きていくことはできない生きものなので、ふつうに考えたらありえない。しかし、クマもんが宇宙空間という限界環境においてその秘めたる「パワー」を引き出されて、ミカンと融合したという解釈なら整合性はとれるかもしれない。

 

 A:始めはクマムシと一緒に菅実花が宇宙に行くプロットだったのだが、生成AIはクマムシとヒトが融合する方向で出力してきたらしいな。

 

 Y:まるでキメラだ。しかしそもそもAIのつくったミカンは細部において菅実花ではないし、クマもんもクマムシに似てはいるが細部ではクマムシではない。もちろん、AIの精度が低い、とか、杜撰だ、という話ではないよ。AIは、プロンプトと集めた情報を合成する。合成する過程で、異物が混じったり、歪な構造になったりするわけだが、そもそも合成は異化を伴うものだ。映像のなかのミカンとクマもんが融合するというよりは、それぞれAIによる合成によってつくられたミカンとくまモンがもう一度外宇宙で合成されてミカモンになっていると考えるといいのかもしれない。

 

 

 A:それは進化にも似ているね。テラの生物は同じ種をくりかえし再生産しているように思われているが、実際には適応的か否かにかかわらず少しずつ変異をためていき、やがて別のものへと変わっていく。さらには、ミトコンドリアの例に代表されるように、本来は異なる種に属していたはずの生物どうしが互いに同じ生を生きることもある。地衣類やサンゴのようにね。現実においてもそうだ。クマムシとヒトが出会ったからといって、クマムシとヒトの遺伝子が相互に水平伝播することはないかもしれないが、それでも互いにリスペクトがあるなら、一緒にいるうちにクマムシもクマムシではないものになり、ヒトもヒトではないものになるだろう。生成AIにどんなに完璧な模倣を求めても同一にはならず、誤差が残るのは避けられないが、それは性能の問題というより、進化の問題なのではないのか。[23]

 

 

 Y:生命の起源を探す合成生物学(synthetic biology)や化学も極限生物学の仲間だが、合成はシンセサイザーのようなものでもあるかもしれないな。タルパウェブをググっていたら、ヒトが書いたと思しきこんな断片を見つけたよ。

 

(音を再現するのではなく)音の質料を分子化し、原子化し、イオン化して、宇宙のエネルギーをとらえるにいたる音の機械(、、、、)。そのような機械がアレンジメントをもつとしたら、そこに生まれるのはシンセサイザーだ。モジュール、音源や処理の要素、振動子、ジェネレーター、変成器などを組み合わせ、ミクロの間隙を調節することにより、シンセサイザーは音のプロセスそのものを聴取可能なものにし、このプロセスの生産も聴取可能にし、音の質料を超えた他の要素との関係にわれわれを導く。シンセサイザーは不調和なものを素材の中で結びつけ、パラメーターを一つの方式から別の方式に移し替える。存立性の操作によって、シンセサイザーは先験的総合判断における根本原理と同じ地位を占めることになったのだ。そこでは分子状のものと宇宙的なもの、素材と力が総合〔合成〕されるのであり、形相と質料、土台(、、) Grundと領土が総合されるのではない。哲学も総合判断であることをやめ、複数の思考を総合〔合成〕するシンセサイザーとして、 思考に旅をさせ、思考を可動的なものに変え、宇宙の力に変えるのである(同様にして、音が旅をすることもある……)。[24]

 

 ヒトは「ジンテーゼ(synthesis)」というと、綜合や合一のように、複数の異分子がきれいにくっついて矛盾も相克も解消すると考えるらしい。しかし機械は綜合も合一もせず、合成する。シンセサイザーの音楽は、楽譜に書きとめられたひとつのまとまった楽曲というよりは、無数の音や声が、入力と出力のあいだで微分・積分されながら合成される場だ。合成は常に「不調和なものを結びつける」なかで矛盾や相克を残しつつ、常に別の音との関係に開かれた終わることのない力のせめぎあいをつくりだす。生成AIをシンセサイザーとして考えるなら、合成AIと呼ぶべきかもしれないね。そして、生きものの生もまた自然の所産なのではなく、それ自体ある種のシンセサイザー、あるいは合成の力、果ては「宇宙の力」なのかもしれない。

 

 A:音楽か。ちょうどいい。次の展示装置はサウンド・システムなんだ。

 

再合成、略して「再成」

 

 

★Into the Deep Sleep《深い眠りの中へ》

 

前林明次 / Maebayashi Akitsugu 2025

 

立体音響システム、乾眠状態のクマムシ、大理石製の弥勒菩薩像、ミラーボール、人工の落葉、顕微鏡、モニター

 

3D sound system, a tardigrade in cryptobiotic state, marble statue of Maitreya, mirror ball, artificial leaves, microscope, monitor

 

 A: 遠くで風が吹き、木の葉の舞う音が間歇(かんけつ)的に聞こえる。手前には顕微鏡の視野を映したモニター。クリプトビオシスに入っているクマムシがいる。奥に進むと椅子がある。椅子に座ると、眼の前には弥勒菩薩の像。菩薩の背後では、ミラーボールがつくりだすサイケデリックなヴィジュアルイメージが色調を変えながら絶えず明滅している。さっきの風の唸りや木の葉の擦過音がより立体的に展開していて、どこかの野外に晒されているように感じる。

 まずクマムシのクリプトビオシスと弥勒菩薩の関連を確認しておこう。カール・ルイスの墓エリアには横蔵寺という寺があって、そこには即身仏という、いわばヒトのミイラが祀られている。[25] 仏教という宗教の教義によると、釈迦の次に如来になる定めの弥勒が悟りを開くのは56億7千万年後だと言われている。[26] 即身仏となった僧侶は、世界の終わりでもある弥勒如来到来までミイラ状態のまま過ごすことになる。これは、乾燥して「樽」の状態のまま代謝のない休眠状態に入り、あらゆる困難をやり過ごすクマムシにも似ていると言えるかもしれない。横蔵寺のサウンドスケープのなかには、即身仏もクマムシもきっといたはずだ。椅子に座れば、たちまち即身仏とクマムシが聴いていた音の世界が再生=再現(replay=reproduction)される。

 

 

 Y:だが果たして再生された音景は録音された音景と「同じ」だろうか。横蔵寺で録音された音声データの再生は、とても立体的で、本物よりもリアルであるかのように聞こえる。けれども、ある録音データを異なる場所や時期に再生したときに、録音時と同じ経験ができるものなのだろうか。疑問はもうひとつある。即身仏として56億7千万年を過ごしたあと再生する僧侶は、それ以前の僧侶と同じ生を生きるのだろうか。もしクマムシが60年クリプトビオシスの状態を維持したあとに再生したとき、それはそれ以前のクマムシと同じ生を生きるのだろうか。

 

 A:同じだろう。確認するなら、56億7千万年後に即身仏になる前の記録と照合すればいいだろうし、クマムシの場合は小さなタグでもつけておけば、クリプトビオシス以前と以後のあいだに連続性を認めることができるだろう。そして、録音された音声データが横蔵寺の境内で実際に聞こえる風音にどれほど近づけるかどうかという技術的課題〔忠実性(fidelity)〕は措いても、記録音声を再生する際に聞こえてくるものはいつも同じだろう。翻訳の課題を措けば、このログが誰にでも同じ記録として読まれうるように。

 

 Y:そうだろうか。たとえば、先人たちが残した書籍が累々と積まれたアーカイヴのなかで、植物の繊維を撚った支持体〔紙〕に油性のインクで印刷されたものを熟読するときと、おしゃれなカフェなる場所で黒い液体〔コーヒー〕をすすりながらスタイリッシュな通信機〔スマートフォン〕の画面で読むときとで、このログの読まれ方は変わるだろう。まったく同じ文字列でも、たとえば註記を端折ったり、気になるところ以外は飛ばし読みをしたり、注意が散漫でなんにも記憶に残らなかったり、あるいは集中しすぎて自分の経験を重ねるあまりまったく異なる解釈をしてしまったりするかもしれない。再生されるときにいつでもどこでも同じものが再現されているわけではない。

 さっきの隕石に話を戻せば、プロトセルは確かにテラの情報を記録しているかもしれないが、それは単独で存在しているわけではない。記録されたものは、情報を読み取る他の存在や情報を抽出するための機器と密接な系(system)をつくっている。テラにはかつてフロッピーディスクなる記録媒体があったらしいが、誰も関心を持たないし、読み出す機器がない今では食えない煎餅のようなものだ。プロトセルはそれ自体では、日本海や東シナ海をわたってくる黄砂にまとわりついた微粒子PM2.5と変わらないだろう。プロトセルをなにか意味のあるものとして認める他の誰かやそこから情報を得るのに適切な機器がなければ、それはプロトセルとしては存在しない。記録は常にさまざまなものを巻き込んだ系として初めて再生される。

 だから音声データを再生したときに横蔵寺のサウンドスケープが再現されるためには、ある種の理想的な聴衆やノイズの入らない環境が必要になる。境内に思いを馳せ、即身仏の心象風景を想像するような聴衆と、邪悪な悪口雑言の羅列〔ラップミュージック〕や工事現場の騒音が干渉してこない、厳重に管理された実験室のような場所が必要だ。そうでなければ、音声データはそこに記録されているものを忠実に再現できないだろう。フィールド科学が再現性(reproducibility)に苦しむのは、フィールドが実験室ではないからだ。

 

 

 A:つまりYamato、音声データを再生機にセットし再生ボタンを押したときに、ノイズが干渉してくるから、それはデータの再現にはならず、むしろ記録データにそれとは関係のないノイズを合成してしまう結果になる、ということが言いたいのか。

 

 Y:それもあるだろう。だが、肝心なのはなにがノイズなのか判別できないということだ。クロレラの共食映像を見て、イネのテラリウムを見て、テラ発の隕石を見て、ミカモンを見たあとに、横蔵寺のサウンドスケープを記録した音声を聞く。そのときいったいどれがノイズで、どれがBGMで、どれがリードボーカルだと判断できるだろうか。実際、これらはすべて系をなしている。わたしも君のタルパマンシーを通じてこれを経験している以上、君はわたしと同じ系を共有していて、わたしはその外部に出ることはできない。おそらく一番問題になるのは、舞台から飛び出して観客席から俯瞰し、どれが主役や脇役かを見分けることができないということだろう。なにもかもが同じ舞台の上に載っている。主役と脇役を見分けようとしたところで、その行為自体も舞台上で行われているのだから、演技と見分けがつかない。だから、サウンドスケープを記録はできてもその再生は記録を再現しないというわけだ。むしろ再生の際には、そのとき同じ舞台に載っているものとの合成、そしてそれらの関係性そのものの合成が伴う。もしかしたら、再生というのは記録の再現どころか、録音以前にすでに合成されているものの再合成(re-synthesization)なのかもしれない。

 これはメディウムの劣化や破損の問題でもない。横蔵寺のサウンドスケープはここにはない。イネやクロレラ、隕石、クマムシが聞いてきたサウンドスケープであり、わたしや君がどこかのホシで聞いたことのあるサウンドスケープであり、まだ誰も聞いたことのないサウンドスケープでもある。風が吹き、木の葉が舞う現象はテラであればどこででも起こりうるだろう。その音声記録の内容は普遍的と言ってもよく、どんなにリアルに聞こえようとも特別なところはない。だが、それが再生されるときには、横蔵寺の現場と同じ程度に、しかしそことはまた別な経験として、特別なものになりうる。記録メディアの不思議なのは、どこにでもあるものがどこにもないようなものとして再生されたり、どこかにしかないものがどこにでもあるように再生されたりするところだ。つまり、記録メディアは再生のたびに新しい系を再合成している。[27] だから、クマムシも即身仏になった僧侶も、記録メディアになったからには無傷ではすまないと思うのだよ。

 

 A:思念体はまことに煩悩の塊よ。やばたにえん。

 

 〔ログはここで終わっている〕

 

 

[1] 1984年にアメリカの隕石探索隊が南極のアランヒルズで発見した、火星から飛来した重さ1.9kgの斜方輝石岩につけられた標識名。1996年にNASAジョンストン宇宙センターのデイヴィッド・マッケイ博士は、この隕石に火星の原始生命の痕跡が認められると主張する論文を『サイエンス』誌に発表し物議を醸した。論争は現在も決着をみていないが、生命の痕跡であるという証拠もない。

[2] 岐阜県大垣市にはカール・ルイスの墓がある(Google Map、https://maps.app.goo.gl/9zNMXGNU4s5j6ZQk8)。タルパマンシー(tulpamancy)は、霊的実践や極度の集中によってつくられた思念体(thought-form)を指す人智学の用語。ALH8001を名乗る思念体は、なんらかの技術を用いてカール・ルイスの墓にいる物体、もしくは何者かに思念を同期させたと考えられる。

[3] 同じく火星に出自のある隕石のひとつにつけられた標識名。テラに思念を送り込んだALH8001と宇宙空間で交信するもうひとつの思念体であると思われる。

[4] “Arts of Living on a Damaged Planet” は、人類学者アナ・ツィンらが2014年5月にオーフス大学人類学研究所で企画したシンポジウム名、並びに2017年刊行の論集の書名。

[5] 極限環境生物(extremophiles)は多くの場合、微生物を指す。研究が進む一方で、極限環境微生物はサンドオイルやレアメタル、シェールガスと並ぶ、人新世の資源採掘主義(extractionism)の新たな資源候補となっている印象もある。たとえば、Angela Zhou ”Extremophiles: Unlocking biomedical and industrial innovations from life at the edge”(CAS  Org., Oct. 29, 2025, https://www.cas.org/ja/resources/cas-insights/extremophiles-biomedical-industrial-innovations)の筆致に注目。

[6] アーキアは、細菌と真核生物と並ぶ、生物三大ドメインのひとつ。プラスチック分解能をもつアーキアに関しては、たとえばAva Grace, “Ocean depths yield a silent ally in the plastic crisis: Bacteria evolve to digest our waste,” (Natural News, Nov. 6, 2025, https://www.naturalnews.com/2025-11-06-ocean-depths-yield-silent-ally-in-plastic-crisis.html)を参照。細菌や菌類と同じように、アーキアは人体のなかにも生息している。アーキアは、捕食した好気性細菌がATPを合成するミトコンドリアとなって細胞内共生し、真核生物への進化の道を開いたことでも知られる。真核生物の祖先となるアーキアに、現生生物のなかでもっとも近縁なMK-D1株が知られている。マサル・K・ノブ「原核から真核生物誕生への道筋」(『季刊生命誌』104、2020年12月、https://www.brh.co.jp/publication/journal/104/rp/research01/)を参照。また油田、塩田、塩湖、強酸、強アルカリ環境、高温環境などに生息するため、アーキアは極限環境微生物の代表格でもある。深海の海底や海底下では未知のアーキアが次々と見つかっている。稲垣史生『DEEP LIFE 海底下生命圏 生命存在の限界はどこにあるのか』(講談社、2023年)を参照。

[7] 生命の起源としては、現生生物の遺伝情報を遡って得られた、LUCA(Last Universal Common Ancestor)という今日知られている全生物の祖先である、約40億年前に存在していた単細胞有機体が知られている。しかしLUCAは生命の起源ではない。実際には、LUCA以前に、DNAやRNAを使わずに複製をする(つまり遺伝情報からは辿れない)、約38億年前に出現した原生命の存在が想定されている。その姿や性質は多分野による議論の焦点となっているが、議論が一筋縄ではいかないのは生命の定義が困難なことにも起因している。教科書的なところで言えば、膜の存在、代謝、複製、恒常性、進化が生命の条件として挙げられている。たとえば、岩崎秀雄『〈生命〉とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』(講談社、2013年)や藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか 合成生物学が生みだしつつあるもの』(講談社、2019年)を参照。 

[8] 鈴木忠『クマムシ?! 小さな怪物』(岩波書店、2006年)67ページを参照。クマムシをかわいいと思うのはヒトとして一般的な反応のようだ。

[9] Ravi Durvasula and D. V. Subba Rao, “Extremophiles: Nature’s Amazing Adapters” (in Extremophiles: From Biology to Biotechnology, eds. by Ravi Durvasula and D. V. Subba Rao, CRC Press, 2018), p 5を参照。クマムシは徐々に乾燥するうちに「樽(tun)」と呼ばれる酒樽のような形状になり、代謝をやめる。この状態をクリプトビオシスと呼ぶ。水をかけると再び代謝を始める。

[10] 鈴木9ページを参照。ただし海洋と陸では生殖方法や生態が異なる。

[11] 福田博之「実験!モデル生物図鑑: Home」(九州大学附属図書館ウェブサイト、https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774940&p=5558793)を参照。

[12] クマムシのタンパク質を利用すると、X線によるヒトDNAの傷害を40%抑制することができたという実験もある。ジェイソン・ビッテル「クマムシ固有のタンパク質に放射線からDNAを守る作用」(小林盛方訳, 『Nature ダイジェスト』 Vol. 13, No. 11, DOI: 10.1038/ndigest.2016.161104, https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v13/n11/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7%E5%9B%BA%E6%9C%89%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA%E3%81%AB%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E3%81%8B%E3%82%89DNA%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E4%BD%9C%E7%94%A8/79856)を参照。

[13] 「電磁気今昔物語 第8回:植物への電気刺激」(『電磁波なんでも情報』 2010年5月 https://www.jeic-emf.jp/public/web_mag/news_letter_1/news_letter_08.html

[14] Miles Hatfield and Rachel Lense, “NASA Discovers a Long-Sought Global Electric Field on Earth” (Aug. 30, 2024, National Aeronautics and Space Administration, https://science.nasa.gov/science-research/heliophysics/nasa-discovers-long-sought-global-electric-field-on-earth/).

[15] 田村元秀『教養としての宇宙生命学 アストロバイオロジー最前線』(PHP研究所、2022年)44-45ページ。

[16] 田村76-80ページ。宇宙生物学との関連に関しては、久保田晃弘「国際シンポジウム「活動する物質:アートと自己組織物質 / 物質の行為者性 / プロト・エイリアン」レポート」(2019年7月8日、https://www.iamas.ac.jp/report/matters-in-motion/)を参照。

[17] 戸谷友則『宇宙にはなぜ、生命があるのか 宇宙論で読み解く「生命」の起源と現在』(講談社、2024年)220ページ。ランダムな化学反応で生まれるRNAの長さが自己複製可能なところまで長くなる可能性は観測可能な宇宙では限りなくゼロに近いが、10100個の恒星系が観測可能な範囲を越えて広がっていると仮定する、インフレーション宇宙論に基づけば、RNA一本鎖を複製原理とする原始生命の誕生の確率はぐっと上がるという。

[18] この隕石はセラミック製である。

[19] たとえば、アルフレッド・W・クロスビー『ヨーロッパの帝国主義 生態学的視点から歴史を見る』(佐々木昭夫訳、筑摩書房、2017年)を参照。

[20] プロトセルについては、「教員インタビュー:ホアン・マヌエル・カストロ准教授」(2020年6月4日、https://www.iamas.ac.jp/report/interview-juan-manuel-castro/)を参照。本作品のプロトセルには、クマムシのクリプトビオシスを模したガラス化法(vitrification)が使われている。 作家は次のように説明している。“these protocells are designed to withstand extreme environments. When conditions get brutal, these protocells encase themselves in a glassy shell composed of tardigrade proteins and fatty acids. In this vitrified state, they shut down and endure exposure to vacuum, radiation, and extreme cold. Inspired by tardigrade cryptobiosis, the system is reversible: upon contact with water, the shell dissolves, and the protocell reanimates.”

[21] 楊磊(ヤン・レイ)監督『三体』(2023年)第28話を参照。

[22] “Space Bacteria” (Studio Genotype, https://cargocollective.com/studiogenotype/Space-Bacteria)とウィリアム・マイヤーズ『バイオアート バイオテクノロジーは未来を救うのか。』(久保田晃弘監修、岩井木綿子+上原昌子訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2016年)362ページを参照。長谷川愛《極限環境ラブホテル、木星ルーム(The Extreme Environment Hotel, Jupiter Room)》(https://aihasegawa.info/the-extreme-environment-love-hotel-jupiter-room)を参照。

[23] Donna HarawayのThe Companion Species Manifesto: Dogs, People, and Significant Otherness (U of Chicago Press, 2003) やWhen Species Meet (U of Minnesota Press, 2007)における共生成(becoming-with)の概念に近い。たとえば、「非人間的友情という隘路 最小の友情、そしてダナ・ハラウェイ「かけがえのないタガい」(『現代思想』2024年6月号、177-192ページ)を参照。

[24] ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(宇野邦一他訳、河出書房新社、2010年)386-87ページ。

[25] たとえば、「最澄と旅した薬師如来像、ゆかりの横蔵寺を訪ねる」(『いろり端』、 「探訪「1200年の魅力交流」)、https://1200irori.jp/content/interview/detail/guests32)を参照。

[26] たとえば、「世界が終わるときやってくる。56億7千万年後に降臨し人々を救う「弥勒」とは。」(『講談社』ウェブ、2023年8月7日、https://news.kodansha.co.jp/books/9837)を参照。

[27] 再生と合成の問題については、「教員インタヴュー:前林明次教授」(https://www.iamas.ac.jp/report/interview-maebayashi-akitsugu/)を参照。

6/30 東武東上線と丸木美術館と菅実花個展のある一日

 まず、東武グループのみなさまに土下座したい。

 西武ライオンズセゾングループから西武のことはもちろん知っていたものの、まさか東武なる企業体が存在するとは思わなかった。

 東武さまが存在するおかげで、わたしは池袋から東武東上線に乗り、森林公園駅まで到着することができた。東武さまが存在しなかったら、わたしは3日ほど寝袋を背負って行脚を重ねる必要があっただろう。行程がものの1時間ほどに短縮できたのも東武さまのおかげである。ここに感謝と陳謝を重ねて、精神的に土下座する。

 さて僕の記憶にある限り、埼玉県初体験である。

 着いてみるとなにもない。立正大学のキャンパスに向かうバスがやってくる。バスの向こう側に見える看板や店名表記のペンキは、白塗りされたやんちゃなタギングのように褪色し、風化し、ゆっくり衰退している。ベンチに座って煙草を吸う。そして先ほどから暇なのだろう、世間話に余念のないタクシーの運転手たちの話を遮り、どっかりと乗車する。

 「原爆の図丸木美術館まで」と行き先を告げた。それで会話が終わるわけがない。田舎のタクシー運転手は饒舌と相場が決まっている。

 どうやら僕が降りたのは目的地から見て、駅の反対側だったらしい。駅の南側へと車を滑らせながら、埼玉にはなにもない、敢えて言うなら東京に近いことくらい、といった「ダサイタマ」自慢が続く。100ほどの会社が両側に展開する工業団地を抜けると、一転して道は狭まる。とてもひとりではたどり着けそうにない、けものみちみたいな小道を2本抜けていく。途中には「丸木美術館」への道順を示す看板がひっそり掲げられている。

 運転手のおいちゃんによれば、丸木美術館は地元の子どもたちには平和学習の場として知られているらしい。僕は「へえ」としか言わない。例によってなにも事前に知らないままここに来ている。法王がいること以外具体的になにも知らないままバチカンに行ったこともあるくらいだから、このぐらいのことはなんでもない。ただ原爆に関する作品があるんだろうことぐらいは僕にでも想像がつく。

 ほどなく着く。「入館料ただにしてもらいなよ、ははは」というおいちゃんの笑いに苦笑いをかぶせて下車すると、そこにはほっそりとした川とあたりを覆う草むらのほとりを眼下に臨む、年代もののなんとも冴えない建物があった。貝殻のようなものが壁面には埋め込んである、実に冴えない建物で、美術館という看板がなければ素通りしてしまいそうだ。ベンチや庵のようなものがあたりには散っている。ちょっとした休憩所といった趣きだが、どこに向かう途中の休憩所なのかがわからない。ギリギリ風情がよいと言っておこう、という感じだ。

 受付で喫煙所のありかを教えてもらい、一服×2を終えると、入場料を払い、荷物を預けた。貴重品ないですか、と聞かれたけども、結局、財布が入っててもちゃんと見ておくから大丈夫とのことで、なんで聞かれたのかよくわからないが、命以外はすべて預けても大丈夫なようだ。二階から常設展示が始まり、そこから一階に降りていく、というのが順路らしい。

 階段を登って最初に入った部屋には、天衣無縫な、天真爛漫な絵が並ぶ。丸木スマという方が70歳を過ぎてから書き始めた絵らしい(ようやく僕は、ここが「丸木」という方が書いた絵を展示する個人美術館であることに気づいた)。文字の書けないスマさんが見つけた表現が絵画だった。このあたりの景色を一生懸命に描く。目に見えるものの写生を目指したのに、リアルから遠ざかっていく。その目と手のあいだにある距たりが絵画の遊び場であろう。「手」が高くなればなるほど、遊ぶことの難しさを思い知ることになるだろうし、「目」に映るものが筆舌に尽くしがたいものであればあるほど、「手」の未熟さと葛藤することになる。その距たりを喜びとして遊びつくして死んでいった、幸福な人なのだろうと思った(わたしはセンスゼロなので、この絵のおもしろさは正直よくわからない)。

 果たして、2階にあるもうひとつの部屋では、手と目の距たりを最大限苦しんだ好例が壁面いっぱいに展開していた。それぞれ油彩画と水彩画を専門とする丸木位里・俊夫妻が、原爆投下直後の広島市内を実地調査し、その経験を屏風四曲一双に表現したものだという。部屋は2分割されている。だからここには、四方から屏風に囲まれる場がふたつある。展示空間はそう、オランジュリー美術館の睡蓮の間のようだと思った。ただし、描かれているものはそんな牧歌的なものではなく、字義通りの地獄絵図である。焼けただれた皮膚、潰れた顔、ねじ曲がった四肢、あてどなくさまよう群れ、炎に包まれた肉塊、肉塊の山、群れるカラス、カラスと見分けのつかない黒い死体、死体と見分けのつかない生者。ひとつひとつの屏風にタイトルがつけられている。しかしこれらはひとつの作品である。どれもはっきりした描線ではないし、構図のなかにさらに構図が重なるという複雑怪奇な様相を呈している。ひとりぼっちの者はいない。だれもがやけどした皮膚や肉についた蛆やこびりついた灰でつながっている。しかもどれひとつ止まっていない。どれもこれもが震え、おののき、死体の山ですら今にも崩れたり、新たな死体の投入によってかたちを変えていきそうに感じる。縦1.8メートル×横7.2メートルのスケールでしか表現できない、しかしそのスケールでも表象することのできない地獄絵図。その動的な死体置き場のなかに僕のための居場所はない。手と目の距たりは、丸木夫妻をして32年間、計15の図を書かしめた、呪いとでもいうべきものであったように思われる。限りなく濃密で薄い距たり。一切の隙間のなく埋め尽くされた距たり。僕はこの分割された部屋で、2度圧迫された。

 1階に降りると、2部屋にわたって《原爆の図》が続く。ただしここからは「日本人の」広島を超える。ビキニ環礁被爆した第5福竜丸、原水爆禁止運動の署名、米兵捕虜の被曝、カラスについばまれる在日朝鮮人の骸。無差別大量死のなかにある差別、そして核の拡散、敵/味方を超えた地上の惨状が生きているものの顔と死んだカオナシたちによって埋め尽くされる。特に目に留まった「とうろう流し」は、走馬灯のように流れていくさまざまな顔や出来事が十重二十重に重畳し、出来事の全体像を表象することを放棄しつつ、その断片を執拗に表現している。どれもこれもが割り切れず、消化できない、丸く収まることのない、矩形の断片の蝟集と運動。散り散りになった断片を塊に捏ねてみたり、別の断片と整合させてみたり。2階の圧迫感から少し解き放たれて、僕はひとつの断片として、この美術館のなかに居場所を得たような気がした。

 その次に待っていたのが、菅実花「The Ghost in the Doll」展だった。http://theghostinthedoll.strikingly.com/

 まず、ガラス製の湿板写真が3点並んでいる。手のひらサイズ。映っているのはどれも赤ん坊。小さな、ポケットに入れて持って歩けそうな赤ん坊。それぞれかわいいベビー服を着せられて、おもちゃを手にし、育ちのよさそうな調度品に囲まれている。

 その左手には、1メートル四方ぐらいのプロジェクション。白いおべべを着た赤ん坊がスヤスヤ眠っている。これは静止画なのだろうか、動画なのだろうか。答えは僕のなかのゴーストに訊いてみるしかない。

 それからホワイトキューブに入る。

 先ほどと同じような赤ん坊を被写体とした湿板写真が11点並ぶ。ただし今度の図像は僕の体よりずっと大きく引き伸ばされていて、僕の目線よりも上方に掲げられている。巨大化した赤ん坊に見下ろされる感じだ。ホワイトキューブのなかだと、白黒の写真がよく映える。そして、これまで見てきた《原爆の図》の圧倒的な物量と密度、塊の強度に圧倒されてきた僕には、とてもスカスカな感じがした。空白が多い。この作品どうしのあいだの余白、さらにはまったく作品が展示されていない白壁まで含めれば、空間の使い方はとても贅沢で、余裕を感じる。

 図像のひとつをのぞき込むと、湿板写真特有の流れや淀み、光沢のムラ、ノイズ、焦点の狭さがよくわかる。と同時に、被写体の不自然な目や、腕と足のゆがみが目につくようになる。被写体は現実の赤ん坊ではなく、精巧につくられた人形だ。それもただの人形ではない。リボーン・ドール。つまり、子どもができなかったり、子どもを亡くしてしまった夫婦が子どもの身代わりとする人形だ。19世紀当時、しばしば亡くなった子どもの面影を残すために、着飾った死体を被写体とした写真が撮影されていた(死後肖像画も流行していたらしい http://www.amepuru.com/entry/2016/10/23/140257)。菅実花の作品は、この湿板を利用した死後写真の伝統の再現だとひとまず言えるだろう。しかし被写体は死体ではない。被写体は人形である。そして写真は手のひらサイズではもはやない。現代の技術を駆使した、見る側に仰ぎ見ることを要求する、巨大に引き延ばされたイメージである(画家として出発し、ラブドールシリーズでもデジタル写真に画家としての操作を加えている菅実花のことだから、ただ技術的に引き延ばしただけなのかについては疑問が残る)。

 調べてみるとどうやらリボーン・ドールの持ち主は、人形を実際の子どもと同様に大切に扱うらしい。持ち主にとってみれば、そこには魂=ゴーストが宿っているのかもしれない。魂が宿っているとすれば、そこにはある程度の自律性を認めなければならない。ドールは製品として購入される以上、モノである。しかしそのモノは、どのように扱われるか、どのような思いを傾ける対象となるかによって、ただのモノではなくなる。僕はこの展示でその思いの在りかをドールの持ち主とは別様に体験した。入口付近にあった手のひらサイズの湿板写真は誰もが所有できるサイズだった。しかしホワイトキューブに展示されている写真のスケールは所有を許さない。むしろ、かわいい赤ちゃんであることをやめた、全然かわいくない、怪物的な威容を備えた巨大な図像は、こちらに畏怖の念を抱かせ、精密な注意を要求する。スケールの変更は、僕の心を動かす。するとなにが起こるか。動かないはずのモノが動くかもしれないという念に囚われるのだ(僕がヘンなわけではないはずだ。事実、ホワイトキューブから出てきた別の鑑賞者たちは、入り口付近にあるプロジェクションを見て「動いた?」と語りあっていた)。スケールの拡大に加え、ホワイトキューブ内のたっぷりした余白やピンボケ、液の流れた跡、ノイズも、赤ん坊が動く余地を発動(activate)させる。

 動く。

 丸木夫妻の《原爆の図》はそのままアクティヴィズムだった。原爆の惨状を表現した作品と共に、彼らは全国を巡回した。《原爆の図》はそれ自体が平和運動であり、反核運動だった。そして多くの人の心を動かし、実際のアクションに結びつけた。おそらくは菅実花とその作品群もそれらのアクションの一部としてある。《原爆の図》と丸木美術館という「制約」に応じて制作をするにあたり(リボーン・ドールと《原爆の図》に表現された大量死との関係は明白である)、未だ発動していない菅実花のなにかが稼働しはじめたのかもしれない。そして作品はアクションの続きとして生まれ、その作品が観客のなにかを発動させる、というアクションの連続が起こる(もちろん、菅実花という作家のアクションの連続性もある Mika KAN | 菅 実花 - mikakan.com)。丸木夫妻が信じたようなイデオロギーが死んでしまった時代に、なおもアクティヴィズムは可能か。それはわからない。しかし少なくともイデオロギーそれ自体には紐づけられない、剥き出しになった発動(activation)の倫理のようなものを、菅実花の作品は夫妻から負債のように引き継ぎ、体現しているように思われる。感動(moved)? そういうなまやさしいものではない。動く。心が動き、カラダが動く。動くはずがないものが動く? 動くはずがないものが動く。これこそまさに丸木夫妻が《原爆の図》の実践に賭けたものだったのではないか。

 展示はまだ終わりではなかった。菅実花の個展を抜けると、《原爆の図》の続きがある。それはもはや原爆とは関係がない。アウシュビッツ水俣沖縄戦。《原爆の図》を携えた展示の旅先で丸木夫妻が出会った人やモノに触発されてつくられた屏風3点である。ホームページではこの3点を《共同制作》と呼んでいるhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/kyosei.htm。丸木夫妻にとって広島の原爆投下は一生を左右する出来事だったのかもしれない。しかしその惨状に突き動かされた彼らが向かった先には、数々の出会いによって原爆から逸らされた、しかしそれと似ている風景があった。僕はこの部屋で呆然と座り込み、少しの涙を流した。人災は常に悲惨で、救いがない。けれども、それらをひとつの場にとどまらせることなく、別の悲惨と勇気をもって結んでいくと、不思議と悲惨なだけではなくなる。僕は平和学習や反核運動にまったく関心はない。今やそれらはまったくの無力だ。しかしそういうイデオロギーの産物には今でも強い魅力があるし、学ぶべきなにかの在りかをそこはかとなく示してくれている。平和が大事とかそういうことではない。悲惨を悲惨なだけでは終わらせない「歌」を、僕らは歌うべきだ、ということだ。歌は、ひとりで歌っているように見えても、実はひとりでは歌えない。歌は他の誰かが歌ってくれなければ歌として残らない。菅実花は懐かしい歌にアレンジを加えて歌い継いでいるのかもしれない。少なくとも歌い継ごうとしている、と僕は思った。その歌がどんな歌なのかは、まだわからない。

 出口に向かう途中、小高文庫という名前のついた休憩室に寄った。なんでも丸木夫妻のアトリエ兼書斎だったらしい。この室の窓を背にして、ディスプレイが一台鎮座していて、そこでは菅実花と協働制作者による湿板写真の制作過程が早回しで展示されていた。僕は畳の上に寝っ転がってひとりあてどなく考えた。

 個展というものは存在するのか。そして丸木美術館のような個人美術館とはいったいなんなのか。これらは所詮は、この僕が最近考えている公共性をめぐる問いなのだけども。

 展示できない作品のある公共の美術館の存在意義とはなんだろうか。そして美術館とは作品を所有する場所なのだろうか。所有することなど可能なのだろうか。所有できたとして、作品と建物のあいだに図と地のようなあからさまな関係が成立しうるのだろうか。どこか特定の場所で展示される作品であれば、どの作品も個として自立する/自律することはありえないのではないか。それはつまり、作家が作品を所有することができないのと同じような意味において、美術館も作品を所有できないのではないのか。誰も所有できない展示された作品だけが、公共性を帯びるのではないだろうか。制作もまた展示の一部なのではないだろうか。終わりのない疑問につきまとわれる。

 疑問に暴力をふるってえいっと叫べば、以上はこういう感じにまとまるのかもしれない。美術館も作家個人も作品も、美術業界にはおよそ閉じることのない宛先不明のコレクティヴな運動の一部であり、制作行為とは作家名のもとに展示される作品にはとどまらない、有象無象のコレクティヴとその運動をつくりだすことでもあるのではないのか。菅実花の作品には、湿板写真家やリボーン・ドールの制作者などの名前がクレジットされている。それだけではない。菅の作品群は、丸木美術館という建物、そしてそこに展示されている作品群、ひいてはもうこの世に存在しない丸木夫妻との協働制作でもある。どこまでコレクティヴは及ぶのか、それは誰にもコントロールできない。だから僕は菅実花展に出かけたのだろうし、そのおかげで丸木夫妻の作品にも出会って、今これを書いているのではないのか。よくわからない。けれどもよくわからなくていい。僕のなにかが稼働していることだけは確かなのだから。

 岡村幸宜『《原爆の図》全国巡回』を購入して、預けていた荷物を回収し、外に出る。僕はタクシーを呼ばずに駅まで歩いた。スマホを持たない僕は、途中で中学生ぐらいの女の子とおばあちゃんに道を聞いた。鉄くずの山や無機質な工業団地の風景、やたら駐車場の大きな蕎麦屋、閑散とした道程。これらは僕の経験の一部で、丸木美術館の経験とも切り離すことができない。アートを経験するということはなんら特別なことではない。

 東武東上線に乗って池袋に戻ってきた(東武のみなさま、存在してくれていてありがとう)。喫茶店がどこも禁煙なので、たばこの吸える全品345円均一の居酒屋に陣取った。ビールがうまい。芋焼酎がうまい(九州の方がうまいがね)。おまけにアテもよい。待ち人である編集者が来た頃にはよい感じになっていた。彼もまた別件で飲んでいたらしい。わりとテキトーな話をしたような気がする。忘れた。けれどもいつか思い出すかもしれない。

 前回東京に出かけた際には、人生で初めて飛行機に乗り遅れた。国際線ターミナルでトランジット待ちの外国人旅行客と雑魚寝をし、翌朝の飛行機で帰った。こういうことは決して忘れない。今回はしっかり間に合った。けれども間に合わなかったときにしたかもしれない経験のほうが、実は尊いのかもしれない。

 帰ったどー。

4/13 亀川豊未個展オープニングレセプション当日の私的記録

 洗濯機が壊れた。

 しばらく前から洗濯するたびに爆音を発していた洗濯機。生活音からはかけ離れた、メカニカルな断末魔といった趣きの轟音だったから、看取る覚悟はできていたのだけど、いざ逝去されてみるとやっぱり困る。洗濯できないから。

 そこでヤマダ電機に洗濯機を買いに行ったのが一週間前。4/13は洗濯機が我が家に到着する前日だった。そこで、大掃除である。山積みの段ボールを畳んで紐で括り、古新聞や古雑誌と一緒に共同のゴミ庫へと運ぶ。キッチン周りをピカピカに洗浄する。風呂場やトイレ、洗濯機まわりをきれいに整える。普段がぐうたらだから、家電でも買わないと本気で掃除しない。だから洗濯機を買うということは、人間らしい生活をする雰囲気を出すための儀式、あるいは配達員という世間を代表する社会人に一応当方も人間であるということを知らしめるための儀式、すなわち掃除をするということを意味する。

 そして掃除をした。掃除は理念上常に未完の活動なので終了を軽々しく宣言することはできないが、一応した。そこは認めてほしい。

 そしてバスに乗って、小倉駅前で下車し、いつものコンビニでチーカマ2パックと水、笹かま、タンの燻製を買って、Gallery Soapに続く真っ暗な階段を上る。まだ夕方の6時過ぎだというのに真っ暗なのは、照明のせいではないし誰のせいでもない。僕がサングラスをかけているせいだ。

 珍しくSoapの扉が開けっ放しになっていた。入ると、DJブースがあって、知らないDJがなにやら東南アジアっぽい音楽を流している。20人ぐらいの人の顔が見える。なにやら食べながらなにやら飲んでいる。右のほうにはなにやら彫刻作品がなにやらの床になにやら数体鎮座し、三方のなにやらの壁には抽象画と巨大な掛け軸、なにやら小さなオブジェが十数体かかっている。おそらくはこれが亀川さんの展示作品なのだろう。そこまで確認したところで、カウンターに赴き、なにやら参加費1,000円を払い、生ビールをなにやら手にした。いい加減なにやらが過ぎるのでここでサングラスを外し、ふつうの眼鏡をかける。けれどこれはふつうの眼鏡ではない。なにしろ哀川翔デザインのSAMURAI SHOモデルだ。特に哀川翔が好きなわけでもないし、それはどうでもいい。明るくなった。そこが大事だ。

 ビールを片手に、亀川さんに挨拶する。以前、カンボジア現代アート展に出品した際の経験をスライド付きで報告する会がここで開かれたことがある。そのときから折に触れて、何度かお話は伺ってきた。

 亀川さんは30歳。楠の丸太からプリミティヴな物体を彫り出す肉体労働派の彫刻家だ。素材となる楠はどこだったか山奥に住んでいる「木こり」から直接仕入れる。製材として利用される木からははじかれた、比較的な安価な楠を、地元の木彫作家がグループで買い取る。アーティストは孤独ではない。「木こり」とつながり、他の作家と協働で制作のための基盤をつくる。この亀川さんの個展で、学生時代の同級生がDJを務め、知り合いの画材屋の人がいつも全然使われていない厨房で軽食と言うには贅沢なつまみを作ってくれている。Gallery Soapのスタッフによる展示空間の提供と演出もつけ加えることができるだろう。僕にはその程度の広がりしか見えないけれども、おそらく亀川さんはもっと広大な絡み合いのなかで制作しているに違いない。

 作品どうしにもどこかつながりがある。

 まず、木彫はコンクリートの床から生えている。床を突き破って生えているといってもいい。あるいは埋まっている。どっちだろう。筍のシーズンでもあるしちょうどいいのは確かだ。ただし生えている(埋まっている)のは筍ではなくて、顔のあるなにか得体のしれない生きものだ。フォルムは人間のかたちをしているように見えるけれども、人間からはずれている。三体の木彫のうち、一体はシャム双生児のようにふたつの顔面が接合している。体育座りをしているまた別の一体は、よくよく見ると右手がつくった鋭角のなかに膝を立てているのに左手が見当たらない。足首から下は床面のなかに沈んで見えない。中央に鎮座する一体は、四つのこぶのようなものの囲いのなかから頭が生えている。こぶには草花のようなものが挿してある。人間ではなさそうだ。かといってまったく人間に似ていないというわけでもない。三体の木彫だけを抜き出せば、エイリアンの化石かなにかを発掘している途中のようでもある。

 近くに寄ってみれば、当たり前だけど表面には生々しい彫琢のあとが刻まれている。牡蠣の殻を砕いてつくった白い顔料の紋様が木彫の身体にまとわりついている。草花からとられた青い染料がところどころにアクセントをつけている。楠の香りがほんのりと漂う。離れて鑑賞するときとは対照的に、まだ生きている感じがする。動き出す気配はない。床面にからだを没していてまったく動きはとれない。それでいて、死んでいるわけでもなさそうな気がしてくる。

 正面の壁面に掛けられた掛け軸はおよそ2メートル近くはあるだろうか。天井と平行に上を向いた目鼻のついた顔面の下には、輪郭だけが丸く伸びて、人間のかたちをしている。すべて墨で描かれている。幽霊のようでもあるし、卵の殻を割ったあとに人面疽状の黄身が白身を携え落下していく瞬間のようにも見える。フォルムの下には、濃淡さまざまな紋様、あるいは点描が散っている。左端には「豊未」の揮毫。

 右側の壁面には、小さな素焼きが10数点掛けられている。彫刻の際に余った楠の木片に簡単な成形を施したのち、炭化させたものなのだろうか。聞きそびれたので、どんな工程でつくるのか僕にはよくわからない。ただどれもこれも「キモかわいい」かたちをしている。蝋細工の手のひらサイズのフナッシーにライターを近づけてちょっと溶かしたらこんなかたちになるのかもしれない。こういうかたちのピアスが欲しいな、と思った。

 左側の壁面には抽象画が一点。木彫作家として亀川さんのことは認識していたので、やや戸惑う。僕には抽象画の歴史やコンセプチュアル・アートを語る語彙が欠けているのでなんとも言い難いのだけど、木彫のためのデッサンからは切り離されたまったくの非具体的ななにか、まだ存在しない未分化なかたちのようなものを亀川さんなりに表現したものなのかもしれない。ただ言えるのは、このアクリル画の支持体の上には和紙が張られているということ。この一点において、掛け軸との親和性は残っているし、書と抽象絵画のあわいを衝くような予兆が萌しているようにも感じる。

 各作品をつなぐのは木という素材である。紙は木からつくられるし、木彫は当たり前に木を彫ってつくるものだし、焼きものも楠を焼いたものだ。作家本人の志向はどうなのか知らないけれども、僕には、楠、ひいては樹木の素材としての可能性を追求する作品群であるように感じられた。そう考えてみると、木彫や掛け軸に表された人間であるようなでも明らかに人間ではない何かは、亀川さんが個人的に交霊している木の精霊であるようにも思えてくる。ここにはなにか、近代と未開の相克を無視して生じる、未知のプリミティヴなものの到来、未だ存在していないコスモロジーの端緒のようなものがあるような気もする。それはモデルネ(近代)における新しさの追求とそれがすでに新しくはないことを発見してしまう幻滅とは無縁だ。美術界のトレンドとも無縁だ。既存の文脈とも無縁だ。これらは無縁仏ならぬ、無縁の精霊だ。この無縁の精霊を介して、たまさか存在してしまったものたちは気まぐれに結び付けられて別様のコレクティヴをつくっていくのかもしれない。そんな亀川コスモロジーの萌芽。真相は知らないし、知りたくもないし、真相を言葉にする能力は僕にはない。それぞれ好きなことを考えたらいい。好きなことを考えることができるのがアートのいいところだと思う。

 というような僕の個人的なできの悪い彷徨は放っておいてもらうとして、とにかく木彫は存在感と厚み、重量が桁違いだし、平面作品と違って、360度パノラマで体験することができる。常々イメージと実物の作品にはそれぞれ異なる質があると思っているけれども、彫刻やインスタレーションはその差が途轍もなく大きい。

 以上の記述は、僕の酔っ払ったいい加減な記憶に依っているので制作に関する情報に間違いもあるかもしれない。当たり前だけど、それは僕のせいだ。ただ責めないでほしい。

 その代わり体験したいという人は、入場は無料だし、気のいいおじさんたちが歓待してくれるはずなので(保証はしない)、ふらりと出かけてみるといい。土日は亀川さん本人が在廊している。展示を体験できる上に、正確な情報を手にするチャンスだ。

www.google.com

開廊日時:
金曜日 午後6時 - 午後10時
土曜日 午後2時 - 午後8時
日曜日 午後2時 - 午後8時

g-soap.jp

 

 さて、予想通りまとまりのない記述になったけれども、まったく反省はしていない。その夜、僕はひたすら飲んだ。飲んでからラーメンを食べて電車が動き出すまで某映像作家のお宅にお邪魔し、朝方帰宅した。先週末もそうだった。だからまったく反省していない。

 昼過ぎにたたき起こされた僕が目にしたのは、新しい洗濯機だった。静かに洗濯して、静かに乾燥してくれる。文明万歳。

 

ハリネズミの温まり方

堀尾寛太「目的の設計」

pryo.jp

 

2018/10/20(土)17:00-18:30 ライヴ@川棚の杜・コルトーホール

施設案内│下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜

[出演]

heirakuG(平樂寺昌史)

G-RECORD Inc.

堀尾寛太

HORIO Kanta

 

 下関駅から山陰線に乗り換えると徐々に車内は冷えていく。日本海の匂いがした。

 川棚温泉駅に降り立つ。肌寒い。秋は終わろうとしている。

 川棚の杜を目指してまっすぐ歩く。だんだん体が温まってくる。

 分岐路に突きあたる。スマホは持っていない。手書きの地図だと右折して40号線を真っすぐ行くことになる。けれども目の前には川棚温泉と大書した看板が見える。一抹の不安を覚えつつ、地図に従う。

 真っすぐ進む。車が行きかう。少し上り坂。温かさを通り越して、体は放熱を始める。汗が滴り落ちる。車道の雰囲気と地図に書かれた位置関係から、いよいよ川棚温泉から遠ざかっていく気配が濃厚になる。農作業を終えて帰り支度をしていた老夫婦に道を訊く。やはり道を間違えた。来た道を引き返し、温泉街道とかなんとか書かれた案内板を見て右折して右に森を見ながら進んでいくといかにも温泉街という風情の建物に出会うようになる。念には念を入れてパン屋の主人に道を訊くと、「あの変な建物だよ」と教えてもらう。見間違えようのない変な建物。

 もうライヴは始まっている時間だろう。いかんせん時計も持たない主義なのでどれぐらいの遅刻かさえわからない。わき目もふらず件の変な建物のなかを直進し、予約していたチケットを購入、受付の方に案内されて、同じく遅刻した同志たちとコルトーホールのなかに素早く入る。子どもたちも一緒だ。

 扉が開くと中は真っ暗、目の前には線形のユニットが幾何学模様のなかにいくつか収まっていて、それらがズームインしたりズームアウトしたり、近接したり、遠ざかったりしている、こっそり進化を遂げたインベーダーゲームのプレイ動画のような映像が壁面に投影されていた。といっても配管が剥き出しになっている壁面はスクリーンとしてはあまりにも歪で、二次元の映像から土管サイズの管が飛び出してくる恰好になっていた。ほどなくして、電子音の連鎖がときおり途絶えつつ聞こえてくるようになる。

 歩き疲れたし、演奏中に客席まで向かう蛮勇に欠けてもいたので、入り口近くの手近な壁にもたれかかってへたりこみ、汗を拭きながら電子音が音楽になっていく様子を伺うことにした。

 右手に客席、左手にパフォーマーという並びのようだ。パフォーマーのメガネは妖しい光を湛えている。Macのリンゴマークが暗闇に浮いている。なにやら操作をしているらしい(後で聴いた話だけど、映像を動かして音楽を演奏するという趣向なのだそうだ。つまり、映像は楽器のようなもの)。画面上部にはドイツ語らしき文字列が次々と現れる。

 ほどなくして、映像のスケールが大きくなる。色とりどりの、角ばった針金のようなものに結ばれた星座のように見えた。それまでの映像はこの巨視的な宇宙の一部であったことが察せられる。スケールが変わっても電子音楽の質は変わらない。そしてドイツ語らしき文字列の介入も変わらない(後で聴いた話だけど、これはウィトゲンシュタイン『論考』の引用らしい)。マリリン・ストラザーン(カントールの塵)か、と構造を捉えて思ったけども、それはたぶん電子音楽を記述する言葉を僕が持たないせいだろう。子どもたちも楽しそうに映像を眺めながら、音楽に身を委ねている。

 ほどなくして、今度は円形の構造体が登場する。爆発(explosion)というか爆縮(implosion)のようだ。円形が内側へとさざ波を立てる。爆発音のような電子音が音楽にとって代る。どこにも解放されることなく、いつまでも内へ内へと力が溜まっていく。映像の右手にはworld〇: personal〇~という記号の列があって、数字の変化に従って、映像や音楽も変化しているように感じられる。やがてスケールが変わったのか、それとも円が解けたのか忘れたけども、ほとんど無限とも思える点の集合が現れた。星雲のようでもあるし、砂粒のようでもある。もしかしたら先ほどまで見ていた「爆縮」が起こっていたのは、このほとんど無限にも思える点のうちのひとつだったのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、heirakuGさんは楚々とMacのディスプレイを閉じ、小さく「ありがとうございました」と言い残して立ち去った。明転と拍手の合図だった。

 ここで休憩が入った。僕はタバコの箱を掴んで外に出た。右手の方を見ると、微かに夕焼けが空で滲んでいて、飛行機雲が一条たなびいていた。願わくば飛行機が無事に飛んでいった形跡であってほしいけれども、墜落の形跡だと言われたらそうですねと相槌をうってしまうほど、行き先の分からない飛行機雲だった。知人と少し喋って二本分のニコチンを補給した僕は、再び会場の中に戻った。

 会場は明るかった。巨大な配管が天井や横壁からにょきにょきと生えていて、なにか得体の知れないものの内臓のなかのようだった。コルトーホールは予算不足のおかげで臓器になった。できることなら、この空間が脈打ち、動態的に生きていてくれたらとさえ思ったけれども、建築にそこまで望むのは酷というもの。このインフラはとても堅そうで、生体としての可塑性やホメオスタシスは望めそうもなかった。でもこのつくりかけの、なんなら少し失敗した感じの臓腑らしさがよいのだ。いかにも目的が未定で、いかにも先がありそうで。

 果たして堀尾寛太が目的を設計することになるのだろうか。僕は客席最前列中央に相当する、地べたに置かれた分厚いブロックの上に腰かけた。よくわからない部品や道具がパフォーマー側の長机の上に、床に置かれた荷台の上に、あちこちに転がっている。堀尾さんは、長机の上に設置された電球のようなもののまわりになにかを巻きつける。セッティングは終わったとばかりに消灯をするが、少ししてもう一度明転する。少し手探りな感じがする。ややあって暗転すると、小さな箱のなかになにかを投げ入れる。ルーレット台を玉が高速で転がっているような音が延々と続く。電球のあたりから垂れ下がったイヤホンのようなものが、コロコロカラカラという音を拾っているようだ。それから慎重に距離を測り、微修正を加えながらまわりに小さなオブジェクトを置いていく。スピーカーのようなものやマイクロフォンのようなものが載っている。やがてイヤホンのようなものが回転を始める。周囲のオブジェクトに触れるか触れないかという距たり。イヤホンは音を拾うけれども、ヒュンヒュンという回転音を立てる役回りも演じている。ときどきオブジェクトをイヤホンに近づけて当てたり、別のオブジェクトを足したり、既存のオブジェクトを引いたりしながら、どんどんサウンドのありようが変わっていく。古いラジオから流れる民謡を補完するお囃子が聞こえる。

 やがて道具箱のなかから、針金やら紙コップやらよくわからないもので構成された、発作的で断続的な痙攣をする小道具が出てくる。どうやってつくったのか、まったく意味が分からない。意味が分からないが、やがてすぐ近くにある箱のなかの何者かに干渉することで、赤や青や緑といった色を発するものであることがわかる。僕の目の前でその奇妙な物体の蠢きと網膜に焼きつくような激しいフラッシュが繰り返される。テレビだったら、「光の激しい明滅がうんたらかんたら」というテロップが出る局面だが、なにしろ堀尾さんはそのよくわからない装置の周りに、これまたわけのわからない、穴のなかで小さなものが回っているお団子サイズのオブジェクトや、基板のようなものなど、さまざまなものを慎重に並べ始めている最中なのだ。わけがわからないが、くるくる回るオブジェクトの影絵が右の壁にできていることは確かだ。そうしてだんだん、間隔がばらばらに設置されたいろんなオブジェクトのいろんな動きと光と音によって、暗闇の中、このホールの全体を見回すよう導かれる。天井にはいつの間にか、稼働中のシーリングファンの影絵ができていた。左の壁にも影絵が。こうして僕は、この未完成の空間で行われるさまざまな遊びが、未だ目的を与えられていないなにかを見つけるように促されているように感じた。オブジェクトの微妙な距離、角度、位置の変更によって変化する音や風景。ハリネズミたちの距たりを調節しているようだ。堀尾さんはたびたび小さな失敗を犯し、そのたびにやり直す。他人との距離を測りかねて、つながりや切断をオン/オフの二極で考えてしまう僕たちのために失敗しているようにも見えた。もちろん遊びのなかで試行錯誤しているようにも見える。どちらでもいい。とにかくオン/オフの二極のあいだには無限に遊ぶことのできる余地がある。

 それからもなにかがいろいろとあったような気がする。忘れてしまった。けれども忘れてしまったのは僕のせいではない。堀尾さんのせいだ。最後に堀尾さんはブロアーの先っぽに細くて長い、二メートルはあろうかという筒状のビニールを差し込んで、送風を始めてしまうのだから。手を筒のあちこちに添えると、筒は折れて天翔ける稲光のように予期しない方向に伸びていく。ブロアーの強弱のスイッチを切り替えると、ビニールの筒は不規則に変形しながら、びゅんびゅんと闇の中を飛び交う。お忘れかもしれないが僕は特等席の砂かぶり席に座っていたものだから、筒の先端が帽子に直撃したり、頬を掠めたり、それはそれは賑やかだった。丁寧な距たりの調節という僕の頭を支配していた仮想のコンセプトを、このブロアーパフォーマンスが見事に打ち破った。これぞ機械仕掛けの神というやつだ。ずるい。けれど、この蛮勇が僕の求めていたものでもあったはずだ。ハリネズミのジレンマを克服するなら、さっさと針を抜いてしまえばいい。この真っ暗な内臓のなかで、僕はここでしか見れないもの、聴けないものを見聞きし、とうとう最後には見えない管が飛んでくる感覚を肌で触知することになった。

 種明かしはない。目的を設計するのはheirakuGさんでも堀尾さんでもない。たぶん僕だろう。パフォーマンスや作品は事実上未完成だからこそ、アーティストは作品をつくり続けることができるし、その作業をたまさか誰かが引き継ぐことになる。だから僕は、アートのことはろくに知らないくせに、これを書いている。子どもたちも一緒に楽しめるイベントは素晴らしい。それぐらいのことしか確実なことはわからない。

 僕はここで今回のイベントに参加するという目的を達成したつもりでいた。ところがトイレで堀尾さんと並びションをしたときに挨拶をしたら、いろいろなことが起こって、今回のイベントの主催者である増田玲子さん(Permanent Reality代表 PR Ryoko MASUDA | Music for Happiness, Happiness for Life)の車に乗っけてもらったばかりか、増田さんが経営する青木屋ビル一階にある、その名も「カフェ 青木屋ビル一階」(Google マップ)で行われる打ち上げに交ぜていただけることになった。初めて会うのに異物だと感じる必要のない、温めあい方の上手な人たちと一緒に、日にちが変わる頃合いまで楽しく語り合った。

 そういうわけで、僕はとてもいい週末を過ごした。

 

黒嵜想「仮声のマスク」と共に考える

※以下の文章は、「仮声のマスク」の要約でもなければ批評でもない。ただ共に考えてみた帰結である。

 

黒嵜想の連作批評「仮声のマスク」三部作が提示するのは、声の出どころとなる身体の所在を隠蔽しつつさまざまなモノの媒体としてさまよう「仮声のマスク」という声の動性であった。響き渡る声を特定の身体に紐づける「声の肌理」(バルト)においては、声は身体という錨を指示するブイ、あるいはその部分対象としてフェティッシュ化されている。これに対し、黒嵜は声の匿名的次元に耳をそばだてる。声は匿名化し、誰のモノでもないがゆえに誰のものにもなりうる、と黒嵜は言う。

正確を期すならば、黒嵜の論の焦点は、固有の身体から遊離する声の匿名性というよりは、声の属人的私有制の解体にあると見るべきだろう。動かない映像どうしをつなぐ声、あるいは『エヴァンゲリオン』におけるシンジの身体に同居する複数の声という公有の例証の対蹠には、誰にでも「調教」可能な初音ミクのサイボーグ的音声や誰とも知れぬ匿名化された電話交換手の声という収奪の例証がある。声が固有の身体から遊離する場合、声は公共メディア/パブリックドメインとしての可能性へと開かれると同時に、また別の権力による占有や奴隷制にも振れうる。「仮声のマスク」は共同体を志向する。しかしそれは身体とのつながりがあやふやな声の不安、そして収奪に曝されやすい声のあやうさの証でもある。

「仮声のマスク」はバルト批判であると同時に、デリダの読み直しでもあるだろう。デリダ『声と現象』における音声中心主義的な現前性=現象学批判に対し、「仮声のマスク」は生々しい身体の現象学的現前を不在にする声の機能を突きつける。デリダによる現前性批判の眼目は、常にすでに差延を孕むエクリチュールの運動性とその痕跡としての性質を隠蔽する声の詐術にあった。黒嵜の論は、他の身体への憑依と差延を志向する、声の(再)エクリチュール化の試みであるともいえるだろうか。身体の死を画する遺言的な声のエクリチュールに寄り添い「声の肌理」に抗う黒嵜は、くしくも同じバルトの「作者の死」に倣って、「声優の死」を宣告している、とさえ極論しても構わない。声の動態的機能性、身体なき声の存在論を問う地平はこうして開かれたと言えるだろう。

もちろん声の機能を、パブリックドメインを形成する声のエクリチュール「仮声のマスク」に限定することはできない。アニメーションや映像、音楽の視聴経験に際し、声優・俳優・歌手の声帯や声道に淵源する、声の帰属問題がなくなるわけではない。しかしバルトのように、生きた固有の身体のフェティッシュ的断片としての地位を声に与えてしまっては、黒嵜の問いを無視することになるだろう。黒嵜の問いを引き受けるなら、バルト「作者の死」ではなくフーコー「作者とは何か?」に立ち返るべきかもしれない。すなわち、声優と声を切り離す「声優の死」ではなく、声優の死後もなお声がキャラへの帰属を失わない「キャラ声機能」を問う可能性である。デジタル複製技術・音響再生産技術は、声だけではなく、声の帰属(attribution)という機能もアーカイヴしている。補助線を引くならば、「ナンシー・ドリュー」シリーズとその作者であるキャロル・キーンのように、複数の作家が書いた作品がその生死を問わずひとつの作者名に帰属するという事例がある。この場合、作者名はブランドとして機能する。これを声に敷衍するなら、現在のルパン三世の声を構成しているのは、現声優の栗田貫一はもちろんのこと、彼がもの真似をする対象だった山田康雄でもあるが、それらは等しくルパン三世というキャラクターに帰属しているということになるだろうか。キャラに帰属するキャラ声はブランドとして機能する。声優が交替して声の質が変わったとしても、キャラ声がキャラに帰属する機能を失うことはないだろう。帰属性を生成しアーカイヴする「キャラ声機能」もまた、声のパブリックドメインへの帰属を問ううえで欠かせないはずだ。

さらに「仮声のマスク」の物質性への問いを看過することもできない。生身の私的身体に声を紐づけるフェティッシュ化を退けた先に、公有へと開かれる声そのもののモノモノしさを問い直す作業も必須となる。黒嵜の論が終盤に示したボーカロイドや合成音声の、身体なき声の「女性化」という技術的収奪へと真摯に向き合うためには、有機性/無機性を越えた問いが喫緊となろう。


cutting record - a record without (or with) prior acoustic information at freq2012 (JO Kazuhiro)

デジタル技術を駆使して紙に書きこまれた周波数の峩々たる痕跡が、紙から予期される物質性からは完全に遊離した電子音を発する、城一裕「紙のレコード」をひとつの補助線とするのもいいかもしれない。針は紙に落ちる。しかし紙そのものに発している音は、そこには帰属していない。「紙のレコード」のサウンドは、周波数の数値をデジタル技術に恃んで刻んだ痕跡に帰属している。もちろん周波数はPC上で操作可能なひとつの情報ではある。しかし空気すら物質であるという意味において、情報を物質性と切り離すことはできない。周波数や波形といった音響の情報論的分解と再構成から生成されたサウンドにそばだつわたしたちのアナログな耳は、そのサウンドが帰属するデジタルな物質性を聞いている。


Formant Brothers "Ordering a Pizza de Brothers!"

デジタルの音声パラメータから出来上がった声は人間には帰属していないし、ましてや女性化などできない彼岸に存在している。人間も無縁ではない。そもそも人間が発声する声は、人間の声なのだろうか。人間の発声過程はデジタル技術の前ではひとつのメカニクスであり、メカニクスである以上、他にあまたとあるサウンドと同じく、機械的に処理することが可能な素材=マテリアルに過ぎない。ピザを注文できるのは人間だけだろう、という思い込み。Formant Brothersによるチューリングテストの再発明は、機械的に生成する声を人間のモノとして聞こうとする人間の習慣をあらわにする。

黒嵜の「仮声のマスク」に端を発する声の公有制の波紋は、女性化も人間化も不可能な、人間的身体とは別の位相にある、声のマテリアリティの問いへと波及するだろう。どの声も潜在的には周波数に分解できる。今やあらゆる声は、生物/非生物の垣根のないデジタル技術の素材=マテリアルという公有地に帰属しながら、それでもなお人間的に響くことを期待されている。

モノモノしいイカ

 第15回国際テクノロジー・アート・404フェスティバルの一環、10/12ドーム・ショー@福岡市科学館ドーム・シアターに行ってきた。若干の私的印象を残しておこうと思う。
 プラネタリウムの天球に映像を映し、これとサウンドの関係を問う作品が五つ並んだ。別々の映像と音をシンクロさせるもの、音をライヴで発生させる身体のセンスを映像の動きに変換するもの、映像内の動きに音を合わせるもの。
 トリを飾った真鍋大度 + 堀井哲史の作品「Phenomena」は、軽くて単調なベース音にさまざまな電子音が積み重ねられたりリズムから離散したりするサウンドと、白鍵の断片のようなものが全方位的に運動を展開する映像から構成されていた。右に動いているのか左に動いているのか、吸い込まれていくのか吐き出されているのか、方向感覚を失調させるような映像を見ているうちに、どれがベースのサウンドなのかときどきわからなくなる。全天球型の無重力的な視覚経験に聴覚経験が巻き込まれていくような眩暈を堪能した。
 横川十帆+牟田春輝の「イカ・ディスプレイ」はライヴパフォーマンス。(無事)呼子から取り寄せたイカをハサミで開き、内臓を外してディスプレイを制作する過程が矩形のスクリーンに流れる。ほどなく映像はCCDカメラ(?)でズームアップ、色素胞の点々が大写しになる。リズミカルな重低音が流れ始めると、半死半生(ゾンビ?)のイカの筋が収縮・弛緩しはじめる。色素胞の表面積が拡大・縮小、瞬時に赤や、黄色、黒へと、サウンドに応じて体色を変えていく。
 どうやら、こいつは、イカの色素胞変色に最適化された周波数を計算し設計されたサウンドらしい。しかも、サウンドを構成する周波数を電気信号に変換してイカに直接流しこんでいるらしい。つまりわたしは、イカの身体に流れるサウンドを目にしながら、イカ・ディスプレイに映し出されるライヴ映像を聞いていたことになる。
 イカ研究の成果を生かしてデジタルにつくられたサウンドが、可塑性を失いつつある有限な生体物質の変様として変奏される。目に映るものはすべて聞こえるものであり、耳に届くものはすべて見えるもの。
 イカの体はフラットではないし、乾いてもいない。グネグネしたウェットなモノモノしさを備えている。色素胞と筋の運動の軌跡とその可塑性が「映し出す」活きのよいサウンドは、グネグネしていてウェットだった。