黒嵜想「仮声のマスク」と共に考える

※以下の文章は、「仮声のマスク」の要約でもなければ批評でもない。ただ共に考えてみた帰結である。

 

黒嵜想の連作批評「仮声のマスク」三部作が提示するのは、声の出どころとなる身体の所在を隠蔽しつつさまざまなモノの媒体としてさまよう「仮声のマスク」という声の動性であった。響き渡る声を特定の身体に紐づける「声の肌理」(バルト)においては、声は身体という錨を指示するブイ、あるいはその部分対象としてフェティッシュ化されている。これに対し、黒嵜は声の匿名的次元に耳をそばだてる。声は匿名化し、誰のモノでもないがゆえに誰のものにもなりうる、と黒嵜は言う。

正確を期すならば、黒嵜の論の焦点は、固有の身体から遊離する声の匿名性というよりは、声の属人的私有制の解体にあると見るべきだろう。動かない映像どうしをつなぐ声、あるいは『エヴァンゲリオン』におけるシンジの身体に同居する複数の声という公有の例証の対蹠には、誰にでも「調教」可能な初音ミクのサイボーグ的音声や誰とも知れぬ匿名化された電話交換手の声という収奪の例証がある。声が固有の身体から遊離する場合、声は公共メディア/パブリックドメインとしての可能性へと開かれると同時に、また別の権力による占有や奴隷制にも振れうる。「仮声のマスク」は共同体を志向する。しかしそれは身体とのつながりがあやふやな声の不安、そして収奪に曝されやすい声のあやうさの証でもある。

「仮声のマスク」はバルト批判であると同時に、デリダの読み直しでもあるだろう。デリダ『声と現象』における音声中心主義的な現前性=現象学批判に対し、「仮声のマスク」は生々しい身体の現象学的現前を不在にする声の機能を突きつける。デリダによる現前性批判の眼目は、常にすでに差延を孕むエクリチュールの運動性とその痕跡としての性質を隠蔽する声の詐術にあった。黒嵜の論は、他の身体への憑依と差延を志向する、声の(再)エクリチュール化の試みであるともいえるだろうか。身体の死を画する遺言的な声のエクリチュールに寄り添い「声の肌理」に抗う黒嵜は、くしくも同じバルトの「作者の死」に倣って、「声優の死」を宣告している、とさえ極論しても構わない。声の動態的機能性、身体なき声の存在論を問う地平はこうして開かれたと言えるだろう。

もちろん声の機能を、パブリックドメインを形成する声のエクリチュール「仮声のマスク」に限定することはできない。アニメーションや映像、音楽の視聴経験に際し、声優・俳優・歌手の声帯や声道に淵源する、声の帰属問題がなくなるわけではない。しかしバルトのように、生きた固有の身体のフェティッシュ的断片としての地位を声に与えてしまっては、黒嵜の問いを無視することになるだろう。黒嵜の問いを引き受けるなら、バルト「作者の死」ではなくフーコー「作者とは何か?」に立ち返るべきかもしれない。すなわち、声優と声を切り離す「声優の死」ではなく、声優の死後もなお声がキャラへの帰属を失わない「キャラ声機能」を問う可能性である。デジタル複製技術・音響再生産技術は、声だけではなく、声の帰属(attribution)という機能もアーカイヴしている。補助線を引くならば、「ナンシー・ドリュー」シリーズとその作者であるキャロル・キーンのように、複数の作家が書いた作品がその生死を問わずひとつの作者名に帰属するという事例がある。この場合、作者名はブランドとして機能する。これを声に敷衍するなら、現在のルパン三世の声を構成しているのは、現声優の栗田貫一はもちろんのこと、彼がもの真似をする対象だった山田康雄でもあるが、それらは等しくルパン三世というキャラクターに帰属しているということになるだろうか。キャラに帰属するキャラ声はブランドとして機能する。声優が交替して声の質が変わったとしても、キャラ声がキャラに帰属する機能を失うことはないだろう。帰属性を生成しアーカイヴする「キャラ声機能」もまた、声のパブリックドメインへの帰属を問ううえで欠かせないはずだ。

さらに「仮声のマスク」の物質性への問いを看過することもできない。生身の私的身体に声を紐づけるフェティッシュ化を退けた先に、公有へと開かれる声そのもののモノモノしさを問い直す作業も必須となる。黒嵜の論が終盤に示したボーカロイドや合成音声の、身体なき声の「女性化」という技術的収奪へと真摯に向き合うためには、有機性/無機性を越えた問いが喫緊となろう。


cutting record - a record without (or with) prior acoustic information at freq2012 (JO Kazuhiro)

デジタル技術を駆使して紙に書きこまれた周波数の峩々たる痕跡が、紙から予期される物質性からは完全に遊離した電子音を発する、城一裕「紙のレコード」をひとつの補助線とするのもいいかもしれない。針は紙に落ちる。しかし紙そのものに発している音は、そこには帰属していない。「紙のレコード」のサウンドは、周波数の数値をデジタル技術に恃んで刻んだ痕跡に帰属している。もちろん周波数はPC上で操作可能なひとつの情報ではある。しかし空気すら物質であるという意味において、情報を物質性と切り離すことはできない。周波数や波形といった音響の情報論的分解と再構成から生成されたサウンドにそばだつわたしたちのアナログな耳は、そのサウンドが帰属するデジタルな物質性を聞いている。


Formant Brothers "Ordering a Pizza de Brothers!"

デジタルの音声パラメータから出来上がった声は人間には帰属していないし、ましてや女性化などできない彼岸に存在している。人間も無縁ではない。そもそも人間が発声する声は、人間の声なのだろうか。人間の発声過程はデジタル技術の前ではひとつのメカニクスであり、メカニクスである以上、他にあまたとあるサウンドと同じく、機械的に処理することが可能な素材=マテリアルに過ぎない。ピザを注文できるのは人間だけだろう、という思い込み。Formant Brothersによるチューリングテストの再発明は、機械的に生成する声を人間のモノとして聞こうとする人間の習慣をあらわにする。

黒嵜の「仮声のマスク」に端を発する声の公有制の波紋は、女性化も人間化も不可能な、人間的身体とは別の位相にある、声のマテリアリティの問いへと波及するだろう。どの声も潜在的には周波数に分解できる。今やあらゆる声は、生物/非生物の垣根のないデジタル技術の素材=マテリアルという公有地に帰属しながら、それでもなお人間的に響くことを期待されている。