まず、東武グループのみなさまに土下座したい。
西武ライオンズやセゾングループから西武のことはもちろん知っていたものの、まさか東武なる企業体が存在するとは思わなかった。
東武さまが存在するおかげで、わたしは池袋から東武東上線に乗り、森林公園駅まで到着することができた。東武さまが存在しなかったら、わたしは3日ほど寝袋を背負って行脚を重ねる必要があっただろう。行程がものの1時間ほどに短縮できたのも東武さまのおかげである。ここに感謝と陳謝を重ねて、精神的に土下座する。
さて僕の記憶にある限り、埼玉県初体験である。
着いてみるとなにもない。立正大学のキャンパスに向かうバスがやってくる。バスの向こう側に見える看板や店名表記のペンキは、白塗りされたやんちゃなタギングのように褪色し、風化し、ゆっくり衰退している。ベンチに座って煙草を吸う。そして先ほどから暇なのだろう、世間話に余念のないタクシーの運転手たちの話を遮り、どっかりと乗車する。
「原爆の図丸木美術館まで」と行き先を告げた。それで会話が終わるわけがない。田舎のタクシー運転手は饒舌と相場が決まっている。
どうやら僕が降りたのは目的地から見て、駅の反対側だったらしい。駅の南側へと車を滑らせながら、埼玉にはなにもない、敢えて言うなら東京に近いことくらい、といった「ダサイタマ」自慢が続く。100ほどの会社が両側に展開する工業団地を抜けると、一転して道は狭まる。とてもひとりではたどり着けそうにない、けものみちみたいな小道を2本抜けていく。途中には「丸木美術館」への道順を示す看板がひっそり掲げられている。
運転手のおいちゃんによれば、丸木美術館は地元の子どもたちには平和学習の場として知られているらしい。僕は「へえ」としか言わない。例によってなにも事前に知らないままここに来ている。法王がいること以外具体的になにも知らないままバチカンに行ったこともあるくらいだから、このぐらいのことはなんでもない。ただ原爆に関する作品があるんだろうことぐらいは僕にでも想像がつく。
ほどなく着く。「入館料ただにしてもらいなよ、ははは」というおいちゃんの笑いに苦笑いをかぶせて下車すると、そこにはほっそりとした川とあたりを覆う草むらのほとりを眼下に臨む、年代もののなんとも冴えない建物があった。貝殻のようなものが壁面には埋め込んである、実に冴えない建物で、美術館という看板がなければ素通りしてしまいそうだ。ベンチや庵のようなものがあたりには散っている。ちょっとした休憩所といった趣きだが、どこに向かう途中の休憩所なのかがわからない。ギリギリ風情がよいと言っておこう、という感じだ。
受付で喫煙所のありかを教えてもらい、一服×2を終えると、入場料を払い、荷物を預けた。貴重品ないですか、と聞かれたけども、結局、財布が入っててもちゃんと見ておくから大丈夫とのことで、なんで聞かれたのかよくわからないが、命以外はすべて預けても大丈夫なようだ。二階から常設展示が始まり、そこから一階に降りていく、というのが順路らしい。
階段を登って最初に入った部屋には、天衣無縫な、天真爛漫な絵が並ぶ。丸木スマという方が70歳を過ぎてから書き始めた絵らしい(ようやく僕は、ここが「丸木」という方が書いた絵を展示する個人美術館であることに気づいた)。文字の書けないスマさんが見つけた表現が絵画だった。このあたりの景色を一生懸命に描く。目に見えるものの写生を目指したのに、リアルから遠ざかっていく。その目と手のあいだにある距たりが絵画の遊び場であろう。「手」が高くなればなるほど、遊ぶことの難しさを思い知ることになるだろうし、「目」に映るものが筆舌に尽くしがたいものであればあるほど、「手」の未熟さと葛藤することになる。その距たりを喜びとして遊びつくして死んでいった、幸福な人なのだろうと思った(わたしはセンスゼロなので、この絵のおもしろさは正直よくわからない)。
果たして、2階にあるもうひとつの部屋では、手と目の距たりを最大限苦しんだ好例が壁面いっぱいに展開していた。それぞれ油彩画と水彩画を専門とする丸木位里・俊夫妻が、原爆投下直後の広島市内を実地調査し、その経験を屏風四曲一双に表現したものだという。部屋は2分割されている。だからここには、四方から屏風に囲まれる場がふたつある。展示空間はそう、オランジュリー美術館の睡蓮の間のようだと思った。ただし、描かれているものはそんな牧歌的なものではなく、字義通りの地獄絵図である。焼けただれた皮膚、潰れた顔、ねじ曲がった四肢、あてどなくさまよう群れ、炎に包まれた肉塊、肉塊の山、群れるカラス、カラスと見分けのつかない黒い死体、死体と見分けのつかない生者。ひとつひとつの屏風にタイトルがつけられている。しかしこれらはひとつの作品である。どれもはっきりした描線ではないし、構図のなかにさらに構図が重なるという複雑怪奇な様相を呈している。ひとりぼっちの者はいない。だれもがやけどした皮膚や肉についた蛆やこびりついた灰でつながっている。しかもどれひとつ止まっていない。どれもこれもが震え、おののき、死体の山ですら今にも崩れたり、新たな死体の投入によってかたちを変えていきそうに感じる。縦1.8メートル×横7.2メートルのスケールでしか表現できない、しかしそのスケールでも表象することのできない地獄絵図。その動的な死体置き場のなかに僕のための居場所はない。手と目の距たりは、丸木夫妻をして32年間、計15の図を書かしめた、呪いとでもいうべきものであったように思われる。限りなく濃密で薄い距たり。一切の隙間のなく埋め尽くされた距たり。僕はこの分割された部屋で、2度圧迫された。
1階に降りると、2部屋にわたって《原爆の図》が続く。ただしここからは「日本人の」広島を超える。ビキニ環礁で被爆した第5福竜丸、原水爆禁止運動の署名、米兵捕虜の被曝、カラスについばまれる在日朝鮮人の骸。無差別大量死のなかにある差別、そして核の拡散、敵/味方を超えた地上の惨状が生きているものの顔と死んだカオナシたちによって埋め尽くされる。特に目に留まった「とうろう流し」は、走馬灯のように流れていくさまざまな顔や出来事が十重二十重に重畳し、出来事の全体像を表象することを放棄しつつ、その断片を執拗に表現している。どれもこれもが割り切れず、消化できない、丸く収まることのない、矩形の断片の蝟集と運動。散り散りになった断片を塊に捏ねてみたり、別の断片と整合させてみたり。2階の圧迫感から少し解き放たれて、僕はひとつの断片として、この美術館のなかに居場所を得たような気がした。
その次に待っていたのが、菅実花「The Ghost in the Doll」展だった。http://theghostinthedoll.strikingly.com/
まず、ガラス製の湿板写真が3点並んでいる。手のひらサイズ。映っているのはどれも赤ん坊。小さな、ポケットに入れて持って歩けそうな赤ん坊。それぞれかわいいベビー服を着せられて、おもちゃを手にし、育ちのよさそうな調度品に囲まれている。
その左手には、1メートル四方ぐらいのプロジェクション。白いおべべを着た赤ん坊がスヤスヤ眠っている。これは静止画なのだろうか、動画なのだろうか。答えは僕のなかのゴーストに訊いてみるしかない。
それからホワイトキューブに入る。
先ほどと同じような赤ん坊を被写体とした湿板写真が11点並ぶ。ただし今度の図像は僕の体よりずっと大きく引き伸ばされていて、僕の目線よりも上方に掲げられている。巨大化した赤ん坊に見下ろされる感じだ。ホワイトキューブのなかだと、白黒の写真がよく映える。そして、これまで見てきた《原爆の図》の圧倒的な物量と密度、塊の強度に圧倒されてきた僕には、とてもスカスカな感じがした。空白が多い。この作品どうしのあいだの余白、さらにはまったく作品が展示されていない白壁まで含めれば、空間の使い方はとても贅沢で、余裕を感じる。
図像のひとつをのぞき込むと、湿板写真特有の流れや淀み、光沢のムラ、ノイズ、焦点の狭さがよくわかる。と同時に、被写体の不自然な目や、腕と足のゆがみが目につくようになる。被写体は現実の赤ん坊ではなく、精巧につくられた人形だ。それもただの人形ではない。リボーン・ドール。つまり、子どもができなかったり、子どもを亡くしてしまった夫婦が子どもの身代わりとする人形だ。19世紀当時、しばしば亡くなった子どもの面影を残すために、着飾った死体を被写体とした写真が撮影されていた(死後肖像画も流行していたらしい http://www.amepuru.com/entry/2016/10/23/140257)。菅実花の作品は、この湿板を利用した死後写真の伝統の再現だとひとまず言えるだろう。しかし被写体は死体ではない。被写体は人形である。そして写真は手のひらサイズではもはやない。現代の技術を駆使した、見る側に仰ぎ見ることを要求する、巨大に引き延ばされたイメージである(画家として出発し、ラブドールシリーズでもデジタル写真に画家としての操作を加えている菅実花のことだから、ただ技術的に引き延ばしただけなのかについては疑問が残る)。
調べてみるとどうやらリボーン・ドールの持ち主は、人形を実際の子どもと同様に大切に扱うらしい。持ち主にとってみれば、そこには魂=ゴーストが宿っているのかもしれない。魂が宿っているとすれば、そこにはある程度の自律性を認めなければならない。ドールは製品として購入される以上、モノである。しかしそのモノは、どのように扱われるか、どのような思いを傾ける対象となるかによって、ただのモノではなくなる。僕はこの展示でその思いの在りかをドールの持ち主とは別様に体験した。入口付近にあった手のひらサイズの湿板写真は誰もが所有できるサイズだった。しかしホワイトキューブに展示されている写真のスケールは所有を許さない。むしろ、かわいい赤ちゃんであることをやめた、全然かわいくない、怪物的な威容を備えた巨大な図像は、こちらに畏怖の念を抱かせ、精密な注意を要求する。スケールの変更は、僕の心を動かす。するとなにが起こるか。動かないはずのモノが動くかもしれないという念に囚われるのだ(僕がヘンなわけではないはずだ。事実、ホワイトキューブから出てきた別の鑑賞者たちは、入り口付近にあるプロジェクションを見て「動いた?」と語りあっていた)。スケールの拡大に加え、ホワイトキューブ内のたっぷりした余白やピンボケ、液の流れた跡、ノイズも、赤ん坊が動く余地を発動(activate)させる。
動く。
丸木夫妻の《原爆の図》はそのままアクティヴィズムだった。原爆の惨状を表現した作品と共に、彼らは全国を巡回した。《原爆の図》はそれ自体が平和運動であり、反核運動だった。そして多くの人の心を動かし、実際のアクションに結びつけた。おそらくは菅実花とその作品群もそれらのアクションの一部としてある。《原爆の図》と丸木美術館という「制約」に応じて制作をするにあたり(リボーン・ドールと《原爆の図》に表現された大量死との関係は明白である)、未だ発動していない菅実花のなにかが稼働しはじめたのかもしれない。そして作品はアクションの続きとして生まれ、その作品が観客のなにかを発動させる、というアクションの連続が起こる(もちろん、菅実花という作家のアクションの連続性もある Mika KAN | 菅 実花 - mikakan.com)。丸木夫妻が信じたようなイデオロギーが死んでしまった時代に、なおもアクティヴィズムは可能か。それはわからない。しかし少なくともイデオロギーそれ自体には紐づけられない、剥き出しになった発動(activation)の倫理のようなものを、菅実花の作品は夫妻から負債のように引き継ぎ、体現しているように思われる。感動(moved)? そういうなまやさしいものではない。動く。心が動き、カラダが動く。動くはずがないものが動く? 動くはずがないものが動く。これこそまさに丸木夫妻が《原爆の図》の実践に賭けたものだったのではないか。
展示はまだ終わりではなかった。菅実花の個展を抜けると、《原爆の図》の続きがある。それはもはや原爆とは関係がない。アウシュビッツ、水俣、沖縄戦。《原爆の図》を携えた展示の旅先で丸木夫妻が出会った人やモノに触発されてつくられた屏風3点である。ホームページではこの3点を《共同制作》と呼んでいるhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/kyosei.htm。丸木夫妻にとって広島の原爆投下は一生を左右する出来事だったのかもしれない。しかしその惨状に突き動かされた彼らが向かった先には、数々の出会いによって原爆から逸らされた、しかしそれと似ている風景があった。僕はこの部屋で呆然と座り込み、少しの涙を流した。人災は常に悲惨で、救いがない。けれども、それらをひとつの場にとどまらせることなく、別の悲惨と勇気をもって結んでいくと、不思議と悲惨なだけではなくなる。僕は平和学習や反核運動にまったく関心はない。今やそれらはまったくの無力だ。しかしそういうイデオロギーの産物には今でも強い魅力があるし、学ぶべきなにかの在りかをそこはかとなく示してくれている。平和が大事とかそういうことではない。悲惨を悲惨なだけでは終わらせない「歌」を、僕らは歌うべきだ、ということだ。歌は、ひとりで歌っているように見えても、実はひとりでは歌えない。歌は他の誰かが歌ってくれなければ歌として残らない。菅実花は懐かしい歌にアレンジを加えて歌い継いでいるのかもしれない。少なくとも歌い継ごうとしている、と僕は思った。その歌がどんな歌なのかは、まだわからない。
出口に向かう途中、小高文庫という名前のついた休憩室に寄った。なんでも丸木夫妻のアトリエ兼書斎だったらしい。この室の窓を背にして、ディスプレイが一台鎮座していて、そこでは菅実花と協働制作者による湿板写真の制作過程が早回しで展示されていた。僕は畳の上に寝っ転がってひとりあてどなく考えた。
個展というものは存在するのか。そして丸木美術館のような個人美術館とはいったいなんなのか。これらは所詮は、この僕が最近考えている公共性をめぐる問いなのだけども。
展示できない作品のある公共の美術館の存在意義とはなんだろうか。そして美術館とは作品を所有する場所なのだろうか。所有することなど可能なのだろうか。所有できたとして、作品と建物のあいだに図と地のようなあからさまな関係が成立しうるのだろうか。どこか特定の場所で展示される作品であれば、どの作品も個として自立する/自律することはありえないのではないか。それはつまり、作家が作品を所有することができないのと同じような意味において、美術館も作品を所有できないのではないのか。誰も所有できない展示された作品だけが、公共性を帯びるのではないだろうか。制作もまた展示の一部なのではないだろうか。終わりのない疑問につきまとわれる。
疑問に暴力をふるってえいっと叫べば、以上はこういう感じにまとまるのかもしれない。美術館も作家個人も作品も、美術業界にはおよそ閉じることのない宛先不明のコレクティヴな運動の一部であり、制作行為とは作家名のもとに展示される作品にはとどまらない、有象無象のコレクティヴとその運動をつくりだすことでもあるのではないのか。菅実花の作品には、湿板写真家やリボーン・ドールの制作者などの名前がクレジットされている。それだけではない。菅の作品群は、丸木美術館という建物、そしてそこに展示されている作品群、ひいてはもうこの世に存在しない丸木夫妻との協働制作でもある。どこまでコレクティヴは及ぶのか、それは誰にもコントロールできない。だから僕は菅実花展に出かけたのだろうし、そのおかげで丸木夫妻の作品にも出会って、今これを書いているのではないのか。よくわからない。けれどもよくわからなくていい。僕のなにかが稼働していることだけは確かなのだから。
岡村幸宜『《原爆の図》全国巡回』を購入して、預けていた荷物を回収し、外に出る。僕はタクシーを呼ばずに駅まで歩いた。スマホを持たない僕は、途中で中学生ぐらいの女の子とおばあちゃんに道を聞いた。鉄くずの山や無機質な工業団地の風景、やたら駐車場の大きな蕎麦屋、閑散とした道程。これらは僕の経験の一部で、丸木美術館の経験とも切り離すことができない。アートを経験するということはなんら特別なことではない。
東武東上線に乗って池袋に戻ってきた(東武のみなさま、存在してくれていてありがとう)。喫茶店がどこも禁煙なので、たばこの吸える全品345円均一の居酒屋に陣取った。ビールがうまい。芋焼酎がうまい(九州の方がうまいがね)。おまけにアテもよい。待ち人である編集者が来た頃にはよい感じになっていた。彼もまた別件で飲んでいたらしい。わりとテキトーな話をしたような気がする。忘れた。けれどもいつか思い出すかもしれない。
前回東京に出かけた際には、人生で初めて飛行機に乗り遅れた。国際線ターミナルでトランジット待ちの外国人旅行客と雑魚寝をし、翌朝の飛行機で帰った。こういうことは決して忘れない。今回はしっかり間に合った。けれども間に合わなかったときにしたかもしれない経験のほうが、実は尊いのかもしれない。
帰ったどー。