産出能力のエコノミーと吐き気のエコノミー

 

エコノミメーシス (ポイエーシス叢書 (54))

エコノミメーシス (ポイエーシス叢書 (54))

 デリダのカント論、とりわけ第三批判、『判断力批判』についての小論。訳者による卓抜した解説がついているので、解説めいた文章は特に必要ないだろうし、もとよりわたしにはまだそのような芸当をやる力はない。なので以下は、わたしなりの解釈。
 自然の模倣ではなく、自然の産出力とアナロジーの関係を切り結ぶ藝術家の「天才」*1、とりわけ詩人の「自らの語ることを聴くこと」という自己触発の循環にフォーカス、その創造行為のパサージュとなる口腔に趣味(taste)を揺るがす吐き気の契機を見る。言葉による創造と唾棄とが口という開口部を介して、自然の産出力‐藝術家の天才のアナロジーと隠微なアナロジーを切り結ぶ。
 カント哲学において勘所となる理念、「自由」は、自らの他に由るところのない、外部に原因や責任を転嫁できない(規定的判断力を行使できない)主体が、美的判断を余儀なくされる瞬間にこそ最大化される。理念が無限を披き、主体に美的判断を迫る崇高の契機(根源的には美の経験も同様だが)に、主体は「自由」の理念を具現する。デリダはこの美的判断力の相で最大化される自由を、吐き気が枠づけていると考える。美的経験は口腔から完全に体内化できない。かならず余剰を残す。残りものとしての「吐き出されるモノ」*2、美的なものの汲めど尽きぬ無限の証左となる。「それ」の消化不良は喪の失敗でもある。だから「それ」は主体がアクセスできないところに場所をつくり、勝手気ままに主体へと回帰してくる。
 吐き出すべき、しかし吐き出せない「それ」の存在は、創造性を発揮する詩人の「言葉」を吐くこととネガティヴなアナロジーをとり結ぶ。美的なものを物質として咀嚼することの断念が、理念による形式的な表象へと主体を駆り立てるのだ。言葉の創造的な湧出は、美的経験が決して消化できないこと、完成しないこと、全体性を実現しないことと表裏一体をなしている。美的経験の消化不良、その帰結としての「唾棄すべきもの」のおかげで、美や崇高は全体を見渡せる美学化の完成を常に退けられ、創造の「自由」を発揮できるだけの「無限」の余地は担保される。*3
 さて、こうしてみると、デリダによるカント読解において、「吐き気」は藝術の「代補」(supplément)としての位置を占めているように思われる。つまり、「吐き気」は、藝術にとって無意味な付け足しであるにもかかわらず、それがないと藝術が成立しない、というお馴染みのロジックに相当するというわけだ。しかしここでは代補ではなく「パレルゴン」が適当だろう。*4
 「代補」と検索するとトップにくるhttp://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/derrida/daiho.htmでは、代補の一種として「パレルゴン」は挙げられている。しかし本書を読む限り、「パレルゴン」は代補よりももっと特殊な文脈で使われるべき概念であるように思われる。一義的には、神殿の列柱や絵画の額縁のような藝術そのものではないが藝術を枠づけるものを指す「パレルゴン」は、エコノミメーシスに寄生する概念として本書では使われている。「パレルゴン」は藝術作品の規定だけではなく、その産出能力にも係わる。枠組みの内側に藝術作品があり、それを藝術作品として観賞するよう差し向ける「パレルゴン」だが、それは藝術作品を産み出しもする。デュシャンの便器の逸話を持ち出すまでもなく、藝術作品は美術館やギャラリーのような枠組みによって作られるものだからだ。
 パレルゴンが産出能力に係わることを確認した上で、上述したような藝術家の創造のネガティヴな条件である「吐き気」こそが、藝術作品を産み出す藝術家の「天才」の無限を担保していたことを想起しよう。「吐き気」は具体的で名前をもった可視的な何かとしては現れない。「それ」はどこかにあるがどこにあるのかはわからない。「それ」は言語上「それ」としか名指しえない。この同語反復、トートロジーが吐き気のエコノミーである。*5「吐き気」のエコノミーは、藝術(作品)をめぐるエコノミメーシスのパレルゴンとして機能しているとはいえないだろうか。パレルゴンは、自然の産出能力とアナロジーを切り結んでいた藝術家の産出能力をネガティヴに枠づける無限の枠組みの謂いではないだろうか。
 吐き気と創造の不即不離。自然を模倣するのではなく、自然の産出能力と相似的に藝術を貫くピュシスのエコノミーとしてのエコノミメーシスの経済学を、ネガティヴなかたちでしるしづけ報せる他者のエコノミーこそ、パレルゴンとしてのトートロジカルな吐き気ではないだろうか。「パラサブライムともいう。という長い仮説。

*1:カント哲学においては、自然が藝術の超越的根拠となるわけではない。藝術家は、主観的・反省的に作品の合目的性を判断する。この合目的性が束の間、藝術家の創造性と自然の産出能力とのあいだにアナロジーを打ち立てる。

*2:吐き出されるモノ、吐き気を催すモノは具体的なモノとして対象化できないからこそ吐き気という感情を呼び起こす。吐き気は醜でもない。醜は藝術を通じて美へと昇華されることは多くの絵画や彫刻が証明している。吐き気は美、ないしは美の反省を迫る崇高にすら収まりえない。

*3:本書では口と耳の循環が前景化されている。わたしは『他者の耳』における耳と手の循環を想起した。また吐き気の議論は、当然ながらクリプトの議論、とりわけアブラハム+トローク『狼男の言語標本』に付されたデリダの序文と親和性が高いと思う。

*4:本書と同時期に出版された『絵画における真理』においてパレルゴンは詳しく論じられているようだが、わたしは未読。早急に取りかかりたい。

*5:メニングハウス『吐き気』におけるニーチェの「反芻」の議論と重なる。