病から始まる環境適応のこころみ

メルロ=ポンティと病理の現象学

メルロ=ポンティと病理の現象学

 メルロ=ポンティの著作中、一見周縁的と思われる病理を扱った箇所を、彼の現象学の根幹を成すものとして評価する一冊。以下、思いつくまま感想を書いておくが、本書の内容を踏襲せず脱線している箇所もある。
          ※   ※   ※

 フッサールにおいて異常なもの、あるいは健常者の例外として扱われていた「病」を、新しい人間が生成する現象の「時」と「場」として捉えなおす。メルロ=ポンティ現象学は、「病」を、健常者の≪世界≫から排除されたり、抑圧されたりしている証しではなく、健常者/患者の別なく巻き込む≪環境≫への新しい働きかけを示す徴候として掬いあげる。
 環境への働きかけは、認識能力とは別の次元で行われる。環境は、さまざまな要素が複合的に作用しあってわれわれを構成する。われわれの認識はこれを理解しやすいように単純化し、平板化させて理解する。環境は、平板な世界へと抽象されて初めて理解できるようになる。
 しかしながら、認識能力のみでは世界の把握は難しい。認識の基準となるものがなければ、認識はできないだろう。メルロ=ポンティは認識に必要な条件として、時間の堆積を措定する。時間の堆積とは、文化的に培われた経験や個人的な経験の積み重ねを意味する。このような積み重ねが認識をバックアップし、わたしたちはいちいち認識のたびに図式化の作業の初心者に戻らなくて済む。将棋や碁、チェスの定跡を思えばいいだろう。先人が残した棋譜の積み重ねが、手の好悪をある程度限定してくれる。そして、わたしたちは現在の局面を瞬時に認識することができる。このような「堆積」があってこそ、わたしたちは横断歩道を渡るのも、新聞の字面を追うのも、包丁の取り扱いにも困らずに済む。時間の堆積は、「判断」という煩瑣な手続きをある程度自動化して、「認識」に至る短絡、すなわちアナロジー処理に代えることを可能にしてくれる。
 たとえば脳に損傷を負った患者シュナイダーの「病」は、知性の欠落ではない、とメルロ=ポンティは考える。なぜなら、シュナイダーはものごとを認識しようと試みているからだ。しかし彼の試みは、通常の人間とは異なる。通常の人間なら、判断の相をショートカットしてものごとを認識することができる。羽生善治の言葉を借りれば、可能な手をすべて読むのではなく、意味のない手を捨て、有効な手だけを残すという簡略化の工程がこの短絡的なアナロジーに該当するだろうか。しかし、シュナイダーにはものごとのアナロジーを知覚することができない。というのも、彼が培ってきたはずの時間の堆積は、認識能力と切り離されてしまっているからだ。シュナイダーの病とは、知性の欠落ではなく、むしろアナロジーのように認識を裏打ちする知覚の蓄積が知性と提携しないため、知性を過剰に酷使せざるを得ない状況を示している、と考えられる。シュナイダーには認識の基準となるものがない。シュナイダーは一から認識の基準となるものを、認識によって予め整序された知覚からではなく、未分化のままにとどまる情念(emotion)の相からつくり上げなければならない。
 知性とは、本来、複雑な作業工程を簡略化するメカニズムのことである。シュナイダーのように空間的・時間的なつながりの引き出しが知性から切り離されてしまうと、知性はそれらの後ろ盾なく、新しい知覚の仕組み、認識の統制を一から試行錯誤せざるをえない。こうして病は、失われてしまった環境との繋がりを、知性の行使によって、新しく創出するひとつの契機を兆す。

          ※   ※   ※ 
 後年、メルロ=ポンティは認識能力の背後に、時間の堆積を超えるものを見出す。「肉」と呼ばれる≪それ≫は、わたしたちが絶えず環境に働きかける結果、わたしたちと環境とが混濁して未分化のままになった非人称的存在である。と同時に、≪それ≫はわたしたちが環境に働きかける原因でもある。わたしたちは自分たちも含めた環境の総体が果てしない奥行きを備えた「肉」だからこそ、そこに対して自ら働きかけ、意味のある世界を構築するよう誘われる。
 健常者が見ている意味を備えた≪世界≫は、「肉」の切片でしかないだろう。同様に、病に自我の統一性を揺るがされている当事者がつくりあげた≪世界≫もまた「肉」の切片に過ぎない。ただし、ふたつの切片は別々の≪世界≫を構成している。どちらの世界の向こう側にも、わたしたちが経験したことがないもの、経験することができないものに満ち溢れた「肉」が広がっている。この「肉」の存在によって知覚や認識が規定されるという点において、健常者も病める者も同じ環境に曝されている。ただし、病めるものは、ひとつの≪環境≫を健常者とは異なる方法で、異なる≪世界≫として把握しようと努めているのだ。*1
 環境に対する向き合い方の多様性を「病理」の事例から引き出したメルロ=ポンティは、把握不可能なものを考慮に入れ、経験の絶えざる生成過程を現象学に組み込み、「新現象学」への歴程を敷衍したといえるだろう。ゲルノート・ベーメ雰囲気の美学―新しい現象学の挑戦感覚学としての美学などその好例だろう。ドゥルーズの生成変化を応用した精神分析等の知見にも、メルロ=ポンティは手を貸しているに違いない。もちろん現れる存在―脳と身体と世界の再統合に顕著なように、彼の哲学は認知科学の理論的モデルともなっている。
 器質的疾患にしろ、心因性の疾患にしろ、問われるべきは病める者が環境へ適応できないという挫折ではなく、彼らが環境へ適応しようと試みる際に編み出す新しい方法だろう。病を抱えたものによる適応は、既知の≪世界≫にはない、新しい方法・基準を産出する。この文脈に即するならば、拒食症を単なる異常な病理ではなく、環境のなかでの主体性の現れとして考察する天使の食べものを求めて―拒食症へのラカン的アプローチと本書は志を同じくしているだろう。
 最後になるが、本書は極めて真摯に先行研究を整理・批判した上で問題を設定し、その問題を説くことの意義を説得的に示し、かつ衒学や晦渋に堕することなく明晰な論理で読者を説得する好著である。先行する「時間の堆積」に棹ささず、新しい適応のありかたを手さぐりで探るアプローチもある種のアクロバットとして許容される時勢ではあるが、問題をきちんと設定しそれを解き明かすという基礎的な力がなければ、そのようなアクロバットが問いかけを誘発することはないだろう。そのような意味において、本書は研究書の鑑のような一冊である。

*1:付言するならば、病理は「精神」の問題ではない。もちろん形而上学を転倒させたつもりになっている身体論の問題でもない(脳は身体の一部である)。精神/身体の二元論では捉えられない次元、環境に巻き込まれながら生成する新しい人間の可能性を問うことこそが、このような病理を俎上に載せることの意義であるに違いない。