(間)テクスト論からメディア論へ

 

Convergence Culture: Where Old and New Media Collide

Convergence Culture: Where Old and New Media Collide

 ツイートの予定が長くなってしまったのでここに捨てておく。
 ひとつの素材をめぐって複数のメディアが絡みあい、消費者と生産者の別なくそれぞれ独自の物語や発想を展開する現象(『マトリックス』や『スター・ウォーズ』)を、ヘンリー・ジェンキンスは「融合の文化」の一例として論じている。彼はそのトランスメディア的情況を、フォークナーのヨクナパトゥーファ・サーガに喩えている。意味の錨を振動させ押し流してしまう動的な宇宙を消費することはできない。受容者はそこに参加して謎解きしていく他ない。しかし答えだと思われたものは答えには止まらず、新たな問いになる。つまり問いだけが生産されていき、宇宙をさらに増殖させる結果となる。もともとのメディアはいっそうの繁栄を遂げる。なるほどそうかもしれない。
 だが向かうべき方向は反対で、このようなトランスメディアの情況からフォークナーを読みなおす方向なのではないか。テクストの理論でいけば、家系図やサブ・ストーリー、アペンディックスの類は本文(キャノン)に付属するパラテクスト、サブテクストのような扱いになるだろう。それを代補のような顛覆の論理によって変奏するとしても、所詮は間テクスト性の指摘を超えるものにはならない。あくまでも引用の源泉や歴史とテクストとの相互関係といった水準で議論は推移するだろう。しかしこのようなテクストすべてのメディアとしての側面に注目すると、「ヨクナパトゥーファ」という不定形のメディアをめぐって、さまざまな≪メディア≫が知を生産していく情況が露わになるかもしれない。
 フォークナーの≪物語作家≫としての力量は、わたしにはそれほど優れているようには思えない(彼の短篇をどれかひとつ読めば一目瞭然だろう。)むしろ物語作家としては平凡以下の才能しかない彼が、物語をいつも凌駕する≪小説という形式≫を変形(transformation)の力学にさらすそのやりかたにこそ、彼の文学的可能性を見るべきなのではないか。彼の小説の構造は、物語ることの完璧さからは程遠い。それはナボコフカポーティの言を俟つまでもない。始めからしっかりした全体の構想があって、ああした不完全な世界ができあがるわけがない。彼の世界は≪ガジェット≫の組み合わせだと考えた方がいい。ガジェットが増殖すればするほど、物語は輪郭を失い、再利用や換骨奪胎を促すメディアへと変貌を遂げる。おそらくはそうだろう。その意味で、フォークナーの作品は物語というよりも神話に近い。そしてあらゆる神話がそうであるように、そこでは答えではなく問いだけが増幅する。その「?」の輻輳は、そのままメディアとしての力となる。
 不幸なのは、フォークナーの≪作品≫がそれほど≪メディア≫として看做されなかった、という点だろうか。モダニズムの巨匠や南部文学の父、とかいう作家論の大河に棹さす限り、そのメディアとしての可能性の沃野は可能性として認識されることもないだろう。