精読と歴史

 『英語青年』の「特集:精読と英文学研究」のうち、「歴史主義の中心で/の「歴史」を叫ぶ」―(英)文学的精読のできること」をコピーして持ち帰ったので読む。それから読書、その他。秋刀魚を玉葱と一緒に金平風に炒める。今日は泣かなかった。えらい。

 
 何もせずとも研究の世界の最新情報が本や冊子の形で溢れていたころが懐かしい。今や情報は自分から望まなかったら得られない環境に(半ば自主的ではあるが)置かれているので、おにぎりやサンドウィッチをほおばりながら『英語青年』を読むなどという贅沢はここでは不敬罪に相当する。とか言いながら、食べ物ではなくともコーヒーを飲みながらそのコピーを読むぐらいの贅沢は許容されるはずだと、勝手に恣意的な(いや作為的な)線引きをして、自分を甘やかしたりもしている。ありがたや。
 で、内容、というより感想。歴史研究ご推奨の「実証主義」が追求する史的事実に文学研究の御旗たる「精読」が完全に回収されるか否か。つまり、史的事実がある種の批評的アンカーとなって然るべきで、「精読」の成果は須らくそのアンカーへと繋がれなければ批評的意義を獲得することができないのかどうか。こうした問題が現在喫緊の検討課題となっているのも、歴史や大きな物語を破砕しつくした理論がある種の極を迎え、再び全ての断片を歴史の中に置きなおそうという勢力が欣喜雀躍の体で批評界を覆い尽くそうとしている批評史的現在のファッションによる(誰かさんっぽいなこの文章)。もちろん、「精読」と「歴史」との間を繋ぐ「理論」を唾棄し、未だにオレ/私理論の孤独な信奉者や作家の金魚の糞となっている一部(あるいは大部)の文学フリークは考慮の埒外に置いての話ではある。
 ごほん。では、「ディケンズホーソンを読んでいたか」とか「フォークナーがネラ・ラーセンを読んでいたか」という共時的なレベルでの実証主義、あるいは「コンラッドシェイクスピアを読んでいたか」とか「トウェインがシェイクスピアを読んでいたか」という通時的なレベルでの実証主義に通底する史的事実の探求は、実際にテクストを隅から隅まで読む文学研究の中でも最も地味で暗く報われない作業を完全に飲み込んでしまうのか。言い換えるなら、前者のために後者は存在するのか。極論するなら、歴史研究は文学研究よりも優れたdisciplineなのか。
 こう極論してしまった方を私は数人存じ上げている。文学は歴史のアレゴリーである、と。Jamesonを敷衍した冗談かと思いきやそうではないらしい。私は大変口下手なのでこういう弁舌が始まったら即黙ることにしているが(嘘をつけ)、聞くところによるとどうも作家というのは帝国主義の時代に生まれた作家は例外なく帝国主義に染まるらしい。あるいは、帝国主義に反発して反帝国主義の作家になるらしい。人間にはこの2種類しかないようだ。そういう方は、ごく自然な傾向としてある時期のフーコーを熱烈に信奉していらっしゃる(その読みが適切かどうかは置いといて)。存在論的問題を全く考慮しない認識論絶対主義。という方も認識論絶対主義を認識しながら話してらっしゃるわけで、さあてめんどくさいことになりますなあ。
 ここまで歴史を最終審級として崇め奉る極端な例は珍しいにしても、作家同士の同時代性、あるいは作家と出来事の同時代性、つまり「読んだか読まないか、参加したかしなかったか」という問題には依然敏感な方が多数おられる。私自身、読んだか読まなかったかとかいう問題は考慮しない。読んだか読まなかったか、というのは突き詰めて考えれば真偽のほどを確かめる手立てはないからだ。作家が「読んだ」といっても読んでないかもしれないし、「読んでない」といっても実はこっそり読んでいるかもしれない。9・11万歳とか、アラブ世界万歳とか言っておきながら、ネオコンから莫大な利益供与を受けているかもしれないし、9・11に怒りを覚えるとか言いながら、実はビン・ラディンと幼馴染だったりするかもしれない。だから、「実証主義」は膨大な状況証拠集めに奔走する。日記や手紙や小説や詩作や作家の書架や果ては屑篭まで。
 たくさん状況証拠を集めて並べたもの勝ち。貧乏学生にそんな金のかかる仕事はとてもできない、というのが本音である。しかし、そんな本音を包み隠して差し出がましくもうめく権利を行使させていただくなら、the field of cultural productionはthe field of powerを「反映」(reflect)するのではなく、「屈折」(refract)させる、といみじくも言い放ったブルデューの慧眼にすがらずとも、経済資本と文化資本の「市場」で作品や出来事は流通し、混ぜこぜとなってひとつの時代を作っていくのであるから、それらが収まる「ハコ」の歴史性をきちんと検証すればよい。一義的には歴史はテクストの収まるハコである。しかし、またテクストはそのハコを「箱」にしたり、「ダンボール箱」にしたり、「宝石箱」にしたりする可能性を秘めている。「精読」はテクストの歴史的起源を確認するようなつまらないものではない(「つまらない」とかいっちゃった)。むしろ、その行為はテクストが依拠するはずの歴史を別のものに変えてしまうかもしれない可能性を秘めている。
 とかなんとか反復を重ねながら著者の論からズレてしまっているような気もするが、結局、「精読」を「実証主義」へと、つまりは歴史主義的な歴史の地平へと短絡させるのではなく、間に「理論」を挟んでみようよ、というのが著者の主張のような気がする(あくまで気がするだけである)。もちろん、「理論」といえど客観的に存在する静物ではなく、「精読」によって細かく吟味され、かつ歴史によって歴史化される動的な相関物である。それぞれに剰余や欠如の可能性を認めつつ、また反復に差異を認めつつ、より柔軟な態度で研究に臨むのが、私のような浮気性の人間には向いている。ついつい、2年ほど1つのテクストを巡ってこの問題を具体的に考察しているせいで、長々と書いてしまった。断っておくがあくまでもただの感想である。