- 作者: 山口ヨシ子
- 出版社/メーカー: 彩流社
- 発売日: 2013/10/17
- メディア: 単行本
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一九七〇年代頃から亀井俊介を嚆矢として、アメリカの大衆文化を翻訳・概説する流れがある。それらのほとんどは今や絶版になっているが、なかには今読んでも十分におもしろい本もたくさんある。しかしアカデミアの一部の領域では人口に膾炙した観もある認識でも、それが書籍というかたちにまとめられず論文のまま散逸するに任せていると、十九世紀アメリカの専門家以外に共有されていないことがままある。ましてや、専門家以外の門外漢となるとほとんど話が通じない。その意味で本書上梓の意義は大きい。
ダイム・ノヴェルの存在については、アメリカを研究している人なら誰でも知っているだろう。イギリス発のチャップブック(たとえば小林章夫 チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本 (講談社学術文庫))や二十世紀のペーパーバック(たとえば尾崎俊介 紙表紙の誘惑―アメリカン・ペーパーバック・ラビリンス)と並んで、ダイム・ノヴェルは大衆小説の元祖とでもいうべき存在だった。けれども果たしてそれがどのような背景で生まれ、どのような読者に読まれ、どのような物語を紡いでいったのかという肝心要の部分は、依然として広く共有されているとは言い難い。ダイム・ノヴェルを実際に読んだことがある人もそれほど多くはないだろう。わたしもそのような門外漢のひとりである。
文学という学問は、文学テクストを読み、それをその他のテクストと突き合わせることまではしても、そのテクストが流通する形態――メディア――にまで注意を払うことはほとんどない。その結果、文学研究は各自、持ち前の文学的趣味の美学に応じて、純粋に文章のパフォーマンスを評価するもの差しとなるか、あるいは現代の文化=政治的関心に応じてテクストのラディカルさを称揚する論文生産の抜き型を再生産するものとなった(たとえば新田啓子 アメリカ文学のカルトグラフィ ――批評による認知地図の試み)。だが、今やハードカヴァーで仰々しく製本されているアメリカ文学の父とまで称されたマーク・トウェインのテクストが、吹けば飛ぶような新聞紙に印刷されたものに過ぎなくて、瞬く間に読者に消費され、回し読みされ、包装紙としてリサイクルされ、編集者はそれらを作者に無断で各地の新聞に転載していた、というような十九世紀の日常は、そうした文学研究からは確実に抜け落ちる。趣味判断や政治的ラディカルさを一度括弧に入れて、テクストが流通する媒体を考慮してみれば、そこには折り目正しい文学史などでは整序できない禍々しい欲望の沃野が広がっていることに気づくことだろう。ダイム・ノヴェルという、商品としてもテクストとしても「三文小説」以上のものではない物語を、作者・読者・編集者が三竦みとなった欲望のメディアを前にして、作者を権威と仰ぐ伝統的な文学史観も、テクストの政治性だけを称揚する批評も押し黙るほかない。
本書を一読、まず注目すべきは、十九世紀中葉に生まれたダイム・ノヴェルというジャンル、あるいは≪レーベル≫が、当時の女性の労働に深く係わっていたという点だろう。書き手も読み手もほとんどが女性だった閨閥の文学時代のことなので当然だろうと思われる向きもあるかもしれないが、女性の社会進出はせいぜい教師や女中、看護師程度と極めて限られていたため、物語を書く仕事は、家庭という私的領域に留まりながらも社会に関与して日々の糧を稼ぐひとつの手段だった。製紙技術が向上して紙が大量生産できる南北戦争前後の時代になると、雑誌や新聞の流通量は飛躍的に伸びた(たとえばローター・ミュラー メディアとしての紙の文化史)。ダイム・ノヴェルはそのような紙の時代に新たなメディアとして勃興した。そのとき女性作家たちは、大量生産工場で働く女工のように、システマティックに紋切り型の物語を編んでいった。そして現実の女工たちがその物語を読む。極端に安価なダイム・ノヴェルは、劣悪な労働環境で低賃金を報酬に働くことを余儀なくされていた女性労働者の心をとらえた。物語の内容も読み手の境遇と重なってくる。低所得層の女性が労働し、しかしぼろは纏っていても気高く、高貴な身分の女性を凌駕し、やがて親戚や生き別れた係累から莫大な遺産が転がり込んで来る貴種流離譚、さらには裕福な男性と幸せに結ばれるという夢物語が何度も書かれる。それらが女性労働者にとって忙中閑の癒し、もしくは微かな明日への希望として作用したことは想像に難くない。
ダイム・ノヴェルが吸い上げるのは女性の欲望だけではなかった。ダイム・ノヴェルは『ダーティ・ハリー』シリーズや『西部警察』にまで繋がる、ウェスタンものの元祖とでもいうべき西部開拓物語を開拓していった。ジェイムズ・フェニモア・クーパーこそは文学史的に正統なインディアンものの源流だが、ダイム・ノヴェルは、秩序と法を自任する白人がインディアンを制圧していく「カウボーイvsインディアン」物語の定型を確固たるものにしていった。とりわけ、電信と幌馬車の列を先導していく天使「マニフェスト・ディスティニー(明白なる天命)」の図像に集約される文明化を正統化する言説は、インディアン物語と相性が良かった。プロテスタント道徳の縛りが強く、フランスのようにポルノ小説が生まれる下地のなかったアメリカでは、資本主義と帝国主義の倫理に則る限りにおいて、エンターテインメントは許容された。繰り返し描かれるインディアンを虐殺する物語が、アメリカ大衆の欲求不満を解消してくれる安全弁となった。「インディアンvsカウボーイ」の構図は二十世紀にも引き継がれ、敵はインディアンから共産主義者へ、やがて宇宙人やゾンビ、回教徒へとかたちを変えて存続している。このようにダイム・ノヴェルというメディアは、大衆の欲望を現実の世界で暴発させずにうまく循環させる想像の回路として働いていた。
本書中わたしがもっとも興味深く読んだのは、「スティーム・マン」なる蒸気機関仕掛けの機械人間が馬の代わりに車を牽引し、西へと爆走するという連作物語だった。ジュール・ヴェルヌやマーク・トウェインとも影響関係を結んでいたというから、ダイム・ノヴェルのSF的要素はもはや貴賎による切り捨ての範疇にはない。機械と共に歩むのが近代化であり、その近代化に抗ってみせるのがモダニズムの標準的な言説だとしたら、SFには近代化の言説にのめり込むあまり、その回路を欲望の供給過剰に追い込んでしまう腕白さがある。荒唐無稽であればあるほど、物語はわくわくどきどきを誘うものだが、ふと我にかえったとき、その行き過ぎ・やりすぎが現実に影を落として、現実の生活や世のなかのありかたをつい反省してしまう。SFはサイエンス・フィクションであると同時に、思弁小説(speculative fiction)とも解されうる。しかしこの際speculativeなのはむしろ、投機的な現実離れが妙な現実感を伴って回帰してくる瞬間であり、それこそがSFの賭け金であると言えるのかもしれない。この投機性が西部という地域性(ただし書き手は西部には行ったことがないらしいので、それ自体作者によって欲望された投機的な西部)とも結びつき、欲望を加速させていくなかで、それはある種悪夢の相貌を覗かせていたのかもしれない、などと愚にもつかない考えを膨らませもした。
今回、著者の前著『女詐欺師のアメリカ』、論集『ポーと雑誌文学』に引き続いて本書を通読したわけだが、これらの著作で一貫して主張されているのは、読み手も書き手も出版人も、それぞれがさまざまな思惑を抱きながら物語の場、メディアに翻弄され、それでもなお物語をさまざまな意味で生活の糧としていた、というごく当たり前ながら忘れられがちな事実だ。表現の自由は今ほど確立されてはいない時代だった。ましてやアメリカという国は、今でも禁書騒動が頻繁に勃発する厳格なお国柄でもある。だからこそ扱える物語の幅は、国土の広大さに比してあまりに偏狭だった。しかしその狭さは必ずしも貧困と同義ではない。むしろダイム・ノヴェルの窮屈な紋切り型は、それが窮屈だったからこそ、アメリカ人の(悪)夢の原型としていっそう強く刷りこまれていったのではないだろうか。そしてその原型は、いつしか中味がすっかり溢れだしてしまい、白濁した欲望を吸いとる枯れた虚空へ、あるいは「惑星」(http://d.hatena.ne.jp/pilate/20131025)が滑り込む余地へと刳り抜かれてしまったのではなかろうか。