幻想と怪奇の英文学その2

久しぶりにこちらに書く。これから時々はこちらに書いてみようかと思う。

幻想と怪奇の英文学II: 増殖進化編

幻想と怪奇の英文学II: 増殖進化編

さて、今年の夏に執筆者のひとりから献本いただいたものの、なかなか読む時間がとれなかった『幻想と怪奇の英文学Ⅱ――増殖進化篇』をクリスマス前後に一気読みした。確かに増殖している。アメリカ文学や日本文学もちょいちょい入ってきているし、テーマもさらに広がっている。収拾がつかなくなる一歩手前で踏みとどまった、とも言えるかもしれないけども、巻末では第三弾の登場が予告されていることだし、異種格闘技イベントの運営にあたり統一ルールを糾う編者の剛腕は今後も期待されるところだろう。
前作と同じく、リアルガチの専門家を挑発するというよりは、ふだん専門家ばかりを相手に書いている英文学者が素人をいかに誘惑しつつ学術的知見をいかに披露すべきか、真摯に七転八倒する一冊に仕上がっている。作品の魅力を引き出す、という共通理解はちゃんとあるように思う。まずは本書を手にとって読ませた時点で「技あり」、続いてここに登場する作品を熟読吟味させた時点で「合わせ技一本」となる。
以下、大まかな内容と若干のコメントを付している。断続的に書いたものなので分量にばらつきがある(少ないからといってつまらなかったわけではない)。批判は著者個人に向けたものというよりは、英文学研究全体、人文学の未来に向けたものと考えていただけるとありがたい。個人を貶めることに関心はないので。
第一部「ゴースト・イン・リテラチュア」の劈頭にジョイスの「姉妹」の翻訳(下楠昌哉)を目撃してまず面食らうところだが、勘を働かせて『幻想と怪奇Ⅰ』の「姉妹編」宣言とでもしておこうか。もとよりこのリアリスティックにダブリンを描いた短篇集『ダブリナーズ』に、死者や幽霊の気配が漂っているのは周知のとおり。読者諸氏の平凡な日常生活から怪異の世界への渡しとしては、心筋を強張らせることもない、ほどよい塩梅の飛躍ではなかろうか。
続いて、田多良俊樹「薔薇十字会員の亡霊を降ろす/祓うこと――ジョイス「姉妹」の改稿とイェイツへの応答」は同短篇におけるどこか奥歯に挟まったような物言いの背後に、薔薇十字思想の存在を認める。この短篇は、オカルティズムの虜となったアイルランドの先人をフリン神父に重ねて葬る、野辺送りの一作である、という。確かにこの次世代アイルランド知識人にとって、民族主義者イェイツは乗り越えるべき壁であったろう。しかしながら、主人公とイライザが口をひそめて神父の秘密を公然の秘密として仄めかすとき、この亡霊=イェイツは著者の解釈をなぞるように除霊されることはなく、なおも亡霊のまま徘徊しているようにわたしには思われてならない。
鈴木暁世「乱世のなかに夢幻を描く――英国に渡った郡虎彦と『義朝記』」は『保元物語』をベースとした戯曲『義朝記』にギリシア悲劇の影を見る。日本の物語が西欧に移植されるときに、ギリシア・ローマの伝統が重ねられることはままある。いや、そもそも日本の古典的想像力は西欧のそれとはさして距離がないのではないか、もともと相性がよいのではないか、という気さえする。まったくの無知の身だが、両者の接点について考え直す上でよいとっかかりになる論文であろう。
小川公代「『フランケンシュタイン』の幽霊――伝承バラッドの再話として」は18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスに起こったバラッド・リバイバルを背景としてメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を再読する。楽しんで読んだ。『フランケンシュタイン』の構造とバラッドを同時に知ることができる。口承伝統に掉さすものとしてよく知られているところではグリム兄弟の仕事であろう。ナショナリズムを背景とした口承伝統の蒐集は、文献学や解釈学、美学の勃興と密接な関係にある。まだまともに研究されていないが、19世紀前半のアメリカ文芸にも同様の欲望はあった。目に見えない絆を強く信じるには口伝えの故事を温める、あるいはでっちあげるのが手っとり早い。
岩田美喜「ぼくらはまた逢うだろう」――ディオン・ブーシコー『コルシカの兄弟』における幽霊の〈声〉と〈すがた〉」は1737年劇場検閲法以降、セリフ中心から視覚効果中心へと上演の主流が移行したいきさつを視野に収めつつ、神秘性がはぎとられ視覚的に消費される亡霊を描くアイリッシュ作家の『コルシカの兄弟」(1852)を読む。この俗悪なメロドラマには、近代的な視覚性を前面に押し出しつつもなお古き良きシェイクスピア劇が有していた亡霊による約束の言霊が宿っている、という。著者は亡霊の予言をオースティンの「発語内行為」の一種として扱う。しかし、ここには約束の反古が含まれないのだから、スピーチ・アクト理論ではなく(オースティンは日常語を対象としているという事情もある)、約束とその成就を意図する予弁法(prolepsis)として解したほうがよいと思う。
白川恵子「フィラデルフィアの幽霊屋敷――マット・ジョンソン『ラヴィング・デイ』における混血アイデンティティの呪縛と解放」は、アメリカン・ゴシックの定番である人種混交というテーマを現代アメリカの作家、ジョンソンがいかに描くか、プロットを追いつつ明らかにする。異人種間結婚禁止を違憲であるとした1963年の判決とこれを記念した「ラヴィング・デイ」を背景に、今もなお人種間の軋轢絶えないHouse Dividedの現状を幽霊屋敷というポー由来のトポスに託す。幽霊屋敷は解体されても、異人種カップルの亡霊はこのトポスに変わらず出没し続ける。幽霊屋敷というトポスをめぐる文学史もおもしろいかもしれない。
「第2部 幻獣/変身/テクノロジー」は九篇。
大沼由布『甦る鳥たち――古代中世ヨーロッパにおける鷲とフェニックスの描写』は、鷲の再生譚が幻獣フェニックスの伝承と相互補完的に語り継がれていたと教えてくれる。とりわけ動物寓意譚『フィシオロゴス』と動物に神の意図を読む『動物譜』の魅力は存分に伝わってくる。このあたりの知識を近現代の研究者も仕込んでおかないと、隠れたる意匠を見逃すことになりかねない。文化の違いと伝統の力をなめてはいけない。と同時に、ファンタジー(ゲーム)好きの人にはたまらない内容だろう。
小宮真樹子「クエスティング・ビーストの探求――トマス・マロリーの不思議な動物」も、ドラクエをはじめとするRPG好きは必読の一章だろう。マロリーの『アーサー王の死』に登場するquesting beast「吠える怪獣」は、正体を明かすことのない謎のままにとどまる。しかし物語自体もさまざまな謎を解明することなく閉じる点に鑑みれば、この作品の彩なす「咆哮」(questings)は、フランスの散文ロマンスやイングランド年代記などの種本を組み合わせた読者をはぐらかす物語そのものの「彷徨」(quest)へと一気に飛躍する。少々安易な解釈なのではないかとも思うが、門外漢にはおもしろい。
遠藤徹スフィンクスの笑み――H・G・ウェルズ『タイムマシン』と人間の未来」も、『タイムマシン』に登場するスフィンクスを物語全体のテーマを集約する提喩として読む。『オイディプス王』と登場し、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これは何か」と問いかけるスフィンクスが未来世界への入り口に鎮座するこの物語は、人間の定義の揺らぎを語る。つまりはダーウィンの進化論を経て、世紀転換期の大英帝国を襲った人間退化論の言説がこのテクストの背骨を成している。退化論を『タイムマシン』に重ねる読みはとりたてて珍しいものではないが、『宇宙戦争』や「百万年後の人間」、「人間の絶滅」とも比較検討することを通じて、退化への不安ではなく、退化の果てにたどり着いたのが人間という種であったという悲観的な人類史の追認とする解釈は新しいのかもしれない。進化論・退化論は環境への適応の理論なのだから、人間の形態の変貌ではなく、適応する環境の議論をしっかりしなければならないのではないか、とは思う。人間の未来に太古への退行をみるウェルズの非人間的想像力は興味深い。
石井有希子「或るモノとの「遭遇」――解剖学劇場の『ジキル博士とハイド氏』」はハイドの謎めいた顔を形容するsomethingの謎を剔抉すべくテクストの解剖に挑む。ジキル博士の実験室が元来、デンマン博士の解剖室であったという設定に注目し、死体を切り分け、人体を「分かる」ことを目指す解剖という営み、そして計測と実験によって不分明なものを明らかにしていく科学の営みが等しくsomethingをクリアな知に組みこむヴィクトリア朝の欲望と密接な関係にあったという背景を固める。この辺りは高山宏の一連の著作が繰り返し説いているおなじみの説なので言及しないでよいのか気になるところ。だがここで焦点となるのは、somethingをつまびらかにしようとする欲望が成就することの不可能性、観察の盲点、そしてそのような真実を暴こうとする行為が孕む暴力性である。somethingは暴かれることなくテクストのクリプトを構成し、いまもなお文学的想像力の源泉となっている。
桃尾美佳「ファリントンはキーボードの夢を見るか――ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』の「複写」と複製機械」は、『ジョイスの罠』における南谷論文の「相棒」、あるいはcounterpartとして読むのが適切だろうか。微視的レベルでの機械的複製を明らかにした南谷論文に比し、本章の主眼はテクストの構造のほうにある。ファリントンが自分自身の発言を反復しつつ、これに若干の修正を加える場面に、オリジナルを凌駕するコピー、そして機械の原理のなかに幽閉される限りにおいてのみ存在しうる人間性・主体性を読む点が読みどころだろう。しかしこれが主体性のようなヒューマニスティックなタームで記述できるものなのかどうかは疑問が残る。また、仕事上の「書写」と再話を同一線上においてもよいのか。書き言葉と話し言葉の差異と同一性という観点から、語り手に語られるファリントンの声による再話という紋中紋的複写の構造に注目するのも一興かもしれない。声の機械化が進む時代でもある。
有元志保「重なり合わない分身と分心――ウィリアム・シャープ尾崎翠「こほろぎ嬢」をめぐって」はスコットランド作家ウィリアム・シャープの創作実践とこれをモデルとした尾崎翠のテクストに分身/分心というテーマを重ねる。男性シャープがフィオナ・マクラウドという女性作家に扮して創作活動をしていたという事例だけでも興味深いが、マクラウドというペルソナにシャープが抱く恋心に近い同一化願望がその創作原理の根源にあったとする分析には瞠目せざるをえない。一体化の願望は嵩じて、シャープはマクラウドに宛てて恋文のようなものを投函するに及んでいる。対して尾崎は、しゃあぷとまくろおどの関係を親密でありながらも距たりのある関係として描く。自身の分身であるこおろぎ嬢に対しても一定の距離をおく。尾崎の対象への態度は、シャープに比べるとやや自重気味のようだ。尾崎の姿勢は、九鬼周造のように、対象との同一化を目指さず踏みとどまり、そこに想像力のたゆたいを許容する「いき」な態度、とでも言えるだろうか。
島健「ラジオの描くモンスター――ルイス・マクニースダークタワー』と大衆の問題」はモダニズムにおける知識人の大衆嫌悪、特に知識人階級である「ハイブラウ」でも親近感を覚える「ロウブラウ」でもない、消費文化の担い手である「ミドルブラウ」の忌避という文脈において、マクニースのBBCラジオドラマ『ダークタワー』を読む。BBCというメディアの登場がモダニズム文学の台頭と同期するという点になるほどと膝を打つし、二〇世紀の騎士道物語の展開にも関心を惹かれる。しかしここで論じられている大衆=ドラゴンが「モダニズムの病」や「モダニズムの限界」を示すためのアレゴリーである、とする解釈には賛同できない。大衆=モンスターの表象には「都市化」をはるかに凌駕する長い歴史があるし、エリート対大衆という対立構図も同様である。論の展開を見る限り、「モダニズムの」という形容はもっと大きな「西洋の」に置き換えることができるのではないか。歴史上相対的に特殊な要素といえるのは、これがラジオドラマである、という一点だけであるように思われる。
高橋路子「赤ずきんはなぜ狼になったのか――アンジェラ・カーター「狼三部作」は、人狼伝承の系譜の中にカーターの再話を位置づけ、その特異性を明らかにする。人狼が次第に狼として語られるようになり、二〇世紀後半フェミニズムが台頭する時代には狼を凌駕する赤ずきんの強さが焦点化される。このような口承伝統と小説の関係に関する記述は、第一部の小川論文とも共振するだろう。カーターは人狼伝承を復活させたうえで、赤ずきん人狼として描く。ここにオウディウスから始まる多様な口承伝統の合流が指摘される。この人狼少女にどのようなポテンシャルがあるのかについては今後の研究を待ちたい。
金谷益道「鴉の娘の「新しいおとぎ話」――オードリー・ニッフェネガー『レイヴン・ガール』」は、鴉の雌と人間の男との結婚という「異類婚姻」譚の系譜、それから変身譚の系譜を参照しつつ、『レイヴン・ガール』の不気味さを説く。通常、異類婚姻譚は変身譚とセットになっていて、人間ならざるものが人間に変身し婚姻を遂げる。しかしニッフェネガーの作では、鴉は人間にはならないし、そもそも両者は言葉が通じない。おとぎ話の定型に則りつつも異様な雰囲気を残したまま話は進む。このつがいから生まれる娘は一見人間の姿をしているが心は鴉であり、「鴉語」しか喋ることができない。人間にも鴉にも馴染めない。少女は現代科学の力を借りて鴉に変身することを望む、というあらすじだ。非常に興味深い分析が並ぶが、この少女の変身願望を、解剖学的性とジェンダー自認とのあいだのずれ、トランスセクシュアルトランスジェンダーの隠喩とする読みには疑問が残る。これは高橋論文とも関連するが、人間ならざるものへの変身願望には、ヒューマニズムに対する根源的な批判と人間の限界に向かう想像力のポテンシャルがあるようにわたしは思う。
「第3部 災疫のなかの奇跡」は四篇。
小川真理「中世ヨーロッパの教訓的例話集にみるイノセントな子供たち――『アルファベット順逸話集』の奇蹟譚」はフィリップ・アリエス『〈子ども〉の誕生』を紹介するとともに、その異論を示し、またその異論の実例のひとつとして中世の教訓例話集を検証する。アリエスの論は、一七世紀に子供という概念の萌芽が見られ、一八世紀に確立するとした、国民国家論を始めとする「近代の発明」論の一種(われわれが今日当たり前だと思っているものは前近代には存在しなかった、という論法)だといってよい。アリエスの子供論は児童文学の出現をめぐる言説にも敷衍されて、一八世紀のチャップブックを子供向けの著作の走りとする説が定着している。しかし幼児教育を狙いとした教訓的な作品は中世にも存在していた。そのため、児童文学という商業的カテゴリーは存在しなかったとしても、中世に「幼年時代」という区分がなかったと言い切ることは難しい。むしろ聖性を体現する「無垢な子供」に、罪深き大人たちを律する積極的な役割が与えられている点に著者は注意を促す。
金津和美「悪、破局、そして笑い――災害の物語としてのジェイムズ・ホッグ『男の三つの危険』」は、ウォルター・スコット歴史小説に範をとった野心作でありながら、壮大な失敗作である『男の三つの危険』における自然と超自然の関係に注目する。川島論文が論じた騎士道物語がモダニズムに掉さしているとすれば、この騎士道物語はスコット流の歴史小説を目指しながらも近代の手前で迷走に次ぐ迷走を重ねる。人間の英雄性は後景に退き、魔術に翻弄される人間の無力の背後には自然のきまぐれがある、という。いわば、自然という運命への抗いがたさが、人間を翻弄する超自然的な魔術に託されている。このため、ミハイール・バフチーンのいうグロテスク・リアリズム、つまりは祝祭的な笑いの原理が超自然的な魔術を介して繰り返されるオークウッド塔の脱線こそは、この作品の語りの混乱を、そしてその祝祭性を象徴している、という。しかしながら、魔術に代表される「超自然」と動物性や天変地異として論じられる「自然」とのつながりがもうひとつつかめない。オークウッド塔において魔術によって「動物(あるいは自然)」、「本性に見合った姿」に変えられた訪問者たちが「修道僧によって救われ、自然(もと)の姿に戻」る、とあるが、動物が自然なのか、もともとの人間が自然なのか、人間性はどういう位置づけなのか、わからない。わからないが、この辺の混乱の原因はテクストのほうにあるのだろう、ということはわかる。
山口和彦「崇高の向こう側――コーマック・マッカーシーザ・ロード』」は、終末論的な世界で善悪の観念と生き残りのあいだで葛藤する親子の物語を丁寧に語りなおす。だが、「恐怖的崇高」の議論は不十分であるように思われる。神に見捨てられる恐怖と「崇高は……ある概念と一致するはずの事物を、想像力が提示しそこなったときに生じる感情」というリオタールの引用はつながらないし、そのあとに続く作品からの引用の説明としてもずれている。通常の意味では認識できない、感覚できない、しかしまるで感性的経験であるかのように自由を感じる、という点こそが崇高論の勘どころだ、とわたしは理解している(しかし崇高論は膨大な蓄積があるのでどこに依拠するかで話は変わってくる)。美や崇高という美学的=感性学的概念を負の感情から論じるのはややトレンドになっている感もある。しかしまず崇高は人間の自由、人間という概念のありかたと深い関係にあり、だからこそ今度は負の崇高論においては、人間の自由という枠組さえ超出するような(非人間的な)自由が問題になっている、という点を踏まえるべきだろう。とはいえ神なき世界、終末論的世界、所与の善悪がご破算となった世界におけるサバイバルというテーマとこのような感性論的転回以後の負の崇高論、非人間的崇高論はよく馴染むだろう、という直観は一読して得られた。
臼井雅美「時空をかける女たち――ルース・オゼキ『有る時の物語』」は、思想的にはハイデッガー道元の影響(存在は時間である)を受け、文化的バックグラウンドとしてはアメリカ白人と日本人という出自をもつ作家のトランスナショナルかつ世界同時多発的な物語を解説する。東日本大震災や第二次大戦、アメリカ先住民の殺戮を始めとする出来事、そして登場人物たちがメディア・エコロジーと自然環境を介して複雑に交錯する。いや、その存在の在り方は、媒介されているというよりは、ほぼ無媒介的にあらゆる他者にさらされているように見える。非常に難解だが、おもしろそうな小説だと思う。
「対談 幻想と怪奇の匠・平井呈一の足跡を追って (東雅夫×下楠昌哉)」では平井呈一の創造的翻訳、あるいは翻案・リライトの使命について語られている。
さらに、前作に引き続き東雅夫によるメール・インタビューという形式をとった執筆者紹介が収録されている。
以上、あまりまとまりはない書評となったが、一冊を通して読むことで、時代や地域の違いを超えて、さまざまな事象が共振していることがわかる。やはり、専門の海に深く潜ることは学者としては当然のことではあるけど、こうして専門外のものを読むことによって自分の立ち位置を知る経験も欠かせない。わたし自身門外漢であるため、的外れなコメントをしている可能性もある。容赦ない学術的反論はもちろん歓迎する。