惑星の陰謀

 

 脱構築批評・新歴史主義批評・ポストコロニアリズム…。権威を解体し、離節合を繰り返す批評理論の趨勢と巽孝之は共にあった。そう考えると、まるで彼が正統派の批評家、あるいは卓越した波乗りであるかのように映るかもしれない。しかし彼が折り目正しい理論を構築したことなど一度もないし、これからもないだろう。『メタフィクションの謀略』というタイトル、0で終わる年に就任した大統領は暗殺される、とぶち上げる『リンカーンの世紀』、ヴァイキング、涯ては恐竜の化石から始まってしまうアメリカ文学史。これらの仕事を眺めて、氏をひとりの権威ある碩学として崇拝するのは間違っている、とわたしは思う。そもそも世の碩学と呼ばれているものたちは、例外なく権謀術数に長けた軍師ではなかったか。
 インクと紙の向こう側を透かし見るように、あぶり出すように暗号/暗合を探り当て、新しいフィクションを仕立て上げる。パラノイア的に物語から物語を生み出し、物語のなかで途方に暮れる。解釈は権威ある学者が整序した文学史の序列に則って粛々と遂行されるものではない。むしろ言語や物語によって編まれる文学史こそ、常に権威の成立を阻む場所となる。氏の文学史は、徹底した≪陰謀史観≫に貫かれている。
 正典と大衆小説は果たしてそれほど違った時空間を生きていたのか。モダニズムの起源が、文学史の成立と同期しているのはなぜか。T・S・エリオットの言う「伝統」はエリート主義的なのだろうか。フィッツジェラルドが記した "old sport" に「気の置けないやつ」という訳語を宛てていいのか。『オズの魔法使い』は子供だけが読むものなのだろうか。スタインベックはなぜアジア人を「惑星」と称したのか。ロレンスはアメリカのモダニズムに影響を与えただけだったのだろうか。デカダンスアメリカに存在しないとどうして断言できるのか。
 疑えばきりがない。しかし正しいとされている常識の、痛くもない腹の向こう側に陰謀を探る作業はいつもおもしろい。
 文学は、いや言語自体、胡乱であり、猥褻であり、いかがわしい。清潔で透明な碩学というより、けばけばしくも魅惑的なトリックスターが跋扈する場。学問というものは本来そのようなものだろう。先行するものを撹拌し、後続のものを挑発し続け、終には先頭も末尾も周回遅れになり、竜頭蛇尾に見えたものがいつの間にか巨大なウロボロスの蛇を回転させる原動力になっている。縄張りや影響の上下関係は崩れ去る。断定的な境界や拝すべき後塵などない。「学際性」(inter-disciplinary)という号令は、今から考えればあまりおもしろくもない頓呼法だった。もともと学問の垣根なるものが、いやおそらく学問の正統性なるものがひとつの陰謀だったのだから。
 ≪惑星≫(planetarity)にしてもそうだ。スピヴァク由来の惑星思考を、ひとつの学術的正統として打ち立てたところで、それは世界を平板に均質化してしまうグローバリズムと同じ軌轍を描くだろう。≪地球≫(the globe)を太陽系のなかで相対化する≪惑星≫という用語が一度流産したのは、それがふたたび安易な普遍性の嫡子となる疑念が拭えなかったからだろう。理論的視座は思考の汀で濁る運命にある。
 胡乱な蛇足を付け加えるなら、わたしが愛好する競馬において≪惑星≫とは、勝利すると断言できないまでもその可能性を秘めているダークホースを指す。自他共に認める首相候補でありながら、とうとう一国の宰相の地位に昇り詰めることのなかった宇垣一成を評して「政界の惑星」と呼んだことから転じた派生的使用だと思われるが、惑星という日本語には、太陽の周りを回りながら太陽にとって代わるには至らない、という日陰のイメージがつきまとう。そのような惑星馬が本命・対抗・有力馬を出し抜き勝利を収めてしまうこともある。そのとき惑星は本命へと転身を遂げるだろう。つまり惑星は潜勢力のまま止まっている状態にあるからこそ惑星と呼ばれうる。惑星の存在はレースを盛り上げる。惑星は期待や夢を背負い、予定調和に一抹の不安、波乱を呼びこむ。事実上レースをつくっているのは、和を乱し、同調圧力に掣肘を加える惑星だ、とさえ言ってしまおう。 
 前置きが長くなった。いや前置きで十分だろう。精読と理論の抜き型、現代思想と実証、歴史とテクスト、文化と文学、正統と異端……。陸続と現れる本命・対抗の一騎打ちに水を差す本書は、胡乱な営みがこれからも続くことを高らかに謳いあげる、ひとつの壮大な前置きなのだから。