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文化と社会を読む 批評キーワード辞典

文化と社会を読む 批評キーワード辞典

 批評キーワード辞典と聞くと、「サバルタン」とか「ヘゲモニー」とか「現実界」とか「オリエンタリズム」とか、そういう現代思想の用語解説集のようなものを思い浮かべるかもしれない。いや、それらはそれらで批評キーワードとして流通しているものだし、現に少し難しい本を開けばそういう言葉に出会うのは間違いない。問題はそういう批評の世界が晦渋に映ることなのではなくて、それが少し難しい本に載っているだけのものに過ぎない、たとえばわたしが赤信号で立ち止まったり、野菜の値段が高いことを嘆いたりするような毎日となんにも関係がないように感じてしまうことのほうだ。
 実際、言葉はわたしの毎日を明るく照らしはするけれども、それは街灯のようなもので、わたしの毎日の明るさ、あるいは暗さとはなんにも関係がないのかもしれない。わたしが生まれる前から言葉は存在していて、わたしはその言葉をうまく喋れば褒められ、間違って発音すると小馬鹿にされる。いつも言葉はわたしの遥か上にあって、わたしを照らしはするけれども、わたしの手の届かないところにある。言葉はそのようにわたしの日常とともにあるけれども、わたしと同じところにはいない。
 ひょっとすると、批評というものは街灯どころの高みではなくて、遠いところにある三等星、いや宵闇と見分けのつかない遠い星の光のように感じるかもしれない。遠すぎて見えない光。大学の先生、文壇、評論家。いや日本を飛び越えて、青い目をした外国人の、ノーベル賞を獲るような立志伝中の人物を思い浮かべるかもしれない。わたしの手の届かないところにある、わたしの目には映らない世界。それは半分正しくて、半分間違っている。
 この本は批評がわたしの周りを掴むもうひとつの光だ、ということを告げようとしているのかもしれない。わたしを高みから照らす言葉とわたしのあいだには大きな距たりがある。ふだんその距たりを意識することはないけれど、ときどき言葉がうまくわたしを照らしてくれないとき、言葉が切れかけの蛍光灯のように明滅するとき、その距離はわたしの前に現れる。でもそれは空っぽの距たりなのだろうか。掌を振って掴んでもなにもないただの空なのだろうか。言葉がわたしをうまく照らせないときに現れる暗い距たり、それを別の言葉に、別の光に変えてくれるものが批評だ。少なくともこの本はそう言っている。言葉に頼れないとき、もうひとつ向こうの明るい言葉まで歩いていくまでのわずかな手掛かり。ひょっとするとそれはペンライトぐらいの明かりなのかもしれないし、火のついていないマッチ棒なのかもしれない。でも言葉と言葉のあいだに広がる闇の中で立ちすくんでいるわたしの役に立とうと、批評は小さな光を灯そうとする。
 批評はもちろん万能ではない。明るさから言えば、わたしが普段慣れ親しんでいる言葉の方が遥かに明るい。でもそれだけでは足りない時がある。わたしの言葉が暮れてしまうことがある。そんなとき批評は、暮れてしまった言葉とまだ明るい言葉のあいだを繋いでくれる。
 それだけではない。この本はわたしとあなたのあいだに「社会」をつくろうと訴える。あるいはわたしと言葉のあいだにある批評がそのまま「社会」を指すのかもしれない。わたしにはそれは性急に思える。しかしそれはわたしが歩んできた道のりが、「社会」から外れているからなのかもしれない。わからない。
 でもひとつわかったことがある。それはこの本と同じようにいきなり「社会」へと向かわなくてもいいということだ。わたしにはわたしの歩幅があるし、わたしの道のりがある。わたしはわたしから始めればいいし、あなたを見つければいいと思う。社会という「みんなのもの」がなんなのか、わたしにはまだわからないし、この本も測りかねているところなのだろう。でも少なくともそれを考えるためには、つまりまずわたしを感じて、それからあなたを見つけてその先に向かうためには、言葉だけでは足りないということだ。言葉よりも小さな光、≪批評≫と共に歩いたほうが、言葉の街灯を頼りに歩くよりも心強いということだ。社会までは遠いが、そこから始めるのも許されるだろう。