モーダル・ミュージコロジー/ヒストリオグラフィー

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

 打ちひしがれた友人たちを尻目に、志望校に合格して「今日オレ天狗になっていいかなあ」とのたまうのと、ベッドの上に押し倒した女の子に向かって「今日オレ天狗になっていいかなあ」と鼻息を荒くするのでは、まるで意味合いが異なる。なぜそうなるのかというと、同じセリフでもコンテクストが違えば、意味が変わってくるから。「空気を読む」のが奨励されるのも、コミュニケーションの成否は、コンテクストを読む能力に長けているか否かにかかっているから。「天狗」よりも、「天狗」を取り巻く状況、天候、会話の流れ、発話者の位置、そしてとりわけ相手が女性か男性か、といった脈絡を瞬時に読む反射神経は、いろんなものを読むうえで欠かせない。
 音楽という抽象的な時間「芸術」*1について「読み書きする」うえでも、演者や個々の作品より、演奏がおこなわれる通りや店の雰囲気、あるいはレコードの溝をなぞる針の質やスピーカーの値段、ヒットチャートのほうが大きな比重を占める。「天狗」が文脈に左右されるように、音楽も環境のなかで、あるいは新しい環境をつくるべく、響く。『アメリ音楽史』を読んでそんなことを考えた。
 わたしが思うに、この本が全体として目指していたのは、「新しい歴史叙述」(新しい物語と言い替えてもいい)の模索だったのではないか。アメリカ音楽研究に精通しているわけではないので、わたしは著者の記述を信じるしかないが、従来の研究は、音楽を発展・進化・真正性・個人崇拝といった観点から語ってきたという。たとえば、ある劇的な邂逅や僥倖が起源の音としてまずあって、そこに様々な音が重なりながら、ときには先行する音を消すようなノイズを浴びせながら、音楽は洗練へ、あるいは文化的真正性の表明へと苦難の坂をまっしぐらに登っていく。たとえば、偉大なプレイヤーがいて、それが別の誰かに影響を与えて、連鎖的な影響関係がひとつの大河を生み出すも、やがて先細り、また別の偉人が先導するより大きな河へと呑まれていく。起源神話も偉人伝も、実線で書かれた単線だ。歴史学文学史が置かれた環境を思えば、少し牧歌的すぎないかとさえ訝りたくもなるそうした古典的な物語が、アメリカ音楽研究の業界ではまだ通用していたのだろうか。だから、著者の意識は、「聖典」から漏れたマイナーワークスを発掘することよりも(そういう側面も多少はあるけども)、聖典外典の区別なく、たくさんの音を組み合わせる、その組み合わせの新しい可能性に向けられている。*2
 黒人音楽に特有の起源神話に関して、著者が受け持つパートは一貫してかき回し役だ。タイプライターで打ちつけられた滲みのない明瞭なフォントを、半紙に薄墨で写し取り、暈していく。起源というものは、たいていルーツ探しを断念した地点に設定される。*3あらゆるルーツを真剣に辿り続ければビッグバンに至る、というのは笑えないジョークだとしても、ルーツという神話には胡散臭さがつきまとう。ルーツの断定には眉に唾して臨んだほうがいい。その点、本書の著者はルーツ捜しには拘らない。ルーツが設定されれば、そこを源とした一本道が走る。物語に照らせば起承転結、あるいは序破急、音楽に照らせばコード進行か。著者はそうしたありきたりの物語=コードには飛びつかない。むしろ神話の語りを訛らせる。
 本書が採用する形式は、主人公が試練を経て成長する『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』のような教養小説ではなく、ある一定の枠組みのなかで横並びの小さな物語が語られる『デカメロン』のような枠物語だ。音楽に譬えるなら、本書は物語性に満ちたコードの軸に貫かれているのではなく、いくつかのモードによって分割されている。そのため、ジャズをとっても、ブルーズをとっても、ロックをとっても、同じような論理で論述が展開される。あるのは音楽の進行ではなく、モードの転換だ。*4
 天才の出現による画期よりも、テクノロジーや社会からの影響など複合的な要因による転換。画期によって物語られる歴史は、古いものを見えないところへおいやってしまう。対してモードの転換の場合、古いものから新しいものへ時代の趨勢が転換するだけで、決して古くからあるものが消え去るわけではない。DJのように、新しいレコードの次に古いレコードを持ち出してダブ/スクラッチでアレンジすることもできる。*5 ひとつのテーマに沿って、レコードを次々と入れ替える。過去の堆積をリサイクルするモーダルな文化史は、ポピュラー音楽の未来を予示さえする。
 紙束をたくさん抱えた女子高生と四十がらみのおっさんとが曲がり角でぶつかってしまってもドラマのような恋は生まれないが、「アメリカ」と「音楽」とがそれぞれ両耳に侵入してきて視床下部あたりでぶつかってしまうと、社会的には不幸へと転落する危うさはあっても個人的には幸福な「狂熱」が生まれることもあるだろう。「アメリカ」と「音楽」に夢中の若い学生なら、たくさんの刺激と示唆に「跳ねる」こと請け合いの教科書だと思う。*6

*1:「芸術」という言葉は嫌い。

*2:巻末に付された「書誌学的エッセー」や本論中での気配りのきいた先行研究の整理こそ、本書の白眉だと思う。膨大な量の情報を的確に整理し、振り分けて、リスト化するにはもちろん研究者としての才覚も必要だけど、なによりも時間と労力が要る。積み重ねを重んじる教養主義が圧倒的な情報の氾濫によって留めを刺された今、ある一定の見地から、塊のままの情報の海をある一定量の情報のプールへと「間引く」ことのできる人材が求められている。つまり、積み重ねよりも整えたり棄てる技術のほうが遥かに存在感を増している。かくいうわたしは、そのどちらも不得手としており、頭のなかは竜巻に遭った書庫のように散らかったままなので、著者の情報処理能力には脱帽する他ない。研究書よりも先に、まず音楽史の教科書として完成度は高い。講義を基礎としているだけあって、よくまとまっている。アメリカ音楽を専門として研究しようという開拓者はもちろん、卒論を控えた学生にもお勧めできる出来になっている。音楽を安易に黒人の歴史や文化に接続して政治化してしまう愚を犯さず、音楽世界に一定の自律性をもたせようと苦心している点も本書の特徴。わたしは好感を持つ。

*3:ホブスボームの創られた伝統 (文化人類学叢書)を筆頭に、なんらかの文化や制度、伝統が近代化と共に発明されたとする「近代による捏造」論が流行したことがある。「捏造」とまで指弾するのは近代に対して少し厳しすぎる。物事や概念に対する命名行為が、全く新しい現実を生み出すのかといえばそんなことはない。

*4:これをフーコー知の考古学(新装版)に倣って、"change"によって均される歴史ではなく、時間に断絶や切断を刻んでいく"transformation"の考古学として考えてもいいかもしれない。

*5:フレドリック・ジェイムソン政治的無意識 社会的象徴行為としての物語 (平凡社ライブラリー)で論じたように、新しい思考様式が他の思考様式を駆逐してしまうことはない。ロシア・フォルマリズムに倣えば、時代の寵児となった新しい認識が「ドミナント」になるだけのこと。古い慣習が消えてなくなるわけではない。

*6:少し批判もしておこう。もっとも不満なのは、本書の記述が、ジェイムソンのPostmodernism, Or, the Cultural Logic of Late Capitalism (Post-Contemporary Interventions Series)でのポストモダン理論や黒人文学・文化批評理論、特にThe Signifying Monkey: A Theory of African American Literary Criticismの"signifyin(g)"やブルース・ピープル?白いアメリカ、黒い音楽 (平凡社ライブラリー)の"the changing same"へと収斂してしまっていること、それから、その理論的形式化によって文化史の対象が必ずしも音楽である必然性を感じないこと。よくいえば汎用性が高く、アメリカ学の入門書としても読める。悪く言えば、アメリカ史はもちろん、文学批評や批評理論に通暁しているひとなら新鮮味を覚えないかもしれない。ただ、これは私が求めているものが、アメリ音楽史ポストモダン理論や黒人文学批評理論の光を当てる、という音楽研究"industry" における新しさではなかったからであって、本書の瑕疵では決してない。それでも、音楽を文化として語るとき、音楽を取り巻く環境や歌手の伝記、歌詞だけではなく、音韻と音響についても論じようとする姿勢が大事なことを、プレイヤーでもある著者は随所で教えてくれる。言語化するのが難しいことこそ、おもしろい。音楽(史)のおもしろさはいつもことばの把握をすりぬける。