『文学理論をひらく』

文学理論をひらく

文学理論をひらく

共著者のおひとりから御恵投いただく。ツイッターやっててよかったと思う瞬間。
読みものとしてもおもしろいが、教科書に適している、と思う。理由は後段で示す。
構想なく書き始めて、書きくだしていったので、書評というにはバランスが悪い。おまけに長い。御寛恕のほどを。

本書は二部構成。第一部は「テクストをひらく:物語の読み方とその多様性」、第二部は「理論をひらく: 文学研究とその未来」とそれぞれ銘打たれている。その全八章を五人の若手英米文学《批評家》が分担している。
第一部の劈頭を飾る小川公代「意識から無意識へ: 夢・動物・おとぎ話」は、なかなか危険な論稿だと思う。というのも、フロイトの性的象徴主義を振りかざして、『風立ちぬ』や『フランケンシュタイン』の解説を始めるからだ。鍵を男性器、鍵穴を女性器とするような一対一対応の性的象徴が、ある種の夢やおとぎ話に典型的な隠された無意識の符牒として論じられていく。だが、フロイト(とベッテルハイム)の思考をなぞるかのような還元主義は、戦略的に働いている。『狼の血族』や『虎の花嫁』といった作品を論じる段になると、フロイトの還元主義はとん挫する。フロイト精神分析から排除された女性の声が回帰し始める。フロイトによる一方的な解釈を拒み、分析を途中で投げ出したドーラの症例を挙げる小川は、無意識が決してひとつの真理に還元されるものではないことを実践的に示す。無意識は歴史や文化によって異なるものだろうし、さらには個々人の経験によっても偏るため、決定的な解釈モデルを構築できる場所ではない。通常の解釈に当てはまらないものは異常だとして退けられるべきなのか。むしろ解釈格子の不能を明かす異常の方が真理に近いのではないか。小川は理論の徹底によって得られる洞察とともに、その理論に必然的に内在する盲目(家父長制や女性の排除)の所在を、論の流れそれ自体によって示している。
続く生駒公美「女同士の絆: ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と精神分析クィア批評」は、本書の白眉だと思う。フロイトの性的象徴主義から言語論的な転換を経たラカン精神分析、そして男/女という既存のカテゴリーを横断し、その規範性そのものを問いに付すクィア批評の観点から『ねじの回転』を読む。エドマンド・ウィルソンが語り手である家庭教師の語りに性的な含意を一方的に読みこむフロイト的な分析を施すのに対し、フェルマンはラカンに依拠して精神分析家が安全な位置にいるのではなく、患者との転移関係に巻き込まれている点を指摘、ウィルソン自身が語りの権力を行使する家庭教師の身振りを反復しているという批評を展開する。ウィルソンが「マスト」をその形姿からの連想で男根の象徴と断定するのに対し、フェルマンはmastがmasterへとずれていくような、決して象徴として静止することのない言語の運動そのものを記述する。このような隠喩的な読み(シニフィアンを意味で充満した記号として解釈する)に解釈の暴力、「知っているもの」が独占する権力を見出し、それが換喩的なシニフィアンの運動(シニフィアンは別のシニフィアンと横滑りし続け、記号としての安定を維持できない)によってくじかれる点をフェルマンは剔抉する。だが、生駒の論稿が小川の論稿を引き継いで精神分析批判を深化させていくのは、フェルマンの議論をただなぞることによってではなく、それを批判することによってである。生駒は家庭教師の全能感に満ちた語りのなかに、ミセス・グロウスによる異性愛に収まりえないクィアな親密性の痕跡があることを明らかにしていく。知っていることは果たしてそれで全部なのか。ねじがどこまでも回転を続けることを予言する秀抜な論稿。
小川公代「"ポスト"フェミニズム理論: 「バックラッシュ」とヒロインたちの批判精神」は、女性の法的な権利や社会的な地位向上を求めるフェミニズム運動が、人種や階級、植民地主義フェミニズムに対する「バックラッシュ」へと応答しながら、一枚岩に団結した「女」からより多様な個人の「女たち」の生き方を問うものへと変容していく過程を追う。守旧的な結婚観からも、そして結婚を否定し自己陶酔的に恋愛を求める「新しい女」からも距離をとる知性的な結婚を提示する野上彌生子『真知子』、女性のふるまい方を解くコンダクトブックを嘲笑しつつ自前の知性を育み結婚していく女を描くオースティン『高慢と偏見』、知性のかけらも感じさせない女ながら、女に宛がわれたステレオタイプの存在を浮き彫りにする批判的な感受性をもつヒロインを描くフィールディング『ブリジッド・ジョーンズの日記』。時代も場所も異なる三つの小説の読解を通じて、三者三様に典型的な女の幸せに対して距離をとりつつ、自分なりの幸せを追求する女の生き方を切り出して見せる小川の論稿は、「フェミニズム」という歴史化された運動では取り逃がしてしまう、より微細な女の抵抗を記述するポストフェミニズムという(periodization「時代区分」を阻む)超歴史的な理念を活写しているように思われる。ポストフェミニズムは「フェミニズム」の消化不良を訴える愁訴であり、「批評」の起点となる。
生駒公美「白と黒: 『ハックルベリー・フィンの冒険における人種の境界線』は、マーク・トウェインの『ハック・フィン』を題材に、人種関係について考える論稿。ハックの物語が沈黙を余儀なくされている黒人の黒さを背景にしていると批判するトニ・モリスンとハックの言葉に黒人文化の深い影響を読み取るフィッシュキンの対立構図を枕に、生駒は『トム・ソーヤーの冒険』へと遡上、不気味なまでに白いハックの父が、黒人教授への妬みを露わにする場面に注目する。すなわち、貧乏白人たるハックの父が爆発させる感情は、社会的に劣等感を抱く人間が別の人間に対して、お前は差別されるべきポジションにいるべきだという、白黒の二項対立図式からはみ出た人種主義のあり方を仄めかしている。ジジェクの「享楽の盗み」を参照しながら、白人が享受すべき享楽を黒人が盗み、特権を享受している、という謂れのない非難をぶつける、(在特会的)ヘイトスピーチのメカニズムをハックの父はなぞっている。貧しい白人であるため奴隷の黒人と一緒に生活することにためらいのないハック(階級)と、しかし黒人に対する優位な位置は保持しようとするハック(人種)、さらには盗むことは借りることだという正当化の論理でジムを盗むハック(貧しいものが生きるための知恵)*1、というおよそ折り合いのつかない複雑なハックの人物造形は、その父親の影響という観点からみた場合、きわめて妥当だといえる。いや、むしろ父の影響こそがハックとジムの旅の顛末を規定しているとさえ言える。人種問題を視覚的なレベル*2から欲望のレベルまで掘り下げる生駒は、『ハック・フィン』のなんとも言い難い結末に、人種関係の《未だ見えない》可能性を重ねているように思われる、
第二部の先陣を切るのは、木谷巌「読むことの文学: ド・マンの精読とアイロニー」。昨年没後三十年を画し、再評価の機運が徐々に高まりつつあるポール・ド・マンの批評を振り返り、読むという営みについて反省するための視点をいくつか切り出している。ド・マンの批評を理解する上で避けて通れないのが、アメリカ文学史の正典を形成する上で大きな役割を果たした「新批評」という潮流である。「文学とはなにか」という問いは、文学的な要素の定義から始まる。木谷は新批評に属するブルックスのイェイツ論を例にして、アイロニー、パラドクス、両義性といった新批評の概念が、ひとつの独立したテクストのなかで有機的に調和する様を追う。このような作者からも社会からも独立した、一切のノイズを排された《美しい詩的有機性》を抽出するのが新批評の主眼だったとすれば、ド・マンはそのような精読を通じて詩的有機性のなかにノイズを発見する。言語が言語である限りにおいて、統一的な解釈の実現は必ず阻まれる。木谷はロマン派のテクストを読むド・マンの批評を、シンボル/アレゴリーアレゴリーアイロニーの軸に分解して、本当の意味や本当の自分といった美的な先祖返りの欲望を断念させる言語の性質を解説し続ける。とりわけ新批評の中心的な概念だった「アイロニー」は、ド・マンの批評では、詩的有機性のシンボルから、言語の無機性・物質性のアレゴリーへと読み替えられる。「濫喩」・「行為遂行性」・「機械」といったド・マンの概念を、比喩の達成を阻む言語のアイロニーとして読む終盤においても、「読むこと」の新たな切子面に色調の異なる光が当てられる。詩は美的な誘いを必ず含むし、およそ美的なものを含まなければ詩とは呼ばれない。だが、美的なものを規定するカテゴリーの根拠となる場所は、底が抜けている。詩が言語である限りにおいて、美的なものを振りまいて人を魅了しつつも、それは既存のカテゴリーには収まりえない不気味なものの次元を含まざるを得ない。従って、ド・マンにとって文学を読むこととは、既存の美的カテゴリーをひとつのテクストの内部において反復・再現することではなく、そのようなカテゴリーに内在しその歪みを訴える、おぞましいノイズに耳をそばだてる営みを指す。難解だが、批評の存在意義を強く訴える章となっている。
霜鳥慶邦「「平成の三四郎」たちへ: グローバル時代の移住者として」は、グローバル時代におけるポストコロニアル理論の意義を考える、つまりポストコロニアルとは被植民者と植民者「だけ」の問題なのか、それはわたしたちの問題なのではないか、と問いかける論稿。物事を見る基準はひとつなのではなく複数あること、わたしには思いもよらない基準が存在することを認めることの重要性を漱石三四郎』から引き出す。次にブロンテ『ジェイン・エア』と、そこに登場する「屋根裏の狂女」バーサの視点から書き直された翻案、リース『サルガッソーの広い海』とを比べて、前者の語りの死角を後者が補完している構図を確認、ひとつの視点がとりうる洞察を示すと同時に、それではカヴァーしきれず表面化する盲目もまた別の洞察に開かれていることが示される。さらには、標準という考え方が孕む他者性に対する顧慮(わたしのものの見方とは異なる観点が存在することを想像し、尊重すること)をサイードの「対位法的読解」と重ねつつ、標準の問題をカズオ・イシグロ三四郎の比較によって読み解いていく。イシグロの故国喪失者的なアイデンティティの不安と三四郎の異文化経験は、標準の変容可能性という一点において共振している。結局のところ、三四郎は標準の複数性と標準とのあいだに生じる齟齬や矛盾から逃げ出してしまうが、平成の三四郎たる現代人はこのような齟齬・矛盾とともに生きなければならない。地球儀のなかに、起伏や淀み、窪み、亀裂を発見することの重要性を霜鳥は説く。だが、移ろい漂うアイデンティティディアスポラ的経験は、ある種の知的ファッションに堕し、単なる相対主義に陥る危険を孕んでいることを忘れてはならない。他者とのあいだに対話が成立するか否かは、他者のもっている基準と自分の培ってきた基準とを《比較》する努力にかかっている。絶対的なアイデンティティの不在を、対話の無視や差異の戯れという知的怠慢の方便に利用しないためにも、理念的な矛盾や齟齬の共有にとどまるのではなく、他者と対峙するときに生じる具体的な矛盾や齟齬の感覚を反省的に記述する、地道な《比較》の作業の意義を重ねて強調しておく必要があるだろう。
高村峰生「作者の死と読者の誕生: 受容理論と「ウェブ以降」の世界」は、なんらかの意図をもって作者がテクストを生産し、読者にそれを解釈させる、という不可逆的・一方通行的な作者観が瓦解し、読者共同体がさまざまなテクノロジーを駆使してテクストを産出していくような時代に、文学はなにをすべきかを考察する論稿。まずは前近代−近代−ポストモダンという三段階において作者が占める位置について、ロラン・バルト「作者の死」、及びミシェル・フーコー「作者とは何か?」を補助線として丁寧に解説している。物語を語り伝える語り部、作品の秘密を握っている天才的作者、読者や法などとの関係において社会的に機能する作者という三つのモードを辿り、現在の読むという行為が「意味の解釈」ではなく「言語の機能(不全)」に向かうことに関する一定の理路を示す。だが、この少々乱暴な図式化は、物語を受容する読者の位置は果たして受動的なのだろうか、という問いかけと共にあることを忘れてはならない。つまり、作者の死という過激な表現は、作者を処刑するものではなく(コナン・ドイルが死んだためしがあるだろうか?)、読者が物語に対し能動的に働きかけ、意味や価値を生産する主体として機能している事実を前景化するものだからだ。ハンス・ロベルト・ヤウスとヴォルフガング・イーザーという受容理論あるいは受容美学の碩学が召喚されるとき、前近代−近代−ポストモダンという高村の架設された足場は取り払われる。物語形式には物語の受け手としての読者の位置、「空白」が予め書きこまれているのだから、そもそも作者は物語を読者抜きで完成させることはできない。したがって、先ほどのやや直線的な図式は、あくまでも作者観の便宜的な整理として理解すべきだろう。読者は前近代−近代−ポストモダンのどの場所にも書きこまれている。このような視点は、「ポストモダン」という思想的潮流による歴史的産物なのかもしれない。しかしその視点は、あくまでも物語や作者、読者といった概念を反省的に見直す瞬間に束の間可能になるような暫定的な立場であり、現代に限らずいつの時代にもとり憑いている亡霊のようなものだ。しかしながらアダプテーション、メディア・ミックス、ソーシャル・リーディング、SNSといった現代的状況を概観しながら高村が指弾するのは、古い作者概念にはとどまらない。読者がより自由に読者らしく振る舞える環境が整っていくのと反比例するように、わかりにくいものを既存の枠組みに収斂させようとする「物語化」の誘惑が強まっていく現況に、高村の批判は向かう。データベース消費に代表されるような既存の物語・キャラクターの折衷、あるいは他人に受け入れられやすい社交的性格の演出など、複雑なものを単純化・脱色し、簡単に触れあった《気分》に浸れるよう、自ら棘を折ってしまう。このような時代にあっては、読者はお馴染みの物語と簡単に出会えてしまう。読者は新しい物語をすでに知っている物語へと還元し、作者も読者の欲望に応え、すでに知っている物語を書き続ける。読者と作者による共犯的な「物語化」の欲望が、閉鎖的な「セカイ」を反復する。*3
高村の問いは、以下のように集約できるだろうか。本当に物語は読者が簡単に出会える対象なのだろうか。むしろそれは出会い損ねる場所なのではなかったか。出会い損ねの場所なのでなかったら、なぜ人はいまだに物語を欲するのか。ひとつの物語と出会えても、なぜ欲望は満たされないのか。満たされないからまだ物語を欲するのではないか。文学テクストを既知の物語へと回収し悦に入りたいという「物語化」の欲望は、そのような欲求不満をあくびのようにかみ殺す、暴力的な代償行為を誘発しているのではないのか。
掉尾を飾る木谷巌「「美感的なもの」の快楽と文学研究の現在」は、上のような問いを引き継ぐ形で展開する。つまり美や崇高のカテゴリー化にかかわる「美学」(aesthetics)、それから1970年代頃に生じた情動論的転回(affective turn)を経て美的カテゴリーに反省を迫る「美感的なもの」(the aesthetic)に関する問いである。まずバウムガルテン以来の美学の伝統をざっとおさらいしながら、詩や小説が美しいもの、崇高なものといった高尚な感情と深くかかわりをもってきた経緯が説明される。「新批評」で展開された批評は、こうした感性的な経験を排し、すべてをテクストの形式・構造として分析するというものだった。*4だが、果たして感性的経験を排して読むことなど可能なのだろうか。そのような「科学的な」読みへの志向性は、科学であるどころか、「美学イデオロギー」と呼ばれるべきなのではないか。木谷はド・マンの読みが「美学」の臨界を彷徨う「美感的なもの」に深く根ざしながら、「テクストを美の有機体」に見立てる傾向を批判していることを明らかにしていく。「美的なカテゴリーに内在する不安定性を隠蔽してしまうような志向性」は、他ならぬテクストを構成する言語そのものによって挫かれる。高村による「物語化」への欲望の批判は、「美学イデオロギー」の問いとぴたり重なる。物語化への欲望は、物語を構成する言語によって成就を阻まれ、不満を残す。このような予期したものとの出会い損ね、読むことの経験を記述する「美学イデオロギー」批判こそが批評である、というのが木谷の第一の結論だろう。だが批評は、文学史という歴史主義へも批判の刃を向ける。時間を時代区分によって分割し、作家をカテゴリーわけし、自己完結する文学史もまた「美学イデオロギー」の一形態に他ならない。このような文学史の解体の先には、歴史から逸れた「逸話」や一次資料の発掘によって解釈を絶えず刷新していく新歴史主義批評が待っている。だが、だからといって形式への問い(理論)が、歴史への問いへとすり替わったわけではない。歴史もまた言語の営みである以上、読むこと、感性的な経験から自由にはなれない。歴史にも、形式の完成や感動の達成への欲望と、それを阻む言語の冷徹な物質性との絶えざる格闘がある。だから、読むことに関わる以上、人間的な感情が埋めこまれた言語からは逃げられないし、読む行為に対する反省は欠かせない。これが批評という営為に対してとる木谷(とド・マン)の姿勢である。
反省は、経験から離れた知性的なものからは始まらない。読むことに対する反省を、あるいは読むという反省を促すのは、違和感や吐き気、怖気といった否定的な感情である。物語に感じる不満でもいい。なぜ不満なのか。あるいは、物語に感動し、涙に暮れるカタルシスを通過した後、一抹の不安や一握のわだかまりでも感じたなら、それが批評への出発点となる。あるいは、物語に感動しながらも、次の物語を求めてしまう事態でもいい。そのときのあなたは、その物語に満足しているとはいえない。なぜ満足していないのか。そう考える批評のきっかけをつくるために文学理論は存在している。理論は冷たいものではない。とても熱い。無感情なものではない。とても感性豊かだ。理論に対する反発、理論に対する毛嫌いという感情から、批評を始めることさえ可能だろう。ほら、理論からは逃げられない。わたしにはそう聞こえる。

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繰り言を少々。
ド・マンの章がふたつあるし、やれナラトロジーがない、新歴史主義がない、構造主義がない、マルクス主義批評がない、と文句を言いだせばキリがない。バランスを欠いた、網羅的とは言えない構成になっている。だが、文学研究におけるもうひとつの柱、文学史のことを思えばこの偏向もよく理解できるだろう。五〇年前の、女性作家やマイノリティ作家を無視していることができた牧歌的な時代ならいざしらず、文学史を網羅的に記述することはおろか、正統的な系譜を剔抉するのさえ難しい時代にわたしたちは生きている。今この時代に「網羅的にやる」と宣言することは、そこに働いている選別の過程に対する意識が及ばないか、あるいはそのような「完全版・決定版主義」をあからさまに標榜する自意識の漏えい以外のなにものでもないだろう*5。実際のところ、通常の書籍に課された紙幅の限りを思えば、「一冊でわかる」理論解説書など物理的に不可能であり、必然的に成果物は限られた分野に通暁する俊英が集ったコンピレーションとならざるを得ない。したがって、偏ったものを偏っていることを自覚しながら世に問う、というのがアカデミック・オネスティのあるべき姿であると、わたしは思う。*6本書を教科書*7として用いる教師であれば、本書の字面を追うだけではどうにもならないことは認識しているだろうし、本書の偏りを別の偏りでもって補完・批判・補正しつつ、また別の見方を提示する方法も心得ていることだろう。偏っているものだけが、「ひらかれて」いるからだ。
本書の意義について屋上屋を重ねておくなら、「危機」意識の復権だろうか。前書きで編者の木谷も熱く論じているように、危機(crisis)とはただたんに危険が迫っている(critical)ということをいたずらに喧伝する嘘つきの羊飼いの嘘なのではなく、危険を危険として察知しないような感性の鈍麻に対して「批評」(criticism)が介入する機会をもたらすトポスである。この意味でcriticalであるということは、およそ知性に恵まれた人間が象牙の塔にこもって研鑽を重ねるイメージにはそぐわない。危機の批評は、誰しもが備えている感情や感受性の次元に働きかけ、ありふれた経験に潜む感じることができなかったものに気づき、違和感を覚える契機をもたらす。本書が感性の問題を論じて閉じるのは決して偶然ではない。ジュディス・バトラーが『戦争の枠組み』で論じたように、われわれには、認識の枠組みだけではなく、なにを感じるべきか、なにを感じる必要がないか、という物事の感じ方を縛る規則が与えられている。初めてなにかを経験した時、それは未だかつてない興奮や悲しみ、やりきれなさ、喜びをもたらす。少なくとも幼年時代というのはそういうものだろう。しかし経験を重ねていくにつれ、新しい出来事は減っていくように感じる。平凡で平坦な毎日が続いていくように感じる。だが本当に新しい出来事はなくなってしまったのだろうか。もしかしたらそれは出来事を出来事として感じることのできなくさせるようななにかが、わたしたちにまとわりついているからではないだろうか。「危機感」とは、このような感性のあり方に警鐘を鳴らす「感性の危機」の謂いである。そして「危機=批評」とは、ひとり知性や教養のみに働きかけるものではない。無感覚(apathy)こそ、批評が動員されるべき最前線となる。
危機=批評は文学理論となんの関係があるのか。あるいは危機=批評は政治学社会学の仕事であって、そもそも文学とは関係がないのではないか。このような懐疑が、少なくとも英米文学の研究の世界に蔓延し始めて久しい。文学研究者を自称するものは数多いけれど、文学批評家を自称するのはなにやら奇異に映る。そのような風潮がある。もともと日本の英米文学研究は、文学作品を味読し、各自がそこから受けた感動を言語に表現するという傾向が支配的な学問分野である。新批評や構造主義脱構築、新歴史主義、ポストコロニアルフェミニズムといった英米圏における思潮が、そのときどきに応じて緩やかに雰囲気を変えてきた。しかし根本にある文学趣味はいつも時代もさして変わらない。溢れんばかりの書籍が新しい批評動向を捉えている。まるで文学理論が普及しているような錯覚を覚えるが、学者の圧倒的多数はそのような動静には無関心である。文学を趣味として捉える者より、学問的な精度を追求する者は、作家の残した遺稿や散逸した断片を丁寧に収集し、資料の発掘によって新しい作家像を提起することに汲々とする。特に十九世紀以前の時代を専門としている研究者は、このような資料主義の傾向を強める。もちろん、なんの手がかりもなく一般に出回っている作品だけを読んでなにごとか新鮮なことを論じるのはとかく難しいのだから、資料を読むこと自体をなおざりにすることはできない。だが、己の感動や作家へのオマージュを言葉にしたためる研究者や歴史的資料を書庫にこもって渉猟する研究者は、いったいどのようにして作品や資料を読むのだろうか。読む方法について考えることはしないのだろうか。読む方法について考えた先人たちを、ある作品の先行研究と同じように、参照する必要はないのだろうか。
だがわたしには、文学理論こそが裁判官である、などと主張するつもりは毛頭ない。文学理論が一種の方法論として流通し、読み方を縛ってきたように感じる人の感覚はおそらく正常だろう。理論は論じ方の紋切型を生産したし、どれを読んでも同じ経過をたどって同じような結論に至るアカデミックな「物語」として愛された。とかく知識や教養がすべての学会にあって、年功序列は拭い難い。だがたいして知識がなくとも、ひとつの理論さえ知っていれば論文は書ける。ひとつの「物語」でたくさんの物語を論じることができる。だから文学理論の登場は、少なくとも文学研究者から修業期間を撤廃し、学会はフロアの長老が壇上の若手に訓戒を垂れる場ではなくなる。そもそも、長老には文学理論などさっぱりわからないのだから、指を咥えてみている他ない。そこで、亀裂が生じる。「理論では文学はわからない」というのが、長老の決め台詞となる。
ここでもう二点、疑問が生じる。ではいったい、誰が文学をわかっているというのだろうか? そして文学理論とはほんとうにただの「筋書き」なのだろうか?
文学作品を味読する人も、書庫の住人も、文学理論を方程式として理解する新人類も、文学を理解する方法を知っていると強弁する長老も、それぞれ自分の感性に従って本を読み、自分こそが正しいと信じて論文を書いている。だがここにはある種の無感覚が蔓延している。無感覚とはなにも感じないということではなく、感性の限界を感じないということだ。読むということ、書くということは惰性に陥る。同じような物事、同じような登場人物、同じような表現ばかりに気をとられて、それ以外のものに注意がいかない。同じような物語に感動し、同じようなエピソードに涙する。すると同じような論文やエッセーを書いてしまう。自分のやり方を貫くにせよ、文学理論から方程式を借りて問題をきれいに解いてみせるにせよ、そこには読むことや書くことに関する反省の意識が欠けている。反省するためには、危機を《感じる》必要がある。反省はなんらかの事情で自分が感じているものが限られている、自分の感性が習慣に慣らされていることに気づくことから出発する。文学理論は、この無感覚の気づきを与えてくれる仮構された場所であると同時に、たくさんの先人が反省を繰り返してきた先行研究でもある。だから文学理論は参照し、批判する対象とはなりえても、答えを自動的に導いてくれる方程式にはならない。文学理論は《使えない》。
文学理論に答えはない。だが問えば、応えてはくれるだろう。危機感は、何処かに寄宿しなければ生きていけない、弱い感覚。文学理論はその感覚を寄宿させる仮宿に過ぎない。宿主を募りながら。
 『文学理論をひらく』。研究ではない。批評に向かってひらく。

*1:「享楽の盗み」に接合しようとしていたが、わたしとしてはゲイツのSignifyin(g)理論のほうがしっくりくる。

*2:他者に享楽を盗まれているという幻想の問題は確かに大きな問題ではあるが、当然そのような幻想の他者を規定する基準として視覚的な差異を無視することはできない。現在、白さや黒さを現実の肌の色を超えた、視覚的イメージの次元で考察する新しい人種研究も始まっている。

*3:高村が論じているような「物語化」の現象は、現代に特有の現象ではない。未知のものを既知のものの枠組みで理解しようとする、あるいは既知のものだけを理解しようとする傾向は、およそ古今東西どこにでも見受けられる現象である。この現象は「新しい」物語では乗り越えられないし、「新しさ」や「乗り越える」という発想そのものがモダンの機制、あるいはモダンに対する批判として働くモダニズム文学の文学観に依拠している。わたし個人としては、「物語化の欲望」も「新しさ」も普遍的な現象であるように思う。したがって、どんな物語も、そしてどんな物語化の欲望も、それに抗う「新しさ」も不完全なものであるために、人は決して満足できない、という点を強調したい。物語に、文学作品に満足していないことに気づくかどうか、つまり物語、ないしは小説や詩に対する読者の態度が問われるべきではないだろうか。前衛的な小説を読んでそれをわかったふりをするというふるまいは、定型的な物語を読んで痛快さを覚える自己満足と同格の関係にある。もちろん、難解な小説と《出会い損ねる》のはそれほど難しいことではないかもしれない。しかし、定型的な物語とも《出会い損ねている》ことに気づくことも、読むことと文学の大きな課題であるように思う。

*4:木谷は論じていないが、管見ではドイツ・ロマン主義は創作のみならず、文学批評の契機ともなった。やがて批評は、文学史と文芸学(Literatur wissenschaft)として制度化される。後者、文芸学は日本ではほぼ忘却され、これについて論じた文献はかなり古いものしか残っていない。文芸学はLiterary scienceと英訳されて、英米圏では流通した。わたしの直感では、おそらく新批評の論理的意匠・形式美優先の批評には、ドイツ文芸学の輸入による、狭義の「科学」という概念が深くかかわっているように思われる(ドイツ語に明るくないのだが、wissenschaftは「学」・「知」というニュアンスではないかと思う)。ロシア文芸学においても、文学を科学と考える傾向は強かった。一般的にロシア・フォルマリズムとして知られているロシア文芸学の展開は、マルクス主義の歴史主義との弁証法的対決の過程だった。どちらかといえば純文学作品に特化しがちな欧米のフォルマリズムとは異なり、プロレタリアート(労働者階級)革命を歴史の目的とするマルクス主義に対抗しなければならなかったロシア・フォルマリズムは、大衆文学の形式分析にまい進する、という独自の発展を遂げた。

*5:もちろん、それを一種の暴力だと自認したうえで敢えてやるのであればその戦略性は評価されるべきだと思う

*6:できるだけ偏りをなくそうとしてつくられる教科書が、読みものとしてどれほどつまらないかは言うまでもない。決められた分量を決められた範囲に杓子定規に割り当て、できるだけ多くの物事を扱う教科書は、あらゆる事象・人物・作品を抑揚なく平板に語る。

*7:おそらく教科書として企画されたものではないか、とわたしは思う。