言葉の乱れ

 黒人詩人の詩集、Cathy Davidsonの『Revolution and the Word』、Judith Butlerの『Precarious Life』が届く。Butlerは相当覚悟して読まないといけないので先送り。当面、博論の一次資料となる前者2つをやっつける。他にも山のようにやっつけなければならない資料が。一日が短い。

 M先生のブログで紹介されていた青土社のシリーズ本が2冊届く。「サイード」と「スピヴァク」。さっそく「サイード」を読んだが(一次資料を読みなさい!)、全くの初心者には少々難しいかもしれない。しかし、所々で用語の説明欄が設けられていたり、さまざまな思想潮流の中にサイードを位置付けているので、なかなか読み応えがあるし、思考の整理にも役立つ。個人的には先日紹介した『ポストコロニアリズム』などの大きな問題意識を扱った概説本を読んだ上で読まれることをお勧めする。filiationとaffiliation の説明はもっとしなければならないと思う(affiliationはfiliationのrepresentationになってしまうこともあるとサイードは批判しているので)。M先生も「ジジェク」を訳すようだ。難しくないことを祈る。

 最近、若者言葉の乱れがひどい、と聞く。新聞では、正しい言葉の意味を知らない若者を糾弾する世論調査のようなものが出回っているし、斎藤孝のようなちょっと物知りげの似非学者が盛んに日本語の正しさを宣伝している。でも、言葉は時代によって変わるもの。昔の言葉の使い方が正統だということはできない。昔の日本語が正統だというのであれば、平安時代弥生時代縄文時代、いったいどこまで遡れば良いのやら。別に言語の共時態(時間の流れを無視してひとまず疎定できる共通の言語)と通時態(時間の流れによって刻々と変わる言語のあり方)を考察したソシュールに頼る必要もないし、辞書をいくら引いても最終的な意味には辿りつけない(言葉は別の言葉によって置きかえられている)というデリダのような説明を求める必要もない。言葉は生き物だ。それは最近のJudith Butlerの仕事に顕著に表れている。なんらかのルールに従って、我々は言葉を使っているのは当然だとしても、言葉は使われるたびにルールを作り出す(あるいは壊す)ものでもある(言葉は「行う」)。言葉の乱れは、学者さんの知っている言語の正統性を脅かすと同時に、学者さんの正統性をも嘲笑うものだから、偉い人は慌てるのだろう。そうした風潮の中で、細木和子斎藤孝のような古いしきたりを知る人がもてはやされるのも、色んな意味でおもしろい。そうやって人間社会は、バランスをとるのだろう。
 学者さん同士の世界でも、「言葉の乱れ」は結構問題だ。これだけ学問領域が細分化されて、隣に机を並べている人が何やっているのか全く分からないような状況で言葉が乱れると、蛸壺方式にお互いがお互いの領域を神聖視してしまって、領土不可侵の原則が大原則としてまかり通る。ある程度共通の認識を持たないと、偉い研究も、社保庁並の公金無駄遣いというパブリックなマスターベーションへと帰結することになってしまう。こうした言葉の乱れが問題になったのは、構造主義以降、文学・文化理論が大量に文学研究の場に流入してきてからのことである。それまで文学者は「象徴」、「悲劇的アイロニー」、「プロットとストーリー」、「エピファニー」といった手垢に塗れた美学的用語を使いまわしていけば本も書けたし、一生学者と崇められて名誉と幾ばくか(研究機関と地位による)の金銭を手にすることができた。ところが、今やそうした言葉を見つけることは、桑田真澄のほくろを数えるのと同じぐらい難しい。日本の学会は未だに旧体制が支配的なのでちょくちょく出会うのだが(全国誌レベルになるとほとんどない)、海外の雑誌や著作となると皆無といっていい状況である。今の流行りは、「言説」、「表象」、「行為遂行性」、「現実界」、「シニフィアン」、「器官なき身体」、「シグニファイイング」といった、使いまわせると(理論ヲタクの内輪で)ややカッコよさげに聞こえる「洗練された」批評用語。もちろん、こうした言葉はそれなりの背景があって生まれてきた。ポストモダンな批評用語が出てきたのは、文学作品を崇め奉り、それが理解できるという特権を武器に(大した武器ではないと思うが)、大学教授という特権を享受してきた旧体制とその批評性を批判するためである。作家を崇めていたら、作品は作家のものではないといい、読者こそが作品を読むことで生み出すのだとかいっていたら、もともと作品の中に意味なんてなくて、それは言葉のネットワークの中で意味があるように見えるだけだといい、テクストの中の言語遊戯が一段落すると、テクストは歴史的・文化的に決定している、と今度は文学の外に駆り出される。その激変の度に新たな用語が生み出され、消費されてきた。用語にはそれなりの歴史がある。
 ところが、批評用語は現実には超歴史的なファッションとして使われている。ほとんど用語のもつ意義や政治性はまるで意味がないかのように。批評の凄さや新奇さは、内容とは関係の薄い最先端の批評用語の選択によって保証されている。理論の進展は、確実に批評力の低下を物語っている。しかし、実際のところ、理論は批評の方法ではなく、批評方法の「批判」として存在してきた。「表象」という言葉はあり難い「象徴」と同じではないし、ましてや「ディアスポラ」は聖書的な「エクソダス」とは別物だ(混同をよく見かける)。文学批評界における「言葉の乱れ」は、実は理論を批評の方法だと錯覚しつづけてきた結果だと、私は思う。つまり、批評用語の背景を知ることなく、理論用語辞典に載っている定義に安直にも従い、さも専門家のような振りをしてそれを使いつづけるという現状は、方法としての理論の絶対化(神聖視)に由来しているのではないか(定義なんてあてにならない)。
 たとえば、「言説」(discourse)という言葉はどうか。この言葉を有名にしたのはフーコーだろう。しかし、フーコー以外にも「言説」という用語を使う人はいる。言語学では、バンヴェニストを始め、構造主義的手法をとる論者が「談話」(discourse)分析に際して用いてきた。一義的には「文」を指す。もっとも、文章を閉じたものとして考える人とそれが歴史・社会的に開かれたものとして考える人など、その考え方は多様なので、「談話」分析は、そのまま「談話」とは何か、という疑問に通じていることになる。ジュネットを始めとする物語論の論者は、物語を支配する言語的・形式的構造を指して「言説」を用いる。しかし、意味を生むのは「言説」ではない。物語論では物語の意味を生み出すものとは別の次元、つまり物語の内部に眠った無意識的な次元を探るために「言説」という言葉を用いる。物語論は「言説」という言葉に、物語には読者が意識できない次元があるのではないか、という科学者的発想を込め、やたらと印象主義的な批評を攻撃したのである(これらの「言説」は私の世界ではそれほど一般的ではないが、言葉について考えてきた人文学の領域全体を意識すると無視することはできない)。
 フーコーはどうか。乱暴に分類すると、フーコーは言葉の世界を「言表」(statement)、「言説」(discourse)、「エピステーメ」の3つに分け、私たちの日常の言葉がより大きな権力や規範と関わっていることを示した。日々話す言葉は、私たちが創出したものではなく、予め与えられたものである。それは日常こだわる文法やあいさつのきまりごとといったレベルを超えて、より大きな社会や歴史と関わっている。例えば、私たちが「パレスチナ」の話をするときに、すでにそこには「言説」が関わっている。パレスチナ人をテロリストとして考えている人、あるいはイスラエルから抑圧されている人、または狂信的な集団として考える人。それは私たちの発した言葉であると同時に私たちが発した言葉ではない。こうした様々な「言表」は、寄せ集まって「パレスチナの言説」となる。私たちの発する「言表」が「パレスチナの言説」を構成していると同時に、私たちは「パレスチナの言説」を参照することによってしかパレスチナについて語ることができない。フーコーは私たちの世界の認識が言葉の中で作られており、またそうした言葉を発し続けることによってのみ生きていくことができると考えた(エピステーメはより高次の概念だが、これを用いると余りに形式主義的になり、実際批判されたので今はほとんど使われない)。
 フーコーが「言説」という言葉を使って考えようとしたことは、人間が「主体」(subject) となるのはこうした言葉の世界においてのみであり、人間が必ずしも言葉の支配者ではないという、実に単純だが、よく見落とされる盲点だ。だからこそ、言葉には容易に偏見や誤解が忍び込み、時にはそれがイデオロギーと化して、人間の思考を縛り、差別が生まれる。と同時に、人間をヒエラルキーの中に位置付ける言葉の暴力的な部分を変えていくのもまた言葉を使うことによってしかない。フーコーは抵抗の手段を明確に示したわけではないが、「言説」という存在を認識することで必死に自らも「性の言説」(フーコー自身、同性愛者だった)を乗り越えようとした。フーコーは「言説」を批判し、乗り越えるために用いているのであって、「言説」というファッションに乗っかって知識人をきどっていたわけではない。この態度は、言葉を非政治的に捉える風潮を痛烈に批判した。つまりは、フーコーによる「言説」の批評は、批評家が安易に考えすぎている「批評の言説」それ自体に対する攻撃だったともいえる。こうした「言説」の批評性を前にして、それでも「言説」を「噂話」や「井戸端会議」と同等の用語として使うことが許されるのか。フーコーの批評を踏まえて「言説」を用いるのであれば、それは政治的な批評意識に根ざしていなければならない。政治的ということは、現実を見なければならない。それは小説の中で起こる出来事という限定した視点や、昔起こった不幸な戦争や奴隷制といった過去を現在の現実から切り離す過剰な観察眼とは明確にことなる。「言説」を批評する批評もまた「言説」の中にいるからだ。「言葉の乱れ」は、実は乱発される用語それ自体に責任はない。要はそれを何のために、どのように用いるのか、という批評家の政治意識こそが問題だと思う。