ド・マン没後30年

*[読書][吐き気・醜・反美学] ド・マン特集その1

思想 2013年 07月号 [雑誌]

思想 2013年 07月号 [雑誌]

 『思想』ド・マン特集劈頭を飾る土田知則×巽孝之×宮崎裕助による鼎談を読了。ド・マンの来歴、翻訳の苦労、弟子筋から遡ったド・マン受容、日本におけるド・マン、ド・マン事件、さまざまなディシプリンが合流する場所としてのド・マン、新批評とド・マンの関係、ド・マンの思想としての可能性。
 印象に残ったのは、新批評からディコンストラクションまで通奏低音として響くプロテスタンティズムの理念。ド・マンの自己滅却的な文体とテクストを読むことへの没入。ド・マン、及びアメリカの批評界とロマン派の関係。そして「読むひとド・マン」から「書くひとド・マン」をいかに引き出すか。
 サクヴァン・バーコヴィッチの名前が出てこないのは意外だったが、いわゆるピルグリムの建国神話にしろ、アメリカ文学史の聖典化にしろプロテスタンティズムの色が作品のみならず批評史において重要視されてきたのは事実。わたしは新批評の有機性重視の姿勢から、「脱構築」は距離を置いていると思う。
 ド・マンの自己消去的な文体というのは、翻訳で読んでいても感じることで、テクスト内の≪レトリカル≫なものに巻き込まれていくド・マンの呷吟を字面から目で聞くというか、なにかそういう異様なものを感じる。逆説的なものを順接してしまう頸木語法的なものもあるか。なにせ主張ではなく読む人。
 ド・マンとロマン派の関係については、ずいぶんこれまでも考えたことだけども。わたしは新批評とロマン派の結びつきというのは薄いと思っている。形而上学的詩人やモダニストの形式美を好んだわけで。ロマン派に括られているものでも例外的に形式的なものを新批評は論じただけではないか。
 ド・マンが論じるロマン派には、どこか意外な感じがしていたのだけども、最近ロマン派こそが彼の批評の核なのではないかという気もしている。読んでいない本もあるので、なんとも言えないけれども。それは感傷や情感の擁護というようなレベルではなく、もっと『肉体と死と悪魔』のような位相で。
 土田さんのド・マンのwritingを論じる、という方向性はとてもおもしろいと。書かれたもの、書く行為、書き直しの系譜。読むことと書くことは密接に繋がっている。読みかたは書きかたの性格にも影響を与える。書いている時にこそ何を読んだか、何が読めていないのかが残酷なまでにわかる。
 あとは翻訳夜話というか、ド・マンの主著ふたつにかかわった土田・宮崎ご両人の艱難辛苦を偲ぶ場でもあった。やはりわたしも『盲目と洞察』の翻訳は驚異的な仕事だと感じたひとり。ほとんど完璧な日本語だったし。しかしそれでも当の訳者たちがまだ悩んでいる、というのがおもしろい(失礼)。
 わたくしごとでいえば、『読むことのアレゴリー』が中座したままになっていることだし。『ロマン主義のレトリック』も残っているし。脱構築やイエール学派なる言葉から解き放たれたド・マンの可能性はどこにあるんだろう、と彷徨しながら、呷吟する。うなされる。たぶん。〆
 富山多佳夫「ポール・ド・マン再読」は、脱構築を二次的に扱った事典・アンソロジー等を総覧、脱構築が意味するものの拡散を指摘。デリダとド・マンの相互参照で、両者の差異を披露。外野における撒種とは反対に、ド・マンの読みは内的かつ特異な「息苦しさ」に満ちている。
 彼は同時代のヘイドン・ホワイト、ジェイムソン、サイード、グリーンブラットに目を向けなかった。言わんとすることが漠然とはしているが、要はド・マンがテクストの人であり、コンテクストに関心を向けなかった、と言いたいのだろうか。
 それとも脱構築はなんらかのディシプリンに縛られた、特定の批評ではなく、むしろ批評以外のものなのだ、という趣旨のデリダの言葉を引いて幕を引くのは、ド・マンがその他の同時代の批評家とは異質だった、という指摘をするためなのだろうか。
 ともかくも、脱構築という用語一般はプラスチック・ワード、だということに今さら贅言を費やす必要はないはずなので、ド・マンのなにを論じようとしたのか、わたしにはもうひとつ趣旨がわからない。うーん。〆
 (承前)ド・マンその人が同時代に目を向けなかった一方で、彼が言っているレトリカルな読解はあらゆる分野に適用できる。彼の生き方は特異で偏狭に見えるが、その実彼の「読み」そのものは文学批評を超えて哲学や歴史学等も巻き込んで、ひとつの「読み」の宇宙をつくる、ということか。〆