- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/06/28
- メディア: 雑誌
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アウエルバッハ『ミメーシス』にはどこかグレコローマン黄金時代への郷愁というか、ひとつのヨーロッパという幻想を偲ばせるものがあるし、表面的には彼自身が思い描く理想主義をリアリズムの極北において追究するようなエリート主義的な一冊だけども、ことごとくその成就が阻まれるという意味において、ある種の廃墟を含み持った予型論的著作であると言えるかもしれない。ヘイドン・ホワイトがアウエルバッハ論を書いていた、というのは寡聞にして知らなかったな。
とまれ、このようにして起源への遡及がことごとく失敗に終わる結末は、モノからは切り離されて存在している言語、そしてテクストの性質そのものだし、さらにはそうしたテクストを遠巻きにして移ろう批評言語の宿痾を端的に示している。修辞への耽溺がかようにドイツ色を帯びた廃墟の歴史意識=アレゴリーとなって敗戦の記憶と重なるとき、脱構築を正義と高らかに宣言するデリダとはまた異なる、敗北主義的な脱構築の姿が浮かび上がる。戦勝国においてこの敗北主義がひとつの思想潮流を形づくったことの不思議を思う。
下河辺美知子「傷と声」は、ド・マンの言語観を「同一性の不在」という心的外傷を負ったものとして捉える。言語が整合性を失う瞬間に訪れる「パトス」がその排除されたものの回帰の症候。ド・マンの読みは、読者に類似性を呼び起こす知覚を放棄させ、言語のみに専念させる。しかし逆説的なことに、そうした知覚の放棄は、読者の身体的な次元の切断を要請するため、痛みを伴う。そのような痛みこそがド・マンのいう「パトス」ではないか。そして四肢切断の痛みに耐えつつ知覚を遠ざけるスコラ学的な身体を引き継いだのが、ジョンソン、フェルマン、スピヴァク、カルース、バトラーら女性思想家だったのではないか、という論稿。言語の物質的次元が、読者自身の痛みとして表象されると理解していいだろうか。もっとも身体からかけ離れた場所に、もっとも生々しい身体があるという逆説。「痛み」は、ド・マンが現代の感性論と共鳴し合い、ロマン主義の根源へと不可能な遡行を繰り返すトポス。
宮崎裕助「弁解機械作動中」は、ルソー「盗まれたリボン」のド・マン論文に対するデリダの批判を丁寧に解きほぐしてド・マンのテクスト=機械論を註釈、にもかかわらずなおも著者自身がこのテクスト=機械へと巻き込まれていく様を克明に追ったドキュメント。
ルソーの「告白」を真実表白/弁解とに弁別することはできない、とするデリダの批判は、すでにド・マンの論に織り込まれており、ド・マンが問題化しているのは、あらゆる告白が、そうした両極のあいだで揺れ動いてしまうことだった。この告白のアポリアこそが新たな弁解を呼び続ける源となる。告白は真相の暴露という体をとりながらも、それが弁解の姿勢によって真に迫るものとなる限りにおいて、真相の隠蔽という効果をもたらす。つまりは、真相の暴露は、(法的な判決や刑とは別の)免罪と並び立たず、むしろ痛くもない腹を探り続ける動機を他者に与えることになる。暴露される真相は、普遍的な真実(the truth)とはなりえず、その告白行為がなされた時空間によって制約を受けた位置づけられた真相(a truth)に止まる。むしろ、真相を位置づける特定のコンテクストを運んでくるのは、告白行為そのものだということにもなる。告白は真相を詳らかにせず、免罪符を与えることもしない。かくして告白は新たなる弁解を要請する。
ド・マンはこの「弁解の自動運動」の構造を、テクストに固有のものと考える。ルソーの告白が彼自身のテクストによって終結せず、かつ彼の死後も解釈の対象に曝されるのは、それがテクストに書かれているからであり、テクストとして読まれるからだ。ルソーの告白が生み出しそれ自体を拘束するコンテクストは、このようなテクストに固有の共同体だということ。ルソーのテクストは、ひとつの虚焦点となって、その周りに多くの読者・作者からなる共同体の運動=コンテクストを組織する。テクストを拘束するのはその求心力によって生み出されるコンテクストであるが、その一方でテクストはその遠心力によって解決を先延ばしにする。つまり、テクストは弁解しつつ、解釈をコンテクストへと委ねるが、そのコンテクストは静止したものではなく、弁解機械に対応した≪解釈運動体≫であるため、テクストは弁解をやめることができない。求心力と遠心力によってテクストは運動を組織し、その解釈は当のテクストの性格によって終わりなきものとなる。
注目すべきは歴史修正主義が解釈の自由を免罪へと結びつける一方、ド・マンのテクスト観に代表される歴史意識は免罪を予め排除している点だろう。(歴史ではなく)出来事としてのテクストは、解釈(弁解)を要請はするけれども、解釈の終わり(免罪)を許さない。ド・マンは自分が有罪であることを知っており、それだからこそテクストを読んだのだと、宮崎論文に教えられた。