コラージュの20世紀

切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

 著者ブログ http://makomoto.seesaa.net/article/37837813.html より 

目次


第1部 コラージュの受容の地平

 第1章 コラージュの挑発――現実の断片と言語の狭間で
  1 「レアリスム」の問題
  2 言語としての芸術――絵画/詩のパラゴー
  3 文学・写真・映画におけるコラージュ/モンタージュ

 第2章 アメリカの批評におけるコラージュとアッサンブラージュ
  1 パピエ・コレと平面性――グリーンバーグのまなざし
  2 記号学的解釈と社会学的解釈
  3 アッサンブラージュと空間の拡張

第2部 コラージュと切断

 第3章 分割と再構成――クレーの修正
  1 分割コラージュ
  2 クレーの切断の技法をめぐるテクスト
  3 切断の機能
  4 《新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)》をめぐって

 第4章 「偶然の法則による」パピエ・デシレ――ジャン・アルプ
  1 ダダ時代――幾何学的構成と偶然の間で
  2 一九三〇年代以降――パピエ・デシレの時
  3 コラージュの脆さ

 第5章 偶然によるコラージュから絵画へ――エルズワース・ケリー
  1 「転写」の技法
  2 偶然の戦略、再び
  3 《シテ》――格子(グリッド)と偶然
  4 色を命名する――マルチ・パネル・ペインティング
  5 断片化と単一の形態
  6 作品への回帰

第3部 拡張するコラージュ

 第6章 「綜合芸術作品」の変遷
  1 「綜合芸術作品」の理念
  2 エクリチュールとイメージの間の相互作用
  3 コラージュと演劇

 第7章 クルト・シュヴィッタースメルツバウ――住まわれたコラージュ
  1 建築とユートピア
  2 メルツバウの誕生と生成
  3 公共の場/私的な場
  4 「洞窟」――ダダの文学的内容の過剰
  5 芸術的行為としての収集
  6 テクストの戦略的機能
  7 「開かれた」コラージュ

 第8章 ロバート・ラウシェンバーグとグローバルなヴィジョン
  1 転機――ダンテ『神曲』地獄篇のためのドローイング
  2 世界=絵画
  3 神話化された旅

結語
あとがき

索引
欧文レジュメ

 20世紀の芸術・批評からコラージュの軌跡を剔抉、その美学・政治・文化的戦略を読み解く浩瀚な一冊。
 「糊で貼りつける」という意味の動詞collerから派生したコラージュ(collage)は、元来大衆的な工作・工芸に由来する。たとえば19世紀に一世を風靡したスクラップブックはその好個の例だろう。このコラージュという営みが、芸術上の操作として価値を見いだされるのは、ピカソを始めとするキュビスム、及びダダやシュルレアリスムといった前衛芸術の登場を俟たなければならなかった。今でこそコラージュという用語は、フォトショップのようなツールの登場によってほとんど新奇さを失い、死語と化し、再び日常的な実践の下敷きとなって伏在するようになった観もある。しかし、20世紀の芸術運動を回顧するなら、コラージュは傍流どころか、ひとつの大河を成して轟々と歴史を貫流していた。雨滴のような痕跡から、すっかり干上がったかに見える大河を掘りおこし、大海へと注ぐ新たな奔流を生み出す。それが本書の狙いだろう。
 序において、著者はコラージュを便宜的に3つのタイプへと分類している。長くなるが本書の簡潔な要約でもあるので引用しよう。

 

 1.綜合的コラージュ
 異質な素材を綜合し、形態的な統一性をもたらすコラージュ。まずはキュビスムのコラージュを指し、未来派、ロシア構成主義、クルト・シュヴィッタースのコラージュ等、それと同じ原理に基づく作品も含む。シュヴィッタースのコラージュは、キュビスムのコラージュに倣い構築的であるが、しばしば放射状の螺旋構造に向かう。ロバート・ラウシェンバーグのコンバイン・ペインティングやコンバインも、このカテゴリーに含まれるが、そこでは異質なオブジェ同士が一層激しく衝突している。
 
 2.意味論的コラージュ
 何よりもまず、シュルレアリスムのコラージュ、とりわけマックス・エルンストのコラージュを指す。基となる素材は、出来合いの「イメージ」であり、同質である。ここでは異質性は、用いられている素材のレベルではなく、意味のレベルで作用している。マックス・エルンストは、元のコンテクストから意味を逸脱させる「デペイズマン(dépaysement)」の効果に訴えた。このカテゴリーには、マルセル・デュシャンのレディ=メイドも含まれ、そこでは命名方法が本質的な役割を果たしている。また、ベルリン・ダダや、後期ロシア構成主義フォトモンタージュは、政治的なメッセージの伝達手段として機能した。ラウシェンバーグシルクスクリーンド・ペインティングも、意味論的コラージュに近い作品である。
 
 3.分析的コラージュ
 芸術家がいったん完成した作品を切りとり(あるいは破り)、分割してできた断片を再構成するという、「破壊的‐創造的」方法によって作られるコラージュ。「分析的コラージュ」の場合、素材は、外界から採取されたオブジェでもイメージでもなく、すでに存在する≪芸術作品≫そのものであり、同質である。芸術家にとって、自分自身の作品を切りとったり破いたりするのは、暴力的で破壊的な行為に違いないが、≪自己批判的≫なまなざしによって、再構成へと導かれる。とりわけ、このカテゴリーの中に含まれるのは、パウル・クレーのコラージュ、ジャン・アルプのデッサン・デシレ(dessin déchiré「破られたデッサン」の意)、エルズワース・ケリーのフランス時代における「偶然による」コラージュである(言うまでもなく、上記の三つのカテゴリーに属さない、例外的な作品も存在する。例えば、アンリ・マティスの「切り紙絵<papier découpé>」は、形態・構造のレベルにおいても、意味のレベルにおいても、異質な要素が集合したものではない。それとは逆に、マティスの切り紙絵は、画家の指示によってあらかじめグワッシュで染められた紙――すなわち、均質な要素――を切り抜いて制作される。とはいえ、鋏で形態を切り抜くことによって、マティスが「色の中で直接デッサンする」ことを可能にした切り紙絵は、自己批判的な破壊とも無縁である)。

 
 以上のように、著者は20世紀のコラージュに、ひとつのコンテクスト上で異質な要素が出会うもの、同質的な要素が複数のコンテクストに裂かれるもの、一旦完成した作品を破壊してそこから新しい作品をつくりあげるもの、という三つの様相を見いだしている。この三つの型に合わせてさまざまなコラージュたちを切り抜き、貼りつけてできあがった成果として、本書の「言説的コラージュ」の実践を位置づけることもできるだろう。
 わたしのような現代美術の門外漢から見て、本書に特徴的だと思われるのは≪エクフラーシス≫(ekphrasis)の前景化だろうか。通例、エクフラーシスは、非言語的な藝術作品を作家自身が言語によって意図を説明したり、芸術理論を打ちだしたりする(パラ/サブ)テクストを指す。しかし著者は、芸術作品の外部に存在するように映るテクストが、事実上芸術作品の一部を成していることをコラージュの分析を通じて明らかにしていく。デリダのいうパレルゴンやパス=パルトゥーの論理にも似て、作品を縁取る装飾、枠組みが、絶えず作品の成立条件を問い直し、立ち上げ続けるダイナミズムがここにはある。著者のコラージュ論においてエクフラーシスは作品のト書きなのではなく、作品を常に賦活しつつ生成変化する芸術の理念(シュヴィッタースのいう「ライフワーク(Lebenswerk)」、あるいはジョイスのいう「道半ばの作品(work in progess)」)そのものを体現している。
 コラージュ作品に対して、言語はテクストとしてのみ関与するわけではない。まず造形芸術において、言語は作品に対するキャプションとしての役割を担う。デュシャンの作品に顕著なように、日常的なモノは≪表題≫の付与によって作品としてのかたちを得る。さらにはコラージュ作品に組み込まれた≪文字≫も看過できない。作品中に埋め込まれた文字は、それが本来有している音や文字相互の繋がりによって獲得する意味を剥ぎとられている。かわりに物質的な文字は、それが占める作品中の位置に応じて機能する。そこでの文字は、作品に表象されたイメージの一部を構成する素材として扱われている。芸術についての言説のみならず、芸術のなかの文字にも焦点を当てる著者は、視覚的イメージと言語との切り結びを、すなわち言語と芸術とのコラージュによって生まれる化学反応を、鮮やかに活写してみせる。
 コラージュにおける言語の重要性を特に示しているのが、アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグのコラージュとウィリアム・C・サイツのアッサンブラージュとを対置させて比較している第二章だろう。美術史上のモダニズムを絵画の平面性に求め、今なお現代美術についての言説に大きな影響力を揮っているグリーンバーグの言語を、芸術家の言語や作品と同列に並べる。このようなアッサンブラージュ的な並置に、デリダが『絵画における真理』で示したような芸術と芸術についての言説とが渾然一体骨がらみとなった表象の臨界点をわたしは重ねてしまう。批評もまた作品のエクフラーシス、いやひとつの作品を構成するエクフラーシスなのだろう。いみじくも本書で論じられるシュヴィッタースの信念のごとく、言葉はこうしてコラージュの素材となるばかりか、本書を紡ぐ糸ともなるようだ。
 フランス語で書かれた博士号請求論文を下敷きとしているためか、日本語がやや翻訳調になってしまう箇所、論理的整合性やまとまりに欠ける箇所もある。しかしながら、ふたつの賞を受賞した実績がすでに担保しているように、本書の質は国際的水準を優に超えると思われる。12世紀の日本におけるコラージュの実践、『西本願寺三十六人歌集』のような素材を吸収して、さらにコラージュの宇宙が拡大しゆくその航跡を見てみたい。コラージュはそれ自体、新たな変化を求めてやまないひとつの生なのだから。
 ちなみに著者が末尾で指摘するところによると、本書から漏れた研究対象、フォトモンタージュとマティスについては以下の研究が補っているようだ。

ダダの性と身体―エルンスト・グロス・ヘーヒ

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装飾/芸術―19‐20世紀フランスにおける「芸術」の位相

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