闇の空間化と物質的啓蒙――シヴェルブシュ『闇をひらく光』

闇をひらく光 〈新装版〉: 19世紀における照明の歴史

闇をひらく光 〈新装版〉: 19世紀における照明の歴史

 知覚は歴史的に変わるもの。五感が歴史的産物だという学説は、アラン・コルバンを嚆矢として、すでに人口に膾炙した観もある。
 『闇をひらく光』は焔から光へと日常的な照明が技術的変革を遂げていくなかで、その変化に戸惑いつつも適応していった19世紀人の視覚の変遷を追っている。火から生まれる明るさから、全面的な光、光の全体性へと至る19世紀の啓蒙的テクノロジーを論じた一冊。
 伝統的な照明といえば、蝋燭や暖炉だった。しかし暖かみを湛えた焔の文化はやがて光源から発せられる光が笠を介して辺りを照らすものへと進化していく。19世紀にはガス灯が登場する。劇場や街路のような公共空間は瞬く間に眩さに満たされる。やがてガス灯は室内にも光をもたらす。エジソンの登場と共に、ガス灯は電化され、ガスよりも安全な電灯は、室内/室外問わずに明るさをもたらすようになる。
 このような照明の変遷過程には多くの戸惑いと改善要求があった。とりわけガス灯の眩しさ。それまで焔が演出する暖かみやムラのある光のたゆたいが、明るさと暗さのあわいをぼかしていた。照明装置として焔は、蝋芯を切ったりと何かと煩わしさもあった。しかしその暈けた暖かみが家族の団欒には適していた。焔は人々の眼に取り立てて強い刺激を与えることもなかった。しかしガス灯はその強烈な光によって、夜の街を一気に太陽の許に曝した。ぎらつく尖った光は、当時の人々の眼を刺激した。当初文明の光は、とても室内では使用できない光度に映った。*1
 ガス灯が街路を照らすことによって生まれたのは、光への意識、とりわけ外から侵入する光だった。わたしが関心を惹かれたのは、ガス灯の光の侵入によって人々は私生活を意識するようになったという点だ。ここに外光を遮断するカーテンが必需品となる。こうして光は他者の眼、あるいは視線の他者性の位置を占めるようになったのかもしれない。*2
 ガス灯の登場が規定したのは公私の別だけではない。ガスはひとつの区域に対してひとつの供給施設から各家庭に配給された。つまり、地域はガスのインフラによって規定される。そのうえ、各家庭は光を自給するのではなく、公共サービスに依存するようになった。この時点から、現代の電気事情にまで通底する、私生活の公共インフラへの依存が始まったと言えるだろう。それはまさに物質的な次元における啓蒙だった。
 インフラの観点からいって、電気がガスと一線を画するのは、ガスが漏えいや爆発の危険と隣り合わせにあるのに対し、電気は比較的安全だという点に尽きる。もちろん、電灯の性能はガス灯の輝度と比べれば雲泥の差であり、適切な光の強さを求めてある程度のすったもんだはあったわけだが、それでも電気の光はちょうど焔を思い起こす安堵感と共にあった。
 さて、このような公共サービスと私生活の変容という日常の外でも、劇場の変化、パノラマ、ジオラマ、そして映画館の成立という見世物の世界における光のドラマが展開していた。パノラマ、ジオラマ、映画という流れには、視覚的対象と観客とのあいだの距離が不確かになる経験が共通している。それらの装置では、観者がうまく対象との距離を測れないがゆえに、それがすぐそこにあるように感じる。イルミネーションはリアルなイリュージョンの装置となる。そうしたイリュージョンの効果を生み出しているのは、対象を照らしている光ではなく、対象とのあいだにある距たりを操作するために構造化された闇のほうだ。
 舞台を明るくして、観客がいる場所を暗くするという演劇世界における趨勢は、照明の発達によってはっきりしていった。パノラマやジオラマを経て生まれた映画はその軌轍の終着点にある。つまり映画はスクリーンの光がうまく映えるための、真っ暗な空間をつくることに成功したメディアだった、ということだろう。著者は見えるものと見えないもののあいだを構成する光学的仕掛けを「隔たりを転換すること」と呼んでいる。主体と対象とのあいだの距たりは、精確な距離を観者に確保できないようにさせ、光の中に没頭させる。そのためには眼と対象とのあいだにある距たり、闇の操作が鍵を握る。
 「浸ること」の経験は、眼を駆使しながら触るような視触覚的な経験を常態化するのではなかろうか。 映画は、旧式の絵画や舞台に顕著な眼と手の分離を克服して、両者を共感覚的イリュージョンのもとに置くメディアなのではないだろうか、と想像した次第。
 ちなみにダゲレオタイプで有名なダゲールが、舞台の書き割り画家としてキャリアのスタートを切っていたというのは初耳。
 また尾註での傍証的記述ではあるが、電気の登場がすかさず電気椅子の発明を促した点も看過できない。ガスがナチス絶滅収容所で使われたように、電気の死生学も一考に値する。
 明るくなればなるほど、光にばかり眼は吸い寄せられ、人は没頭する。そのとき闇はどのように働いているか。闇はどのように構造化され、また巧妙に隠されているのだろう。光は闇を照らすためのものではなくなったことの意味について考えたい。闇を照らす光、そして光を逆照射する光の可能性について。

*1:知覚のひとつである視覚が揺らぐ時代に、「暖かみ」というような触覚的語彙が介在する点に注意が必要だろう。わたしはここに五感の安定した枠組みを揺るがす情動、あるいはinner touchの介入を見る。

*2:『原子の光』を意識している。http://d.hatena.ne.jp/pilate/20130827/1377582885