悲しみをつくること:『フランケンシュタイン』における吐き気のエコノミー

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 知らない人はいない(であろう)創作の雛型、ホラー界におけるイコン。
 本書は、コーヒーハウスの文化史等、数多くの良書をものしている訳者による新訳である。『フランケンシュタイン』の翻訳にはすでに数多くのヴァージョンがある。しかし、ある小説が古典の地位を獲得するには、複数の翻訳が必須不可欠だろう、とわたしは思う。≪怪物≫が親株となり、数世紀に渡って雨後の筍のごときヴァリエーションを呼び寄せてその地位を不動のものとしたように。
 形式的には『デカメロン』を嚆矢とする枠物語*1 と言えるだろうか。『フランケンシュタイン』の物語形式は三層構造から成る。まず物語の大枠となる第一の層には、北極へと船を進め、ヴィクターを発見し、彼を船内に招じ入れるロバート・ウォルトンの書簡がある。ウォルトンはヴィクターの告白の聞き手となる。第二の層を占めるのは、本書の主役であるヴィクター・フランケンシュタインの回想だ。ヴィクターは自らの来し方から怪物の創造、さらには自らの招いた悲劇を時系列に沿って語っていく。そして第三の層に位置するのが、怪物の告白である。怪物は復讐の念がいかにして醸成されたかをヴィクター自身に語る。
 ここまでは本書の解説を踏襲している。しかし忘れてはならないのは、これら三つの入れ子を包む透明な皮膜の存在だろう。ウォルターの書簡が北極海から姉ミセス・サヴィルの許へと届く限りにおいて、ヴィクターと怪物の物語は聞き手を獲得する。つまり、この小説の読者はウォルトンの書簡を読むサヴィル夫人と同じ位置に置かれていることになる。ここに小説全体を枠づけるサヴィル=読者の零度の層とでもいうべき余白がある。
 『クラリッサ・ハーロウ』や『トリストラム・シャンディ』を嚆矢とする、18世紀後半から19世紀にかけて勃興してきた小説という新しいメディアは、私書や日記といった秘密の暴露を読者への誘い水としていた。この場合読者は、他人の恋文や懺悔の日記を盗み見る共犯者として物語のなかに予め組み込まれている。読者の位置、ここではサヴィル夫人が占める零度の位置は、演劇の観衆でもなく、詩の朗読の聴衆でもない、ひとりで物語を楽しむ侍女や主婦といった小説勃興期の女性読者たちの残影だと言えるだろう。許されざる罪を聴解する告解師こそ小説の読者にふさわしい。*2
 本書の読者が聴解する罪、それは「自然に反する罪」(crime against nature)だ。
 

わたしは納骨堂から骨を集め、汚れた指で、人体のとてつもない秘密をかき回していました。建物の最上階にある部屋、いやむしろ独房とも言うべき場所に一人立てこもり、ほかの部屋から廊下や階段によって隔絶されて、わたしは汚れた創造をおこなっている。自分の作業を細部まで見つめるわたしの目は、眼窩から飛び出しそうです。解剖室や動物の死体の断片からは多くの材料を手に入れました。

ヴィクターは己の思い描いた美を創造するため、さまざまな美しい「部分」を集め、ひとつの全体をつくった。しかしその全体は怪物になる。大いなる美の理想、その「部分」だと彼が信じて疑わなかったものを綜合しても、エーテルのような理念への昇華には届かない。果たしてそれら部品は、物質的な「断片」でしかなかった。
 西洋世界において創造は、神話や聖書の領域に属する。聖書に依拠するなら、神の手によってまずアダムが造られ、彼の肋骨からイヴは造られる。聖書世界において、神だけが創造する存在であり、神を真似て創造する行為は人間にとって罪深いものとされている。*3 そのため、神の創造力、自然の産出力に挑戦するプロメテウスの子孫たちは、ことごとく罰を受けるさだめにある。殊にロマン派の「天才」は罪深さをその原動力とするのが常だ。常人を超える「天才」という能力を得ることは、神に近づくことと同義であるため、才気闊達な悦びの感情とそれが砕かれる時に湧きあがってくる罪の意識は、双極的な情動となって芸術家にとりつく。創造者が置かれた「独房」・「隔絶」。天才だけが経験できる特権的な罪のトポスに、ヴィクターと同じく「眼窩から飛び出しそうな」読者の眼は釘づけになるだろう。
 天才のみが感じる罪悪感。それは絶えず襲い来る吐き気に耐える超感性的経験に他ならない。

最初の実験中には、一種の興奮状態に陥って、恐ろしいことをしているという気持ちはありません。何とかして完成させることに夢中になって、恐ろしさが目に入らないのです。が、落ちついてみると、自分の手がつくりだすものに吐き気を覚えることがよくありました。

だが今、それが完成した途端、美しい夢は消えて、息も止まるほどの恐怖と嫌悪感とで胸がいっぱいになったのです。


 アダムが「完全」な形相を備えた人間であった一方で、イヴはそれより劣った形相を与えられた存在だったことを思い出そう。ヴィクターはアダムを作り出すことに失敗した。ヴィクターが生み出したのは形相なき質料のようなものだった。女性の表象につきまとってきた、かたちをもたない変幻自在の魔女のような、あの質料という病。「完成」はいつも質料の裏切りに遭う。だが愕然とする芸術家ヴィクターを襲う「裏切りもの」は、醜い生を授かった≪怪物≫だけではない。*4 「恐怖で吐き気を催すほどどきどきしながら」生きるヴィクターは、自身の内側から襲い来る吐き気とも戦わなければならない。その裡なる戦いこそ、ロマン派の描くドラマであると同時に、ロマン派芸術家による芸術生産のプロセスである。*5
 さらに言えば、≪怪物≫が醜いと評される一方で、その醜さの細部が序盤の数行を除いて一切描かれないことには注意を払うべきだろう。≪怪物≫の醜さは、視覚的に表象されない。*6 ≪怪物≫は認識=再確認(recoginition)の枠組みに縁取られた知覚のひとつ、視覚的経験に嵌入することはない。それは筆舌につくしがたい、誰にも把握されたことのない靄のような情動だ。≪怪物≫の情動、あるいは情動という≪怪物≫は、芸術家の天才と同じように、いつも把握の手を免れる。ロマン主義の芸術家にとって、芸術作品を生み出し損なうことによって生じる、把握しがたい「吐き気」こそが罪深い作品であり、天才の情動なのである。*7
 このように≪怪物≫はヴィクターの生み出した創造物であると同時に、創造主自身の産出力、そして五感を腑分けするパーティションを破断してしまう情動の力でもある。どんなラヴソングも具体的な恋人に向けられた愛の言葉としてだけではなくソングへのラヴの贈与としても読めるように、ロマン派の創造行為は、芸術とはなにか、という問いに分かちがたく繋がれている。再三確認しているように、この意味で、ロマンティックな創造は、産出力(天才)の発揮であると同時に、その産出力自体を表象しようという試みでもあった。だからこそ、神に逆らう悪魔のような芸術家は、≪怪物≫というおぞましい肉体をこしらえることを通じて、「吐き気」という作品、罪悪感に満ちた情動を生み出すのである。出口を違えたさかしまの陣痛とでもいおうか。そのため天国の対蹠地、地獄はロマン派の重要なトポスとなる。

しかし、仕事を始めた当初の自分を支えていたこうした思いは、今となってはわたしを塵芥の中に深く埋めようとするだけです。思惑も希望も灰燼に帰して、全能を望む天使のように、わたしは永遠の地獄に繋がれています。わたしの想像力は生き生きとした活力に溢れ、分析や応用の才にも恵まれていました。こうした能力が結びついて、アイデアが生まれ、悪魔のような怪物を創造したのです。

ここには、ルシフェルに自らを准えるヴィクターがいる。*8 ルシフェルは地獄の最下層に繋がれている。その地獄をつくったのはルシフェル当人だった。神に挑み、敗れ、天より落下したルシフェル自身の墜落が、地獄の深みをつくった。そう、地獄の底の果てしなさは、天国の高みの裏返しでもある。救いのない地獄をもっと深く、もっと冥く構想すること。それは天国をより比類のない光と高みとして表象する試みでもある。ロマン主義の芸術家は、決して天国に至ることはない。*9 ただ地獄の深さを構想/創造することによってのみ、天の至高性は証明されると信じて、自らが生み出した「吐き気」を反芻する。*10
 なお、ヴィクターのいう「悪魔のような怪物」を、凡庸な悪魔と解してはならない。キリスト教の伝統では、神が比類なき「一者」であるのに対して、悪魔は群れなすmultitudeとして聖書には表象されている。*11 しかし、ここでの「悪魔」は比類なき悪魔、堕天使ルシフェルという「一者」を指す。*12
 この「一者」であることにつきまとう情動を創造するのが、「地球上の汚れ」と自身をイメージせざるをえず、誕生以来「絶望で吐き気を催すような無力感」に苛まれ続けてきたあの≪怪物≫である。

「おれにも悲しみをつくれるのだ。敵も不死身ではない。こいつが死んだことで、やつも絶望するだろう。これからいくつも惨めな思いをさせて、あいつを苦しめ、破滅させてやるのだ」

≪怪物≫の本質は命を奪ったり破壊することにはない。≪怪物≫は悲しみを「つくる」*13 ≪怪物≫がヴィクターを「わたしが生み出した罪の原因」と呼ぶことに鑑みれば、両者のあいだには負のエコノミーが成立していることに気づくだろう。「吐き気」という怪物的なものをつくりだしたヴィクターは芸術家である。しかし「悲しみ」をつくる≪怪物≫もまた芸術家である。
 では「悲しみ」とは何だろう。≪怪物≫の告白に耳を傾けてみよう。

 どんな罪もどんな悪事もどんな悪意もどんな不幸も、おれのものとは比べものにならぬ。自分が犯した恐ろしい罪を思い返してみると、とても信じられないのだ。かつては崇高にして、現世を超越した思いで満たされ、美や壮麗なる善を夢見た自分。それと今のおれは同じものなのか。いや、そうなのだ。堕ちた天使は悪辣な悪魔になるのだからな。だがそんな神と人間の敵にも友はいて、寂しさを慰めてくれるだろう。しかし、おれは一人なのだ

≪怪物≫は多くの人々を殺める。ここに独創的なところはない。ひとつひとつはありふれた殺人だろう。しかしこの殺人ひとつひとつを線で結べば、ヴィクターの人間関係とぴたり符合する。かくしてヴィクターは孤独になる。死体の切りとり線にとり囲まれた、この人工的な孤独の「悲しみ」こそが自然の孤独を抱える≪怪物≫の独創である。醜い相貌ゆえに誰とも交わることのできない≪怪物≫の孤独によく似た「ひとり」の境涯を、≪怪物≫はヴィクターに与えた。この「悲しみ」は、≪怪物≫自身を苛む吐き気に与えた仮名である。*14
 それだけではない。≪怪物≫に生まれながらしてとり憑いた吐き気は、地獄の底に繋がれたルシフェルよりもさらに深い地獄を穿っているといえるだろう。ルシフェルにも「友はいて、寂しさを慰めてくれるだろう。しかし、おれは一人なのだ」。≪怪物≫はヴィクターに与える「悲しみ」を創造する過程において、自分自身がルシフェルをも凌駕する比類なき「一者」、孤独な存在であることを骨身にしみて知る。美を目指したヴィクターの醜い失敗作は、たんなる美醜の問題系を超え、ルシフェルの非道の深みに加えられたさらなる一擲として、自身の吐き気を競り上げる。
 深さを更新した地獄の底から漏れる嘆きは、≪怪物≫がつくられた生成の現場、あのヴィクターの「独房」へと差し戻されるだろう。この循環、吐き気を堪える反芻は、同じ径路を循環しない。経巡るたびに振幅を増す反芻は、その縄張りを押し広げていく。≪怪物≫は「悲しみ」を吐きだすことなく、再び呑みこむ。ロマン派の芸術家は、このような反芻を通じて地獄を深くえぐり、その分、天の高さをより高く見積もる。
 もちろんヴィクターに与えられた「悲しみ」は、あくまでも≪怪物≫の吐き気に似ている感情に過ぎない。「悲しみ」は、≪怪物≫によって造られたまがいものの孤独である。だからこそ「悲しみ」はいっそう≪怪物≫を孤独にする。
 振り返ってみれば、ヴィクターは≪怪物≫を一体しか作らなかった。これが≪怪物≫の孤独の由縁でもあるが、それ以上にヴィクターが≪怪物≫の求める「つがい」をつくることを拒否した点は傾注に値するだろう。孤独を癒す「つがい」を得られなかったからこそ、≪怪物≫は自分の孤独とそっくりの「悲しみ」をつくり、ヴィクターに与えたのだ。自身の「つがい」という対称性に向かっていた≪怪物≫の欲望は、「悲しみ」の類比にその宛先を譲る。『フランケンシュタイン』の根源には、創造主としてのヴィクターとその被造物である≪怪物≫という対称性ではなく、≪怪物≫の相称物を創造することを拒絶するヴィクターと、自らに由来する「悲しみ」によく似た情動をつくりだす≪怪物≫という非対称性が根を張っている。*15
 わたしにはこのヴィクターと≪怪物≫の非対称性が、ただ一回きりの凝固した瞬間を哀惜する場としてではなく、強度=内包を増していく求心的な運動として、この小説を突き動かしているように思われる。対称性が美の均整や死んだ対象を縁取る枠組みだとしたら、非対称性は折り合いのつかない甲論乙駁の運動性を持ち込む。前者が美や崇高を表象するための既成の解釈格子だとしたら、後者はその解釈格子を絶えず変形する原理だといえるだろう。*16 非対称的なふたりの芸術家の運動が、吐き気を反芻しながら地獄をより深く構想し、天国をより高いものとして逆算するロマン派の物語作法(narratology)を物語っているのではないだろうか。 *17
 
     *****

 ≪怪物≫の絶対的な孤独は、それがかたちのない情動である限り、零度の層にいる読者にも伝染しうるだろうか。物語構造を規定する三つの層を迂回する≪怪物≫の「悲しみ」に似た別の何かが読者にも与えられるかどうかは、サヴィル夫人の位置を占める読者の感受性(sensitivity)にかかっていることになるだろう。
 だがそれでもなお、芸術家の「天才」、その孤独な情動の淵源は共感受苦(compassion)できたとしても、実際に経験されることはないだろう。*18 読者が経験するのは、≪怪物≫の孤独ではなく、彼の孤独のわかちあえなさが波紋のように自分のほうへと押し寄せてくる、雰囲気の震えのようなものにすぎないだろう*19 ルシフェルを凌駕する深みをえぐる吐き気は≪怪物≫だけのものであり、「悲しみ」はヴィクターだけのものである。
 しかし裏を返せば、情動の普遍性は読者にも経験しうる。≪怪物≫は「悲しみ」を、そのわかちあえなさからつくった。であるなら≪怪物≫の孤独から締め出された読者は、情動というもののわかちあえなさ(孤独)を経験する。そして読者はおのおの独自の吐き気や悲しみをわかちあえないものとして生産し、裡に抱え込むことになるだろう。小説を読む営みは、≪怪物≫の絶対的孤独を車座になって取り囲む、たくさんの「独房のなかの独りの経験」として反芻されるものなのかもしれない。
 わかちあうことができないものは、かけがえのないものでもある。

夢のなかで親しい人たちと会話を交わし、それによって自分の悲嘆が慰められ、復讐の気持ちが高まるのは、自分が幻想を見ているからではなく、彼らが遥かかなたの世界から自分のもとを訪れたからなのだと。そう信じていればこそ、彼の妄想は彼にとって崇高なものになり、ぼくにとっては真実と同じように、興味を惹くものとなるのです。

*1:ジェイムス『ねじの回転』やコンラッド『闇の奥』のように、本筋となる物語を語る場が別に設けられ、そこで語り手(たち)が打ち明け話をする、という体裁をとる。

*2:中村靖子『「妻殺し」を夢見る夫たちによれば、「宗教改革を通じて内面の領域は格段に広められた」という。その内面は、プロテスタンティズムの内紛によって多層化される。ルター派から訣別した敬虔主義のなかで、「心の秘密を打ち明ける告白(告解)は文学的主題となった」。

*3:だからこそ、創造ではなく、模倣(mimesis)の論理が芸術において鍵概念となってきたのではないかと、わたしは思う。

*4:怪物(monster)は恩知らずや反逆者の含意がある言葉である。ボルディック『フランケンシュタインの影の下で』を参照。

*5:マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』はバイロンを筆頭とし、以後デカダン派にまで引き継がれていく自己破滅的なロマンティック・アゴニーの伝統を論じている。ロマン派といった場合、ドイツロマン派が本家だろう。死の欲動を中心的主題とし、ドイツロマン派にとり憑いた「ほんとうの生」を論じた中村靖子『「妻殺し」の夢を見る夫たち』に詳しい。

*6:この意味でギリシャ神話における美の化身、アドニスと≪怪物≫はよく似ている。アドニスの美が特定の描写に還元できないのと同じように、≪怪物≫の醜さは部分の問題ではない。美と醜は純度を増すほどに物質を離れて気化し、観念的なものとなるのだろう。加えてアドニスは若死にするのに対し、≪怪物≫は行方をくらます、という対比も興味深い。美は儚い。しかし醜は執着する。この時間性の差異も注目に値する。もっとも≪怪物≫は成熟し、言語を獲得する。『ヴェルテル』や『失楽園』を読む≪怪物≫のリテラシーは、彼を語られる側から語る側へと引き上げる。アドニスとは異なる≪怪物≫は主体性を備えた芸術家として自己成型を果たす。アドニスについては、メニングハウス『美の約束』を参照。

*7:吐き気の議論の経緯については、メニングハウス『吐き気:ある強烈な感覚の理論と歴史』に詳しい。

*8:直接的には悪魔はミルトン『失楽園』におけるサタンに該当する。『失楽園』は≪怪物≫が心を揺さぶられる作品のひとつでもある。その先行者ダンテ『神曲』地獄篇が、ルシフェル=サタンのイメージを決定的なものとした。なお『神曲』では地獄の底は煉獄へと通じているが、プロテスタントの教義では教会権力を肯定する煉獄は否定されている。恐ろしい地獄のイメージさえあれば、禁欲的なプロテスタントにとって十分だった。新大陸における説教師の説教の多くが、地獄について語っていたことを思えばいい。地獄行きの罪から逆算して、天国に行くための規律は生まれる。なおアメリカでは、詩人ロングフェロウが『神曲』の地獄篇のみを翻訳している。ダンテ学者マシュー・パールが書いた『ダンテ・クラブ』というミステリ小説は、その翻訳過程を再現している。

*9:エーコが監修した『美の歴史』と『醜の歴史』を比べてみればいい。天国は底が浅い。だから人間は地獄をどこまで掘るかの競争に明け暮れてきた。善行よりも悪行のほうが遥かに幅がある。教訓も法律もそれを想像だにしないやりかたで破る犯罪によってのみつくられる。

*10:アルチュール・ランボーが地獄の深さがなく、その厚みだけが残されていることを嘆き(『イリュミナシオン』)、ポオが井戸の深さを否定する(「モルグ街の殺人」)のは、ロマン派的な地獄創出の水脈が19世紀のうちに尽きたことを示しているのかもしれない。メルヴィル『白鯨』におけるモビー・ディックの深海における生態は描かれないが、その顔のない顔や時間の関節を外す力は水面に表象された深淵として考えることができるかもしれない。ジョイスが描く芸術家は創造ではなく、引用の経済に絡めとられている。『ユリシーズ』でスティーヴン・ディーダラスが住む塔は、ある意味、芸術家の廃墟のようなものかもしれない。『肖像』は未読。ちなみにギリシャ神話上のダイダロスイカロスに翼をつくり、ミノタウロスを幽閉する地下迷宮もつくった。モダニストの芸術は、平面において展開する。

*11:ヴァチカンが今でも公認エクソシトを置いているように、神への信仰は悪魔の実在の信仰によって支えられている。島村菜津『エクソシストとの対話』を参照。

*12:自然との類比によって人間を思考したカントのアナロジーを念頭に置いている。アナロジーが繋ぐ技法であるというのは、バーバラ・スタフォードの議論(『ヴィジュアル・アナロジー』)を俟つまでもない。似ているものがないという出来事の出来は、似ているもの同士で縫い合わされた秩序を揺るがす。アナロジーを破る孤独の情動は、新しい秩序、新しい言葉のアナロジーを要求する。

*13:たぶん原語はpathosだと思う。「情念」と解することもできるだろうが、文脈上、悲哀・哀感の意味合いが強い。

*14:浦沢直樹『MONSTER』には、同様にして「怪物」の深謀遠慮により、孤独に置かれる老いた素封家が登場する。

*15:≪怪物≫のつがいをつくると、≪怪物≫の再生産=生殖が実現する。ヴィクターの危惧はこの点にあったと思われるが、≪怪物≫は生殖という与えられた自然には頼らずに、新しい自然「悲しみ」を生産してしまう。

*16:対称性を用いるのは図鑑や死体解剖図など、観察者のまなざしの許にピン止めされたものを扱う場合である。対称的な構図は左右・上下などを繋ぐ蝶番となる線分に鑑賞者の焦点を落ちつかせる。対して非対称性は、ピカソの絵画のように、焦点の定位を許さない。どこが中心で、どこが始点で、どこが終点なのか、見る側にはわからない。したがって、視線は絵画のあらゆる場所をめぐることになる。

*17:ふたりの芸術家の運動は天国への格上げを折り込んでいない以上、弁証法ではないと思う。むしろ弁証法の地獄。適切な言葉を探している。運動するイメージ・情動のトランスクリプションの物語という観点では、ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』に示唆を受けている。

*18:たとえば、シモーヌ・ヴェイユはこう語っている。「不幸な人をまえにして、「同情」(compassion)を感じるためには、魂が二分していなければならない。不幸のあらゆる感染、あらゆる感染の危険から完璧に保護されている部分と、不幸な人と同一化するに至るまで染まってしまう部分とである。この二つの部分の間の緊張こそが「受難」(passion)、すなわち「ともに受難を蒙ること」である。不幸のあらゆる感染から保護されている永遠の一点を魂のなかに宿していない限り、不幸な人々に同情を抱くことはできない」(中村靖子『「妻殺し」の夢を見る夫たち』より孫引き)。

*19:言葉によって認知し、共有しえない情動は、それ自体経験するものの孤独を条件とするのかもしれない。