ドイツのロマン主義について頭の中を整理

十八世紀後半、啓蒙主義に対する反動としてゲーテ頭目とする「シュトルム‐ウント‐ドラング」が起こる。もともと啓蒙主義も一枚岩ではなく、感性を重視する傾向もあったのだけど、この感性はあくまでも理性の管轄下にあった。すると感性的表現は型にはまり、道徳的になる。シュトルム‐ウント‐ドラングは、感性の後ろ盾となるものを「自然」に求めた。自然は道徳的な範疇を凌駕する。そこに自由な感性の現れを読み取ろうとした。啓蒙主義もシュトルム‐ウント‐ドラングも個人主義を重視するが、感性の扱いが決定的に異なる。焦点となったのがEmpfindsamkei。Empfindsamkeiはスターン以前から存在していた言葉だったが、『センチメンタル・ジャーニー』(1768)の独訳に際し、レッシングがsentimentalの訳語として提案し、人口に膾炙、ゲーテ『ウェルテル』の感情主義・主観主義と重なり合って一気に広まる。十八世紀末ごろには、sensitibityとsentimentalityはイギリスにおいて侮蔑語へと変わっていくけれども、ドイツのEmpfindsamkeiは真の感性的現れをめぐって制御する理性と解き放つ自然との間で綱引きが行われるトポスとなった。いずれにしても人間主義ゲーテと初期ロマン主義者シュレーゲル兄弟やノヴァーリスらはイェーナにて交わるし、英語圏ではこれらひとまとめでロマン主義者だと目されていたが、ゲーテロマン主義を次第に批判し始める。この辺がまだはっきりしていないが、ひとつはロマン主義が批評の運動でもあった、という点だろうか。ゲーテは作品の批評を無用なものと軽蔑していたし、『ヴィルヘルム』でも『ハムレット』の解釈は行うけれども、それは作品の有機的全体のなかにおけるひとつの役柄をよりよく理解し、作者の意図に接近するためだった。つまり作品を理解し演じるための解釈。対してロマン主義は批評を導入する。両者の差は、古典主義との関係で整理できるかもしれない。ヴィンケルマンに端を発しヘーゲルで完成されるギリシャという芸術の理想。対してロマン主義は、ロマン主義による古典文学の読み直しを通じ、ロマン主義文学史のようなものを構想していたし、ヘーゲルによる芸術の終焉テーゼに抗い、芸術の可能性を、古典主義を乗り越え追求していく。ゲーテには文学史的・批評的関心はなかったのかな。あくまで主観的、内なる自然。色彩論等の自然学も彼の文学と齟齬をきたさない。古典主義者ゲーテロマン主義ナショナリズム的側面を攻撃しもしたが、彼自身が国民文学の中核に収まるというアイロニー。さて、こういった経緯がさっぱりとそぎ落とされて感情主義となって、そこにロマン主義的なものやモラル、共同体主義らとごたまぜになってアメリカ・ロマン主義は成立するのではないか、という予断。さらにはドイツとフランスとの関係(ハイネによる紹介など)、アメリカにおけるフーリエ主義。