「タイプ」を書く音、タイプライターの打鍵音

奇しくもイギリス映画『つぐない』(Atonement)を最近見たところだった。ようやく結ばれたばかりの男女が、嫉妬と性に対する嫌悪感がない交ぜになった少女の嘘によって永遠に引き裂かれてしまう。第二次大戦の勃発による男の従軍と女の看護師としての献身が両者の邂逅を期待させるが、"come back"という男の帰還を願う女の思いは、イギリスが戦況において決してcome backしない歴史的事実によってすでに諦念に染まっている。そしてここにすべての発端となった少女によるつぐないの思いcome backが重なる。だがこの永遠に失われた男女の関係を取り戻そうとするつぐないに、男に対する秘めた恋心がcome backしてはいないとは言い切れない。多分にフィクションの混じった自伝という形式は即断を許さない。
だが映画というメディアのおもしろさはそこにはない。イアン・マキューアンの原作小説の翻案である本作は、目において欺き、耳において真実を聞かせる。タイプライターの打鍵音が一貫して通奏低音として響き、常に真実の場所の在処を語る。登場人物の一見辻褄の合わない台詞はすべてある人物にとっては真実の言葉として機能している。
ついでに言うと、本作においてつぐないはなかなか始まらない。決してつぐなえないことを少女は知っているからだ。それでも最期につぐないは始まる。自分の寿命が尽きる寸前で、まるで自らの喪の作業を先取りするかのように、他者のためのつぐないは始まる。
sentimental。そう、センチメンタルな作品だった。アメリカのsentimentsの根源にあるものが涙であり、喪の作業であるという常套に従うなら(これはイギリスの映画だが)、喪の終わりのなさはいつもセンチメンタルな形式の焦点となるだろう。喪は常にメランコリーと共にある。センチメンツの形式は実はいつも危うい。安全な物語形式、安心して共感が成立し涙を流せるセンチメンタル・ナラティヴの軌道に、アフェクトのけものみちを重ねること。感情の節制が断念される地点を探すこと。共感が途絶える場所を探すこと。
つぐないはもっとも人間的な営みでありながら、人間の能力の限界をさらけ出す。剥き出しなのに、生身を欠いた質感。わたしにとって、タイプライターの打鍵音は退却戦を戦う人間の、底抜けの抵抗を感じさせるものだった。