- 作者: エリカフィッシャー=リヒテ,Erika Fischer‐Lichte,中島裕昭,平田栄一朗,寺尾格,三輪玲子,四ツ谷亮子
- 出版社/メーカー: 論創社
- 発売日: 2009/10/01
- メディア: 単行本
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「いま、ここで起こり、現在であるがゆえに、全体を把握することができない、そういう現在を、人目を惹くように作り出し、際立たせること」(マーティン・ゼール)
身体化された言語行為による規範の変容を目指すバトラーのパファーマティヴ理論、それから言語では言い表せない曖昧な雰囲気を分析するベーメの新現象学、両者の中庸をいく、意味と現象のパフォーマンス理論。
演劇研究界のエリカ様こと(?)、エリカ・フィッシャー=リヒテは、記号と雰囲気、政治的なものと美的なもの、演者と観客、舞台と客席、と通常分けて考えられている問題圏同士が混ざり合う、決して≪作品≫の忠実な繰り返しとはならない≪上演≫の創発的空間を俎上に載せる。上演(performance)という問題系は根源的に、スポーツイベントや国家行事はもちろん、なんらかの演出を伴うものであればなんであれ演出側の思惑を超えて創発的な空間が生まれる可能性を秘めていることを明るみに出す。本書は、演劇やハプニングアートに属するパフォーマンスという語彙から出発し、しかしそれを美学化の領域を超えたより包括的な社会的・政治的場面へと展開させる大胆な一冊だと思う。
本書の末尾に付された解説が「あらすじ」や背景について丁寧に説いていることだし、それ以上うまく説明する力量はわたしにはないので屋上屋を重ねる愚は犯さない。しかし敢えて解説にはない付言をするなら、本書の「美学」という言葉には若干の注意が必要だろう。
というのも「美学」はある対象を藝術作品として認定し、それを他の藝術作品、過去の藝術作品との比較検討から吟味する趣味判断の分野を意味するからだ*1。しかしながら、本書のアプローチは、文学テクストとしての作品に忠実に上演する演劇観を退ける。いわんや、パフォーマンス・アートには、そもそも台本すらあるのかないのか判然としないものも多く、そのようなものを藝術、もしくは現代アートとして認定できるのかどうかという問題もある。たとえ映像、写真、音声として記録されたとしても、記録されたパフォーマンスはそれが行われた時点での時空間を忠実に再現したものではありえない。なぜなら、演者のパフォーマンスの記録は、必ずしもパフォーマンスの総体とは言えないからだ。そこには観客がいる。そしてパフォーマンスはその観客・ロケーションの制約を受けつつ、意想外の方向へ展開する極めて創発的な要素を有している。パフォーマンスの外見的なあらましには収まらない、新しい時空間の≪経験≫がパフォーマーとその体験者たちによって束の間切り開かれる、そんな≪出来事≫を「美学」は「表象」(representation)として扱うことができない。出来事は、予め誰かの手によって表象された文学作品や映画とは異なり、文字によっても記録媒体によっても再現=表象できない。パフォーマンスは、演者の演出と観客の受容の相互交渉によって一回限り起こる出来事だからだ。
何度でも再生できるDVDや再読できる著書、あるいはある場所に行けば実物を拝観できる絵画や彫刻といった藝術作品を扱う美学が、一回限りの時空間を出来させる出来事を扱うことができるのか。これが本書の課題だろう。結論から言えば、本書は趣味判断を行わない。なにかのパフォーマンスが他より優れている、とか、本書の問題設定により適っている、というような、権威を笠に着る趣味判断をしない。むしろ本書はパフォーマンスという問題系が、美の基準の安定志向に揺さぶりをかけ、アイステーシス論、感性論へといざなう。そこは安定を旨とするというより、本書の言葉を借りれば多安定化(multi-stabilization)を志向する場だろう。複数の安定的な状態を行ったり来たりする、移り変わる気分のような。高尚な藝術を正しく崇めるのではなく、なにかもっと日常的な感覚の切り替え。
本書は、アカデミアや一握りの教養人によって占有された美学の世界ではなく、市井の人々が普段から感じている「空気」や雰囲気、距離感、表情、コミュニケーションといった日常的な経験へと開かれている。いくつもの安定的な気分、意味、関係のはざまでわたしたちは呼吸している。けれども生まれてから死ぬまで、ずっと同じ状態を維持することはできない。生には気分、意味、関係の変容(transform)が必ず起こる。その変容を起こすものが環境とわたしたちとが出会う出来事だ。しかし出来事を生き続けることはできない。いったん出来事を経過してしまえば、その変容を蒙った新しい安定的な状態を生きることになる。わたしたちの生は、そうした出来事と出来事のあいだで倹しく営まれている。
そういうわけで、とあるパフォーマンスの描写から始まる本書は、わたしの日常に亀裂を穿った。パフォーマンスの出来事はなにかを生産する。わたしたちが生きている日常は、とても生産的だ。そう考えるきっかけとなるのが、きっとパフォーマンスというものなのだろう。また別の安定的な生活がわたしを待っている。
*1:身近なもので言えば、男の美学、アスリートの美学などというとき、そこにはなにか普遍的に通用する美の基準が前提されているように感じるだろう。