『思想二月号:来たるべき生権力論のために』

 

思想 2013年 02月号 [雑誌]

思想 2013年 02月号 [雑誌]

 読了。まずブログでは紹介していない論稿についてのツイートを再録しておく。
 「来たるべき生権力論のために」鼎談(檜垣立哉×春日直樹×市野川容孝)読了。異なるディシプリン出身三者によるすり合わせはすりおろしの域に。ベンヤミンの「暴力」の解釈、内在/外在、構築主義批判、生権力という言葉の空虚さ。内輪の言葉に堕さない鼎談だからこその化学反応がある。最近読んだ対談モノでは抜群。
 宇野邦一「反<生政治学>的考察」はアガンベンの例外状態論が生命の主体性を考察の埒外においている点を批判(廣瀬の言う生体権力の観点に近い)、フーコーが遺した生権力の問いをニーチェの「権力への意志」へと引きつける。人間はもはや主体ではなく、「生の意志」こそが主体なのではないか、という提起。ちなみに本稿は著者の自著に対する自己批判として書かれたという。その誠実さに感服する。
 小泉義之「精神と心理の統治」は、身体の哲学者フーコーではなく、権力関係を「戦争状態」として語る(批判的)心理学者フーコーの足跡を追う。「心理学が技法の真理の神話」として流通する状況。そして「統治性」は自己による自己の統治であり、その自己統治が他者との関係を構成するという意味において、心理学の≪技法≫の変種である、ということだろうか。
 廣瀬浩司「真理の政治に向けて―ミシェル・フーコーの生体権力論」は、生権力が支配の道具なのではなくそれ自体生きる能動性をもっている生体権力である(つまり生きているものの生きる力でもある)、という明快な主張の許に展開される。装置や環境といった知・真理創造のマトリックスに対するフーコーの分析と並走しながら、フーコーが為したのは自由主義的な統治の問題化までだとする。宇野論文と協調するのだが、新自由主義的な統治を問題化するのはここでもニーチェの介入だ。宇野は生が人間を疎外する状況を問題化していたが、廣瀬もまた生に依拠することなく生の歴史について考える必要性を説く。ニーチェの認識、「現れと存在の二重の折り目」から出発し、真理の体制を追跡する「真理の政治という哲学」の提起をもって閉じる。「私たちの生など、私たちほど大事ではないし、私たちの情念ほど大事ではありません」というフーコーの言葉が出発点となるだろうか。
 デ・カストロ構造主義の生成変化」(訳:檜垣立哉・山崎吾朗)は、レヴィ=ストロース構造人類学ドゥルーズ=ガタリの哲学をある意味先取りしていた、という主張を展開する。構造主義ポスト構造主義というような教科書的分類がいかに役に立たないかを証明する仕事。レヴィ=ストロースは、日本での講演録で、そういえば「構造主義はひとつの方法に過ぎません」というような趣旨のことを言っていた。彼にとっては暫定的なものの見方を彼の思想全体に敷衍するのが理論化の暴力というものだろう。デ・カストロの議論にどこまで妥当性があるのか判断する力はわたしにはないけども、「交換」や「変換」が社会性の生産をするものだということ、つまり神のようなものを表象するものではないことをきちんと打ちだしている点はレヴィ=ストロースの誤解を糺す上で有効だと思う。
 岡田温司「「死政治」から「非政治」へ:イタリアにおける「生政治」の展開」まで。アガンベンの例外状態の常態化とは異なる、例外は予め生にプログラムされているとするエスポジトの免疫論を紹介、エスポジトのペルソナの思考、「非人称」とヴェイユを経由、政治的なものの内部に潜む差異としての「非政治的なもの」の可能性について説く。今読んでいるペルニオーラにしろ、ベルサーニにしろ「非人称」は社会的な人称=人格に依拠した暴力や権力といった生に内在した力を批判する恰好のキーワードになっている観がある。「非政治的なもの」はバディウのいう「前=政治的なもの」(バトラーも使っていた)とも関連するが、これらは「政治」とは分け隔たれた「政治的なもの」をさらに内側から差異化するものなのだろうか。あまり効果のあるタームではないように思うがどうだろう。政治の縁の下の力持ちのようなものとして(政治になるのではなく)政治と「関係を切り結ぶ」可能性のあるものを思考する方向性については納得する。個人的にはエスポジトの著作に惹かれる。邦訳があるようなので当たってみよう。 ちなみに本論稿におけるエスポジトの免疫、ならびに自己免疫の議論では、宮崎裕助「自己免疫的民主主義とはなにか」(『思想2012年8月号』所収)にメンションしている。
 檜垣立哉「人間と動物の閾」、エスポジト「生権力と生潜勢力」、ケック「今日の生政治学」まで。
 檜垣論文はアガンベンの「剥き出しの生」と、ハイデガーの「放心」/「深き退屈」に関する彼の論への経絡を見定め、動物と人間との排除と包摂の関係にアガンベン生政治の論点の集約を指摘。
 エスポジトの論稿(訳:多賀健太郎)は未邦訳の著作からの抜粋。ニーチェの読解から免疫機制を論じる。生のなかに組み込まれた小さな死、自己免疫、生への脅威こそが生存の条件として肯定される。 倫理でも人間学でもなく存在論。自己保存の論理の明晰な批判。「動物は人間の過去に劣らず人間の未来なのである」。おもしろい。是非、全訳をお願いしたい。
 ケックのものは講演録(訳:小倉拓也・吉上博子)。フーコーレヴィ=ストロースの生政治における交差を読むが、おもしろいのはパンデミックの方。ウィルスという人間と動物を媒介するものが同時にその境界を危うくさせるものでもあるのだと思いいたる。
 春日論文・箭内論文については→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20130206
 里見=久保論文・金森論文については→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20130207
 
 さて、残りの三稿について。
 ニコラス・ローズ「現れつつある生の形式?」(訳:山崎吾朗)は、法政大学出版局より近刊予定、檜垣立哉・監訳『生そのものの政治学』の第三章全訳。バイオテクノロジーが患者の治療を超えて、「生命の増強や改造」へとひた走っているという危惧について。患者の「自然な状態」に戻すという≪確かな過去への回帰≫ではなく、未病を発病させないためにより強い生命を作り出していくという≪不確実な未来の創造≫へと生のパラダイムは舵を取った、という解釈でいいだろうか。自然と文化の差異は不分明になり、病と健康の境も曖昧となった。問題なのは、医療技術の進歩が未来を予測可能なものとするのではなく、ますます不確実なものへとしていくという点だろう。疾病の種類は加速度的に増加し、あらゆるリスクが個人を脅かす。未来を予測するための技術が、ますます未来を不確かなものにしていくという新しい生の形式について論じられている。
 野中哲士「みずから動くものの生態学」は、物理法則と身体の随意性・不随意性のせめぎ合いのなかに生きる自己の表出について、実に精妙かつ瑞々しい文体で論じている。ユクスキュルや『現れる存在』等、「環境のなかに埋め込まれた意識」という認知科学の動向と共鳴する。
 三脇康生「ラ・ボルト病院の台所のtransversalite」は、欲望を組織上の虚焦点(対象a)へと吸い上げていくマクドナルドに、ラ・ボルド精神科病院の試みを対置する論稿。実現不可能なものも含めて自由に患者に語らせるためのたくさんのinstitution(制度というよりはプロセスに近いか)を病院内に配し、「あることをやらないことにすること」をプロセスとして組み込む。マクドナルドが「やらないこと」を不可視にし、すべきことだけを合理的に配置するのに対し、当該の病院では、患者の欲望がすべて言語化可能であり、その欲望が実現されない過程が可視化されている。ガタリの概念、抑圧的な垂直性/責任分担的な水平性といったふたつの軸をすり抜ける「迂回性」(transversalite)を通じて繋がっていく可能性が示されている。そしてこの「迂回性」を焦点化する分析は、「制度」を分析するメタレベルに立つのではなく、「制度を使った分析」と呼ばれている点にも注目したい。