『思想2月号:来るべき生権力論のために』

思想 2013年 02月号 [雑誌]

思想 2013年 02月号 [雑誌]

 『思想2月号:来るべき生権力論のために』春日論文と箭内論文について。長くなったのでこちらにて。
 春日直樹「生権力の外部:現代人類学をつうじて考える」。医療制度を通じて浸透する生権力のあらましを医療人類学の立場から剔抉、新自由主義が生物的な生と社会的な生とを混線させるその錯綜に、フーコーが排した「思考されないもの」を重ねる。
 生は権力の容喙する文化的係争地ではあるが、そもそも生は自然に属するものとしても思考されてきた経緯がある。デ・カストロは「多文化主義」ではなく「自然主義」を、すなわち文化の外部にあるであろう「思考することのできない」生の存在様式の差異が織りなす飛び地を想定するよう提唱する。デ・カストロの議論を踏まえた春日は、バートルビー(I would prefer not to)に倣い、「自社会からの切断」と「具体の現実として思考できない外部(すなわち多自然という存在様式)にのみ希望を託す」という≪来るべき≫人類学的立場を旗幟鮮明としている。
 『ピダハン』の洗礼を受けたわたしには、言語を媒介項として成立する文化なるものを無邪気に思考対象として措定できない。デ・カストロのいう存在論的な「自然」がその批判者たちのいうように「文化」を言い換えたものに過ぎなかったとしても(確かに存在論的な自然というとハイデガーのような旧套を想起する)、思考できるものとしての文化には思考できないもの、「多自然」の次元が含まれていることに変わりはない。たとえば、遺伝的欠陥があったとしても、そのスイッチが入るかどうかに関しては環境因子が大きく作用する。そして多数の遺伝子と多様な環境の複雑な絡み合いを想定するなら、その「多自然」は操作的に思考可能なものに還元し問題を局在化させない限り、具体的な現実として思考することはできない。権力がこの「多自然」まで脅かすのではないか(遺伝子組み換えやES細胞)、「多自然」は生権力の≪外部≫とまでいえるのだろうか、などさらなる問いを喚起する優れた論稿だと思う。
 箭内匡「第三種の政治に向かって:人類学的生権力論の一つの試み」は、ブランショフーコーに由来する根源的な「無関係性」の豊かさを人類学に敷衍する。まず理論的な整理をしたうえで、自由主義新自由主義を、それぞれ「交換する人間」と「自分自身の企業家」と整理する。そして後者、新自由主義の人間の一例としてのトレーダーの人類学的分析から導き出されるのは、「考えるな」という至高体験(独自の判断を試みるのではなく、市場の流れに身に委ねるトレーダーが成功する)が、自らを管理する「企業家」の求心力に加え、自らを投げ出す「投機家」としての遠心力を彼らに与えている、という生政治の焦点である。箭内はアガンベンの「剥き出しの生」にも同様に、「身に纏う生」(コッチア)の次元を付け加え、求心力と遠心力の緊張状態を問題化しようとする(アガンベンの『裸性』におけるnudity/nakednessの議論を豊かにするだろう)。もちろんこれはアガンベンの問題設定からするとミスリードのようにも映るが、翻って人間も動物も霊的存在もそれぞれの身体を身に纏うことで存在する、というデ・カストロの議論はいやがおうにも浮き彫りになる。
 身体、ひいては生は着替えることのできるもの、着脱可能なものなのではないか。このdisposabilityはスピヴァクの「学び捨て」のように知にも適用できる。すなわち「理性の働きを減速させる」、あるいはトレーダーのように理性を加速させ没我に至るという遠心力による《脱ぎ捨て》の思考(当然求心的な《重ね着》の思考もあるだろう)は、ブランショのいう第三種の関係「他なるものの接近不可能な現前」に対応するものとなる。他者を自分に同一化させたり、絶対的他者へ融合したりするのではなく、他性を失うことのない他者との関係、「二者の総和が一以上だが二以下の関係」を築く。これは他者との距離を生の着脱によって調節するような政治だと言えるだろうか。換言すれば、人間はその人間的な生の脱衣によって動物や霊的存在にも近づけるということでもある(単純化してしまうと猫を可愛がる時、猫なで声になることを思えばいいか。メイヤスーの哲学はこの辺に位置するのではないか。)。これこそ規定されない関係の次元、無関係の思考のラディカルさだろうか。
 もちろん《脱ぎ捨て》の多文化的実践が、操作不可能な根源的な無関係、春日論文でいうところの「多自然」に支えられていることを忘れてはならないだろう。自己保存と決別する《脱ぎ捨て》の思考は、多文化の政治的調整のみならず、より根源的な文化の「裸性」への(政治的なもの、あるいは非=政治への)不可能な接近であり、この意味においてこそエスポジトのニーチェ論における「動物は人間の未来である」という託宣(そしてペルニオーラのいう「感覚するモノとしての人間」、「非人称性」)はアクチュアルな響きを獲得するように、わたしには映る。