ディディ=ユベルマン 『時間の前で』

時間の前で―美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)

時間の前で―美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)

 美術史の問い直しを続ける異色の哲学者ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの時間論。ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』やフーコーの考古学、ベンヤミンアレゴリーフロイトの徴候、ドゥルーズの出来事等を理論的背景に、視覚的経験とその理論をイメージの観点から語りなおそうとする。本書の主題となるのは時間、イメージの時間である。以下、気になった点を雑然と列挙。
 
 『イメージ、それでもなお』における人類学的問い、類似性の問題が第一章で論じられている。

イメージの正当性は、公法と私法の境界上に位置する法的空間、つまり伝統的に「イメージへの権利」(ius imaginum)と名指される空間に由来する。まさにこのような権利の視点からみると、プリニウスが記述する視覚的対象は、アカデミックな空間という隔離された領野ではなく、私が先ほど示唆したように公共の社会的領野に属する。したがって、ヴァザーリやその後パノフスキーが美術史を「特殊」な歴史として試みたのとは違って、イメージの歴史は「特殊」ではありえないことになる。つまり、イメージの歴史は、美術史を「学問分野」の一つと見る人文主義的な理解をあらゆる点で超出する類似の人類学に属するのだ。(64-65)

アレント的な図式には収まらない、公私双方を貫くイメージの融通無碍が剔抉されている。仮想敵となっているのは人文主義、殊にパノフスキーで、DHは彼の仕事がイメージをアカデミーのなかに閉じ込める、イメージの「特殊」性に淫するものだとして痛罵を加えている*1。技術論や美学のみを抽出しようとする歴史は、その対象となる作品のアカデミアを超えた公共性をまるで顧慮していないというわけだ。DHにとってイメージは、そのような障壁とは無関係に存在する。イメージはあらゆる人間を人間として認識する上で欠かせない媒質であるという意味において、類似の人類学を構成する。イメージの人類学は、『イメージ、それでおなお』において倫理的批判の位置を占めることになる。
 とはいえ、イメージの「特殊」性を批判することは、操作を受けていない無垢な自然のイメージを擁護することへと短絡するわけではない。自然に似させるミメーシスだけがイメージをつくるわけではないからだ。「組み合わせによる接ぎ木」、「マニエリスム」(シュルレアリスムを加えてもいいだろう)とも表現される人為的なイメージの創出もまた、イメージの人類学に属する。自然との類似だけがイメージなのではなく、そのイメージから派生し増殖していくものもすべて新しい類似のイメージとして扱われる。DHはこれを型どりになぞらえている。
 

一方では、顔面から直接とられた鋳型は、表象の指示対象の不動たる唯一の現前を換喩的に保証する。他方では、鋳型から生成された像は、姻戚関係のすべての可能な組み合わせに対応する無限定の増殖の可能性を保証する。(76)

 
 次に、ベンヤミン歴史観について。
 

 歴史についていえば、ベンヤミンは、「原因」と「結果」――もしくは「継承」ないし「影響」――の果てしないまやかしの継起と縁を切ることを要請する。美術史は、通常の歴史主義的な教条に従って、自らの対象に「因果関係という形式のみ」を割り当て、結局、対象の時間性そのものを否定してしまった。しかし、芸術作品はまさに「固有の歴史性」をもつとベンヤミンは言う。この歴史性は、たとえば、ヴァザーリ風の因果的ないし家族的な物語の「外延的な(extensive)様態」に基づいては表現されない。この歴史性は自然史に還元されないのである。それは、「内包的な(intensive)様態」に基づいて多様な仕方で展開される。この様態は、作品の間で、「無時間的ではあるものの、歴史的な重要性をそなえた結合関係を湧出させる」……。そこから、芸術作品に固有なこの歴史性のモナド的――ライプニッツ的な意味での――側面が生じるのである。(82)

 (機械論的・目的論的)因果律フーコーなら(transformationによって批判される対象としての)changeと呼ぶような時間の継起性が批判されている。奇しくも昨日書いたドゥルーズによる強度(intension)の議論の影響がここに見られる。DHによる美術史の批判は、因果関係を軸に展開されていくexplicableなものに向けられている。それに対して、ベンヤミンによって召還されるのが、implication、裡へ巻き込まれた作品の可能性の次元だ。この内包の次元において強調されるのは、作品がもつ、ひいてはそのイメージがもつ存在論的(不)可能性だろう。その存在論的次元にある作品の≪強度≫は、継起的な歴史とは異なり、「無時間的」な、しかしそれ固有の歴史をもつ。ドゥルーズならこの時間の特性を過剰(excess)と呼ぶだろうか。そしてベンヤミンならこの時間の特性を(起源ではなく)根源的なもの(the radical)と呼ぶだろうか。絶対に回帰できない、絶対に還元できない作品固有の時間、それはおそらく「出来事」(event)とも呼ばれるだろう。外へと展開し、引き延ばし、関係づける歴史の力に出来事は抗う。この後論じられる「無意識的想起」や「時間の物質性」が指しているのは、こうしたイメージ固有の時間、襞の過剰・根源のことだろう。
 

しかし、イメージは別の意味で歴史を解体する。イメージは、時計を解体する(分解する)という意味で、すなわち機械仕掛けの部品を綿密に分解していくという意味で、歴史を解体する(分解する)。このとき、時計はもちろん動かなくなる。とはいえ、この静止――静止状態の弁証法――は知識を生み出す。この知識はほかの仕方では不可能である。時を刻むチクタクという絶えがたい音を消し去ろうとして時計の部品を分解することもあるが、その作動の仕方を理解し、さらには、欠陥のある時計を修理するために分解することもある。一方ではきりもみ状態の落下、他方では、識別、構造的脱構築。これがまさにdémonterという動詞が記述する二重の体制なのである。(114)

ベンヤミンの時間は、このようにして歴史の時計の裡に巣食う。DHによれば、démonterは解体だけではなく落馬(落下)を意味する。ここでの落下とはイメージの寄る辺なさであろうし、ある種「奥行き」の生成・重畳・折り畳みであるとも考えられる。時間の流れに楔を打ち込み、時計を静止状態に至らしめるこのようなイメージの仕業は、歴史を宙づりにする。
 静止状態に持ち込まれるのは歴史の時計なのであって、イメージ自体は運動する。イメージは「ぎくしゃくと」した動きでもって、イメージ固有の時間を生成する。démonterは映画におけるモンタージュ、ルモンタージュ、デモンタージュへと引き継がれ、イメージの解体・生成の運動が論じられていく。
 しかしひとつ留保がある。『イメージ、それでもなお』でDHは、ベンヤミンの静止状態の弁証法に寄り添いながらも、イメージそのものの運動性という点でベンヤミンから距離をとろうとしていた。しかし、『時間のなかで』でのDHは、「渦巻き」や「跳躍」といった根源におけるイメージの運動を、ベンヤミンの時間論のなかに予め認めている。このあたりの錯誤・混乱がDHの理論の一貫性を危うくしているような気がするのだが、どうだろう。しかし、本書中でも「時間の結晶」というベンヤミンの言葉を引いてきて、その静止状態を強調している箇所もあることだし、よくわからない。ともあれイメージ固有の時間は、ただの妄想や戯れなのではなく、それ自体歴史における「無意識の知」だ、ということは強調しておかねばなるまい。
 次に徴候。
 

経験とはしたがって徴候――より正確に言うなら、徴候的価値をもち、顛覆的なものとして可視的世界に立ち現れる形式そのものが観る者と思考一般に及ぼす影響――である。(190)

 徴候(symptom)は『イメージの前で』における鍵語だった。それは可視的なもの(the visible)と不可視のもの(the invisible)という美術史における区分を無効にするイメージの「視覚的なもの」(the visual)の次元を記述するための言葉だった。カール・アインシュタインに寄り添うDHの定義を換言するなら、可視/不可視とは別の論理で運動するイメージは、わたしたちがいる可視的世界において徴候として経験されうる、ということだ。

したがって[カール・アインシュタイン]にとってイメージの思考と近代性の思考は、相ともなって「危機を際立たせ」、その結果、視覚的経験の徴候的な最後の性質を強調することになる。視線の分裂と因果性の分離は時間それ自体の分裂なしには成立しえない、という性質のことだ。イメージは、その最も根源的な定義に従うなら、この分裂そのものの感性的交差点となるのである。それはつまり徴候であり、時間の危機のことである。(210)

まず断っておきたいのは、ここでいう「近代性」は(万博やオリンピックのような)歴史的進歩や新しさとは異なり、新しさにつきまとう既視感や幻滅をひきずっている後ろ暗い概念であるということ。近代性そのものが、ベンヤミンのいう「モデルネ」のように分裂している。次に「危機を際立たせ」というのは、cri-sisがもつ裂け目、cri-tiqueやcri-ticalが同様に持っている裂け目を最大化する、ということだ。したがって、徴候とは、こうした裂け目、分裂が表に現われたもののことだ。徴候は、なにかとなにかに裂く操作ではなく、予め裂けているものの現われである。
 また徴候は、思索によってもたらされるのではなく、感性によって経験される。予め用意された概念を使ってプロクルステスの寝台のように経験を枠づけるのではなく、枠組みから食み出るようなものとして経験される何かのことだ。このような徴候に特徴づけられたイメージの運動は、感性的に経験されるが、しかしそれは(歴史的)思考の枠組みを変えざるをえない、または時計の仕組みを変えざるをえない、そのような経験をもたらす。この意味において、DHの考える徴候=イメージは、理性理念によって主導されるドゥルーズの差異の思考とは趣きを異にするようにわたしには映る。感性的経験、いや感性によって受けとめるには余りある経験こそが(歴史的)思考に変革を促すのであれば、これは≪感覚されるべきもの≫という感覚できないものが理性によって否定的に告知される事態とは異なる。DHの徴候=イメージは、ある種、感覚が思考を揺るがし、さらには理性理念をも作りかえるような、感性からの「逆上がり」のように映る。そうした逆上がりこそ、歴史的時間を逆撫でにするイメージの本領だ、と大上段に構えるのはやり過ぎだろうか。

 あとはアウラ論における「主題=主体の物質」(subject matter)、「奥行き」、「アウラ的痕跡」の議論もおもしろいが、もう少し類書を読まないと何とも言えない。

*1:文学史も同様だが、歴史上の事件やサブカルチャーと一切交わらない純粋な歴史は、その動機においてきわめて不純なものを抱え込んでいる。たとえば文学研究の世界においては、カルチュラル・スタディーズや新歴史主義、ポストコロニアリズムといった思想潮流がDHの批判に相当するだろう。