『ポール・ド・マン:言語の不可能性、倫理の可能性』

ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性

ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性

 昨年は、盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語(未読)と、続けざまにド・マンの主著の邦訳相成って、既に上梓されている美学イデオロギー理論への抵抗ロマン主義のレトリック (叢書・ウニベルシタス)(未読)と合わせると、日本に紹介された一己の思想家として、ド・マンも侃々諤々語るに足るだけのコーパスを備えたことになる。今年はド・マンの没後30年を画する年に相応しく、バーバラ・ジョンソンやショシャナ・フェルマンなど、彼の影響を大きく蒙った文学・文化批評家とも併せ、構造主義をほとんど摂取しないまま脱構築へとひた走ったアメリカ批評理論再考の捗る年になりそうだ。
 わたしはまだド・マンのすべての著書を読破したわけではないが、極私的な見解が許されるとすれば、ド・マン入門としては『理論への抵抗』所収のインタヴューが最適で、あとは同書の序文、『美学イデオロギー』の序文、それからポール・ド・マンの思想(未読)あたりを消化すれば一応の態勢は整うと思われる。
 そこへきて、『読むことのアレゴリー』と同時に訳者自身が本邦初のド・マン入門書を上梓した。いくつかのコンパクトな批評理論入門書を手掛けている著者のことながら、200頁足らずのコンパクトさにまず驚く。しかし、難解・晦渋で鳴るド・マンの思想の全貌をこのサイズに収めるとなれば幹の手入れに一杯で、豊かな枝ぶりや瑞々しい葉脈にまで注意は及ばないのでは、という危惧は無用だった。基本的なド・マン用語を押さえつつ、争点となっている部分に著者独自の解釈を交え、説明的でありつつ、それでも問いを誘う入門書となっている。
 構成は、≪譬喩的なもの/字義的なもの≫、≪レファランス≫、≪アレゴリー≫、≪出来事≫、≪物質性≫、≪読むこと≫、と続く。ここでは、入門書を解説する、などという屋上屋を重ねる愚は犯さず、本書が問いを誘う理由をふたつ綴っておこう。
 まずはアレゴリーと時間について。
 

 ド・マンが終始関心を向け続けた「アレゴリー」という問題は徹底して言語の修辞的な性質に関わるものであり、そこにはデリダが「差延」という造語によって前景化しようとした言語の時間的な側面に対する問題意識はむしろ希薄であるように思われる。デリダの「差延」が痕跡や繰り延べといった、すぐれて時間的な問題に彩られているのとは対照的に、ド・マンの「アレゴリー」はほとんど禁欲的なまでに修辞性という問題圏に踏みとどまっている。むろん、ド・マンにも時間的な問題意識がまったくないわけではない。右の一節に見られる「代補」や「積み重ね」といったデリダ的な表現は、一つの「読み」とそのあとに出来する脱構築的な「読み」の時間的な関係を明確に指し示していると言えるからである。しかし、ド・マンが前景化するのは、「痕跡」、「ずれ」、「繰り延べ」といった時間的な要素よりも、むしろ言葉=テクストに巣食う宿痾のような「アポリア」ないしは「ダブル・バインド」だと言ってよい。(77-78)

 逡巡と周到さが同居した解釈に映る。著者はド・マンをデリダに照らして、ド・マンの方がより言語に内在する不可能性に寄り添っていることを詳らかにしようとする。つまり、著者は「アレゴリー」を、全体化不可能であるがゆえに齟齬をきたす言語の断片としての性質に限定しようとしている。しかし、ここから窺えるのはむしろ、アレゴリーにつきまとう拭いがたい時間の痕跡ではないだろうか。
 現に次章では、「出来事」が論じられ、その歴史批判的性向、そのアナクロニズムが俎上に載る。歴史のように整序された時系列とはまったく無関係な出来事を読みの次元に導入するド・マンは、むしろ時間意識に聡い批評家だ、とわたしは思う。『盲目と洞察』を貫く時間への問いを思えば、わたしにはそうとしか思えない。『理論への抵抗』その他に頻出するベンヤミンとド・マンとの近さ、そしてアレゴリーがすぐれてベンヤミンに由来する概念であり、ベンヤミンアレゴリーに歴史哲学の意匠の大部を託している点に鑑みるなら、アレゴリーは言語の修辞的な連続性・完全性の効果を断つ「出来事」の性質を帯びていることになる。概念としてのアレゴリーと出来事とは切っても切れない関係にあるのではないだろうか。というのが、現時点でのわたしの見立てであるが、『読むことのアレゴリー』はこの見立てを裏切ってくれるだろうか。
 そして、ド・マン最大の謎とされる「物質性」について。
 「物質性」は『盲目と洞察』のデリダ論を除けば、主として『美学イデオロギー』に登場する鍵概念だ。物質性は、現実の物質とは無関係の、言語に内在する特性であり、言語の譬喩としての機能(究極的には「美学イデオロギー」)を突き崩すような言語の零度を示している。その言語に由来する物質的性質によって、人間はイデオロギーの外部に立つこともできない代わりに、イデオロギーの完全性も阻まれる。
 ただ、「物質性」というその響きは、認識対象の(認識できない)モノ自体の次元を連想させるのも事実だ。ド・マンの物質性は対象をもたない理念的なものであるにもかかわらず、どうしても対象指示性がつきまとう。つまり、言語の根源として現実に存在するモノを想定してしまう。もちろん、ソシュール言語学を経由した言語観の持ち主であるド・マンは、現実と言語とがまったく無関係であることに自覚的だったことを忘れてはならない(ラングは現実から独立したシステム。ソシュール超入門 (講談社選書メチエ)は良書)。いや、だからこそ、≪言語の物質性≫という言葉には戸惑いを覚える。
 著者はマックィランやヒリス・ミラーの解釈に寄り添い、物質性に大胆な解釈を加えている。
 

 デリダらの主張に見られるように、「文字の物質性」が感性や知性に先立つ抵抗的な力のようなものを指し示すとしても、それはやはり文字にそなわる物理的・即物的な側面を全面的に排除するものではない。というのも、ド・マンが「いくつかの意味のない文字」あるいは「ひとつひとつの文字」という言い方で「文字の物質性」を説明するとき、各々の文字は依然として視覚や聴覚として感知・分節可能なものとして捉えられているからである。(125)

 物質性はここで、現実の物質、つまり対象として捉えることのできる物質と類比的に結び付けられている。デリダが言う「物質なき物質性」のような純粋に理念的なものではなく、ド・マンの物質性は感性や知性を介して(把握はできずとも)触れることができるものだというわけだ。
 ド・マンの物質性を著者の解釈に従って喩えるならば、漢字の書き取りを繰り返していたときに突如として訪れる違和感、「こんな字だったっけ?」というような、ある種ゲシュタルト崩壊の瞬間を指していると言えるだろうか。
 文字は根本において意味を担ってはいない。なぜなら文字は世界とは無関係に存在する、ただ世界を志向する機能だけを担っているからだ。しかし、文字を即物的に扱えば扱うほど、文字から志向性が剥ぎとられる。機械的に書きとられる文字、機械的に繰り返される単語から文字の物質性は顔を覗かせる。こうした経験は誰にでもあるだろう。
 しかしながら傾注に値するのは、そのような≪物質性≫が、感性によって経験され、知性の対象となりうるものであったとしても、決して把握できない、理解できないものだということだろう。「こんな字だったっけ?」という経験が、文字のかたちを見失うという点に限定されるなら、それはただの個人的で心理的な、感性的・知性的に把握される範囲の、単なるゲシュタルト崩壊だろう。しかし、その経験には、文字に適切な形などあるのだろうか、ひいては、文字などただの信仰の産物ではないだろうか、というような、より普遍的な疑念へ至る契機が含まれている。「こんな字だったっけ?」が文字の存在理由にかかわるのは、音や意味、現実との対応関係を剥がれた文字になんの存在価値も認められないことによる。感性・知性はこの経験を把握できない。ただ言語の危うさに触れているだけだ。言うなれば、そのとき文字は対象として把握されている(壊れたゲシュタルト)と同時に、対象化できない曖昧な雰囲気のようなものとして「わたし」を取り巻き、「わたし」を≪言語特有の裂け目≫に棄て置く。ゲシュタルトと裂け目として二重化された経験こそ、ド・マンのいう≪物質性≫の経験(不可能性)だろうか。
 ただ忘れてはならないのは、文字はその他の世界にあるモノとは異なる次元にあるラングに属している、ということだ。そのためこの≪物質性≫は、感覚される現象と理性理念の推理によって顕れるモノ自体、というカント由来の区分にはなじまない。著者の解釈は、現象性と物質性という、言語の自律性を無視した二分法に依っているため、一般的な経験と言語的な経験との見分けがつかなくなってしまっているように、わたしには映る。言いかえれば、現象性/物質性を、現象/モノ自体と取り替えたとしても、なんら不都合が生じない説明になっている。
 

文字――さらに言えば言語――とは、われわれのまわりに転がっている石ころや木片のように、本来はいかなる意味(作用)とも無縁の代物、すなわち単なる「物質」であって、そこに最初から固有の意味が内在しているわけではない。意味は、事後的に、しかも恣意的に、物質である文字に書き入れられるのである。(136)

自然界に存在する物質と言語の物質性を類比的な関係に置いて説明すると、両者の差異を見逃してしまう。ド・マンが暫定的に≪物質性≫と名づけたものは、言語に特有のものでありながら、彼自身自然界との類比によってしか言葉にできなかった、言語によっては名づけえないものではなかったか。
 わたしは、言語内の現象性と物質性のアポリアに加え、言語と自然とのあいだの根源的な断絶、つまりラングやレファランスの問題も考慮に入れないと、ド・マンの≪物質性≫の可能性を汲むことはできないのではないかと思う。
 もちろん、以上のような時間と物質性に関する疑義二点は、わたしが本書に触発された上で生まれた問いであり、本書の価値を何ら貶めるものではない。ド・マンの様々な概念が著者の言う≪倫理≫の場において相互に深く浸透しあっていることは、本書を通読すれば容易に了解できる。説明的な言辞を拒むド・マン思想の物質的な次元に長きに渡り寄り添ってきた著者(本書の構想は四半世紀前!に遡るという)だからこそ書くことのできたぎりぎりの説明的な解説であり、またそのぎりぎりさが新しい問いを誘うのではないだろうか。
 デリダやカントについての著書、また入門書を多く手掛けているロドルフ・ガシェ(邦訳はいまだない世界を求めて (叢書・エクリチュールの冒険)のみ)によるド・マン本はぜひ読んでみたい。
 

The Wild Card of Reading: On Paul de Man

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