第1章「"Setzung"と"übersetzen"」についての私見

The Wild Card of Reading: On Paul de Man

The Wild Card of Reading: On Paul de Man

 以下は要約ではないし、説明的とも言いかねる、思考の整理整頓のような文章なのでご注意を。
 序章では、デリダとド・マンの差異についての言及が目を惹く。書くことに脱構築の力学を割り当てる一方、読むことはプラトン的な意味での真理の織り上げとするデリダ。ド・マンは読むことの不可能性にこそ脱構築の可能性を読んでいる。つまり、デリダの読みは理解の限界(理解できる範囲)を画定する試みだが、ド・マンの読みは理解そのものが不可能という立場だという。第1章はまさにこの読みをめぐるド・マンの特異性が浮き彫りになる章であると予告しておこう。 
 まずガシェはオースティンの言語行為論(speech act theory)について概観する。後にデリダ‐サール論争というかたちで一躍脚光を浴びることになる事実確認的(constative)/行為遂行的(performative)という発話に伴う区分を設けたのがオースティンの言語行為論だ。*1
 オースティンの言語論がもたらした革命は、言語に行為の概念をもたらした点に尽きる。事実確認的発話は、それが前提としているコンテクストに即して現象を記述する発話を指す。すなわち言語外にある現実やモノを指示する。たとえば、「あの木の枝ぶりは素晴らしい」でもよいし、"This is a pen"というようなあからさまに指示的な発話を想定してもよいだろう。行為遂行的発話は、それがなにかを指示するというより、それ自体がある状況を作り出す行為と関係するような発話を指す。オースティンによれば、行為を伴う行為遂行的発話は、1)発語行為(the locutionary)、2)発語内行為(the illocutionary)、3)発語媒介行為(the perlocutionary)、の3つに分類できる。1)はもっとも根本的な行為であり、発話それ自体を指す。おおまかにいってmeaningとreference、すなわち意味作用と指示作用がこれに該当する。2)はdoing in saying、発語のなかに行為が含まれるものを指す。もっとも有名な例は約束だろう。「ここに永遠の愛を誓うことを約束します」という発話は、結婚が成立したという事実を参照しているのではなく、その発話自体に結婚成立の含意がある。3)はdoing by saying、発語の結果として行為が就き従うものを指す。「お前を殺す」という言明には殺すという行為は含まれていないが、その発言の結果として相手を脅すという行為が成立する。
 以上のようにオースティンは記述的な事実確認的発話と行為と関係する行為遂行的発話とを分けて分類したが、1)発語行為に即して考える限り、すべての発話は行為と関係していることになる。事実確認的/行為遂行的の不分明さはさておき、ひとまずここでは言語には行為が伴うことをオースティンは呈示したこと、そしてガシェによれば、オースティンは2)発話内行為を言語行為に関する一般理論として特権視していた点を確認しておけばよいだろう。
 オースティンが発話内行為に「天然の裂開」(a natural break)を見てとっていたことは傾注に値する。すなわち、発話内行為はそれ自体本質的には言語的な行為であり身体を伴う必要がない、ということだ。従って、発話内行為を中心とした「行為」を考察する上で、オースティンはその「本質的に内側へと巻き込む行為、言語がそれ自身へと折り返されるような行為」に当面していた。ガシェはこう評価する。「オースティンの革命を革命たらしめているのは、自己内省と自己参照といった言語の特性を考察から排斥していた分析的な言説にそうした観念を再導入したことだ。」かくして言語の自己言及性に特化した行為の概念を、オースティンは「完全言語行為」(the total speech act)と呼んだのだった。
 しかし「完全言語行為」が成立するためには、多くの要素を控除・括弧入れして作られた理想的な発話状況が必要となる。あらゆる理論がそうであるように、言語行為論は一種の「ラボ」に他ならない。オースティンの「ラボ」は、一人称、そしてまた文学言語のような特殊言語を除外した日常言語を対象として成立している。ガシェの整頓に従うなら、文学批評家はオースティンの「ラボ」を忘却して言語行為論を、殊に行為の概念に含まれる自己言及性をテクスト読解に応用しているということになる。
 では、果たしてオースティンの語彙に多くを負うド・マンの読解は、どのようにオースティンを誤読しているのか。その誤読はどこへ向かうのか。本章の課題は、ド・マンの読みが孕む「行為」のラディカルさ、その特異性をオースティンの言語行為論との比較検討によって明るみに出すことにある。
 ガシェはド・マンの『読むことのアレゴリー』を中心とした彼独自の読みの実践を辿っていく。ド・マンは、譬喩的(fugural)/字義的(literal)のあいだの違いのような、決定不可能なギャップを「レトリカルなもの」(the rhetorical)と呼ぶ。そしてその「レトリカル」なギャップを隠蔽しようとするような修辞が「隠喩の譬喩」(the figure of metaphor)である。ド・マンの脱構築は、隠喩がテクストの外部の現実を指示するレファランス(reference)効果の誤謬を明らかにすることを通じ、修辞作用のベクトルを言語そのものへの自己言及へと折り返す。もっともド・マンの読みは、それが言語の自己言及性という読みの根源を問題化するため、コンマの連続による拍動のような終わりなきプロセスとならざるをえない。なぜなら読みをやめた時点で、その時点の脱構築が隠喩と同様、テクストの「再全体化」の役割を担ってしまうからだ。かくしてド・マンの読みは脱構築それ自体のアレゴリカルな語り」という、読むことの自己言及性を体現したものとなる。
 「アレゴリカル」(allegorical)とは何か。ド・マンのいうアレゴリーは、類似や類比による代替を経由して意味を生みだすわけではない。端的にいえば、それは「隠喩的なプロセス」ではない。というのも「あるアレゴリーの細部はそのアレゴリーが意味しようとしているものとは似ても似つかない。」からだ。隠喩がレトリカルなギャップを覆い隠し即自的=無媒介的に全体性を達成してしまうものなら、対するアレゴリーは決して辿りつけない終着点に向かって全体性をずらし続ける細部の運動を含意している。「アレゴリーとは隠喩の譬喩に特有の全体性を永久に突き崩すもの」のことだ。だからこそド・マンはアレゴリー“ironic allegory”とも呼ぶ。*2
 

アレゴリーはアイロニックな譬喩、閉じることのない譬喩、全体性になりうるものが時間的にずれる、ということなので、それはあるテクスト特有の運動や構造と要約(とはいえ要約することなく)できそうだ。トポロジカルな脱構築は、脱構築が譬喩へとぶり返すことによって止め処ない過程となるため、ひとつの物語となる。アレゴリーの物語は脱構築の物語の全体化が不可能であることを物語る。脱構築は理解することの不可能性を消極的に洞察するプロセスであるため、そのアレゴリーは、それが全体化の作用であるなら、こうした転覆した作用の物語となる。アレゴリーの語りは、最終的にあらゆる認識論的把握をすり抜けるのである。」

 ド・マンの読みはそれ自体が脱構築アレゴリーとならざるを得ない。波打ち際で砂山を作り続ける営為、それとも崩れ落ちる傍から岩を積み続けるシシフォス。かくしてド・マンにとって読むことは、レトリカルなギャップに躓き、理解できないことを理解する試みを通じて学び続ける。頼りになる客観的な現実も参照するに値するコンテクストもない。読みは常に理解できない言語そのものへと跳ね返ってくる。言語がその外部を持ちえないために発生する自己言及を、ド・マンは「行為遂行的」と呼んでいる。
 オースティンの完全言語行為が身体を伴わない行為、言語それ自体を指示する自己言及性を核にしていたことを思い出そう。ド・マンの読みの実践は、オースティン・ラボの一人称と日常言語という限定を取り払うだけでなく、発話と行為の関係の問いからも食み出している。アレゴリカルな読みは、言語がその外部に参照すべき現実を持ちえず、絶えず言語それ自身に送り返される、という言語の本性へと向かっているからだ。ド・マンによるオースティン理論の誤読は、記号と現実の関係の根源的無関係を指摘する言語論的転回によって一世を風靡したソシュールの言語観を背景に、より根源的な行為の概念、すなわち行為は決して成功せず、常に撹乱的なものであり続ける、という極北へと達する。ド・マンのアレゴリカルな読みは、かくしてオースティン理論をそれ自体へと差し戻し、その行為の概念をより徹底化したものだということができるだろうか。
 もっともこうしたガシェの論理展開の明快さが、ド・マン自身の議論を読みやすくしているわけではないことに留意する必要がある。ド・マンの読みは、読む方法や鮮やかな解釈を彼流の複雑なかたちで示しているわけではない。ド・マンのテクストは、テクストの意味論や解釈の方法論とは関係がない。ド・マンのテクストが難解なのは、それ自体が読む行為を通じて意味や解釈を退け、読むことの不可能性を読むことを通じて実践しているからに他ならない。ガシェの立論が明快なのは、ド・マンのテクストが体現している搦め手を解きほぐし、その混線を整理する決定的な正解を与えているからではない。むしろド・マンのテクストはガシェであっても理解しえない。ガシェはド・マンのテクストがわからない理由を、読みの行為が読みの不可能性へと折り返されるその行為遂行的な刹那に求めているのだ。
 このようにまとめてしまうと、すかさずスキップを繰り返し先回りしてガシェとド・マンを「否定神学ごっこ」へと同定する向きもあるかもしれない。読みの不可能性を担保に読むなら、読みの自由とテクストの豊穣さはいや増す、というひねくれた経路を迂回してテクスト原理主義的な信仰へと逢着する。それもひとつの決着のつけ方だろう。ただそうしたいかにも通俗的ポストモダン的解釈に留まっていていいのだろうか。ド・マンが為し得たのは果たしてその程度のことであり、ガシェの著作は今や乾涸び、片手の掌に圧搾され砂礫へと解されてしまう程度の慈雨しか残していないのであろうか。
 早計、あるいは拙速。ガシェがド・マンを手の込んだ通俗的ポストモダニストの葬列に加えることはない。整理しよう。ド・マンの問いが向かうのは言語のレトリカルな次元におけるギャップだった。そのギャップはテクストの言語がその外部の現実的対象へと象嵌されることを許さず、言語は自己言及的に言語それ自体の理解不可能性を呈示する。ゆえに読むという「行為」(act)は失敗を余儀なくされる。しかしその問いは「レトリカルなもの」に収斂する読むことの不可能性へと短絡はしない。ド・マンは言う。「言語がひとつの行為であるという主張を、最後通牒と看做すわけにはいかない。」 言語の「行為」をうんぬんするのであれば、その背後には言語の主体がいることを銘記すべきだろう。言語は行為である。しかしそれはいったい「誰」の行為か? ド・マンの読みが行為遂行的に立法するこの「誰?」という問いが、ド・マンの読みを通俗的ポストモダニズムの論者から画しているのではないだろうか。
 ガシェ=ド・マンは「より根本的に行為の観念を攻撃」したニーチェを招聘している。言語の意味を理解する上で概念化・全体化の操作を加える「行為」という観念をニーチェは撃つわけだが、ド・マンもまたオースティンの言語行為論が前提とする「行為」が、そのような操作に類するものであるとしてこれを断じる。ド・マンのレトリカルな読みは、その「幻視効果」を可能にする条件に向かう。その条件とは「自己」(self)である。
 オースティンの言語行為論は、発話が日常言語であり、またそれが一人称の話者によって為されたものである、という前提を掲げていた。この前提に即する限りにおいて、言語が言語内部へと折り返す完全言語行為が仮構できる。
 ド・マンの読みは、この完全言語行為の始点を明るみに出す。つまりオースティンの理論においては、無邪気に発話を行う主体の主体性が前提されている。ド・マンの行為遂行性、ひいては自己言及性が批判するのはこの発話の主体という言語の効果だ。発話の主体が主体的に振る舞うことができるのは、その発話の主人である場合だろう。ド・マンは、発話の行為それ自体が発話の主体を生産する「幻視効果」を言語の修辞作用に含めて議論の俎上に載せている。言語の主体を言語の使用を通じて出来させる。「わたし」は言語によって作られる主体である。ド・マンの行為遂行性は、オースティンの理論の根源、主体化の現象を生む言語行為の自己言及性を的確に言いあてている。
 ド・マンによる行為批判は、「わたし」のもうひとつの側面、すなわち主体によって対象化された「わたし」、「自己」の現象にも及ぶだろう。「自己」は、発話の主体にとって言語と現実とを区別する起点となるだろうからだ。しかしながら言語がその本質において自己言及的なのは、言語的主体と同時に言語的「自己」が現象するからに他ならない。「わたし」は言語のなかでのみ存在し、その上分裂している。行為とは本質的に主体と自己とのあいだの往還だからこそ、自己言及的にならざるを得ないのだ。一見、読みの不可能性によって読みの融通無碍を喧伝するだけのようにも見えるド・マンの読みが迫るのは、話者が操る言語の無意識、「主体」と「自己」の審級の存在である。
 ド・マンの読みは言語の外へ向かい具体と結びつこうとするレファランスの幻視効果を徹底的に「自己」へと差し戻す。言語は、言語の外にある現実とは無関係だからだ。ちょうど絵に描いた餅が食べられないように、「わたし」という言葉はそれを発する身体をもった人間とは無関係だ。かくて「自己」はレファランスの起点としての機能を停止し、「自己」という言語は剥き出しになり、それ自体がテクストのギャップとして曝される。ド・マンの読みの実践は、自己言及の絶えざる繰り返しによって言語の裂け目を、主体の全能性や「自己」の無根拠を露わにする詩学を志向している。
 さらにド・マンの読みは、読者の「自己」へも差し戻されていないだろうか。*3読みの不可能性はド・マンだけが背負うものではなく、すべての読者を巻き込むものなのだから。読むという行為は自分を読むということだ、というロマンティックな箴言は、文字通りの意味を獲得するようにわたしには思われる。読むという行為は読者が無邪気に前提している「自己」を突き崩す。「自己」は言語と現実とのあいだに口を開けたギャップのなかに消えていく定めにある。読むという行為は躓かざるを得ない。しかしながら同時に、「自己」という言語の上でしか存在しない「わたし」は、読む行為を通じてのみ現れるとも言えるだろう。
 あるテクストを読むことを通じて初めて、そのテクストのなかに「自己」は生成し、場所を得る。"Setzung"と"übersetzen"、すなわち自己措定(self-positing)と翻訳(translation)の繰り返し。*4読むことは読む主体の全能性に依拠したテクストの創造ではなく、ましてや読むことの放棄へと至るテクストの破壊でもなく、自ら自己言及的に読まれるテクストとしての「自己」の生成なのだ。ただし「形式と内容の双方をふたつに裂きながら生産する≪行為≫の詩学」の担い手として。
 ド・マンの読みは、読むことの不可能という窪みに落ち込んで項垂れるだけの非生産的な営みではないし、テクストはどのようにでも読みうるなどという解釈者の全能性を保証するわけでもない。鬱的悲観でも躁的楽観でもない。それはもっと日常的でありふれたことだろう。それは常にテクストのレトリカルなもの、エクリチュールの裂け目や間隙に読者という言語的構築物を立ち上げ続ける生成の営みを下支えするものなのだろう。いや、読者の行為遂行的自己措定こそがテクストにアポリアの時空間を生成する出来事なのだ、という転倒さえ真に迫ってくるように、わたしには思われる。この際ド・マンの読者の形象を、ベンヤミンの≪翻訳者≫に重ねてもおそらく大過はないだろう。原テクストと翻訳されたテクストとのあいだでまったく違う自分として生成する翻訳者のように、読者の自己はまったく違う自分として言語のアポリアの中に束の間現れる。「ド・マンの詩学とは、[自己]措定がそれ自体をかならず二重化された現前の分裂として翻訳するようなポエシスの過程の詩学である」。
 これほど日常的に起こりうる出来事が、読むことの他にあるだろうか? 読むことほど自己を必要とする行為はあるだろうか? 

「読むことは読まれえない。読むことは逸れるということそのものだからだ。」

*1:概略はこちらが詳しい→http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071221/1198228182

*2:ド・マンのアレゴリー理解はすぐれてベンヤミンのそれに馴染むものであると言えるだろう。

*3:以下の立論は、ガシェの議論からは完全に離陸している。あくまで私的敷衍としてご寛恕のほどを。

*4:拙稿では端折ったが、本章の議論は、ヘーゲルハイデッガーの考察、とりわけフィヒテの自己措定に多くを負っている。