『イメージ、それでもなお』、第1章を振り返りつつ「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の節(p87まで)について

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真


(承前)『イメージ、それでもなお』その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708 

※だらだら書いてたら、長くなってしまい、そろそろ飽きてきたので、とりあえずp87まで。

 
 【第1章の補足ツイート】
 ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』第一章の締めの箇所の「閃光の時間」は、カメラのフラッシュ、ストロボのイメージなのかな、とか風呂の中で想像力を試していた。カメラの瞬きだとしたら、『イメージの前で』に瞬きについて論じてあったような。「大地の時間」はフーコーだろうけど。
 また同書一章原注40におけるアガンベン批判はとどのつまり、真理は想像しかできない、ということだろう。ならば、DHの立場はますますバルト『明るい部屋』のそれに近い。あとは妄想に流されたので、なにも覚えていない。二時間の空白。

 
 【第1章の私的イメージ】
  まずは、記憶のポケットをまさぐってみよう。
 第1章では、表象不可能性と想像不可能性の混同を指弾した上で、歴史学における事実関係の≪実証≫、ならびにポストモダン的歴史における表象不可能という嘆きによる「ショアー」を美学化の≪語り≫を退け、代わりに知性(悟性)と感性的なものを橋渡しする領域、「想像力」(構想力)を軸とした≪読み≫の可能性が提起された。「想像力」を前景化する読みは、人体に対する毀損や人種主義の炸裂の瞬間として「ショアー」を扱う可能性を否定する。なぜなら、イメージは歴史学的過去として振り返るべきものではなく、「今ここ」と共に在る出来事としてあなたの一部を成しているのだから。だからイメージが「今ここ」にあるというアナクロニズムは、「視覚(ウツルモノ)の考古学」に携わるものを傍観者にはしない。
 「ショアー」とは、DHの観点に立てば、人間が人間として感知されることと認識されること、双方を架橋するはずの想像力の領域、人間のイメージを無きものとせんとする出来事だったことになる。それは他人事ではない。知性と感性とを接続する想像力の領域から人間のイメージが失われれば、私たちは人間について考えることはおろか、人間の温もりや優しさを感じとることさえできなくなってしまうだろう。「ショアー」は、その意味において、イメージの危機である。しかもそれは過ぎ去った危機の記録であるというより、それが起こる可能性を披く来るべき出来事として、われわれの生の「根源」を構成している。
 (ショアーであり、人間をイメージすることができなくなるかもしれないという危機でもある)「根源」は(決して綜合されず、悟性概念に一致せず、全体性を再現することができないという意味において)表象不可能であり、かつ(誰もが例外なくイメージの危機に瀕しており、事実や客観といえる外部はないという意味において)実証不可能である。しかしながら「根源」は想像することだけが可能であり、想像によって「真実」は生産される。そして人間のイメージを想像する橋梁(想像力)を確保すること(うーん、それがイメージの権利かな?)によって、人間について認識し、感知することが可能になる。
 某シンポに端を発して、イメージの権利に関するツイートをいくつか見かけたので、竜頭蛇尾な観も否めない蛇足を。
 デリダ派の法哲学者、ドゥルシラ・コーネルのいう「想像的領域に対する権利」(rights to the imaginary domain)*1は、DHの発想に近いのかもしれない。コーネルの場合、個々人の間に承認が生まれるためには、相手を知りつくすことではなく、相手のわからない部分があるということを認めることが必要だという議論だった。コーネルの力点は、相手に自らがどういう人間であるか想像し続ける余地を認め、そこには踏み込まないという配慮が承認を生むというところにあるが、牽強付会ぎみに彼女の論を敷衍すれば、わからない部分、つまり見たり触ったりできずかつ知的に確認することもできない部分があるという権利画定は、想像することによってのみ可能になる、ということなのかもしれない。それはもはや法的に外付けの≪人権≫ではなく、人間を認識し、感知するために必要な、内蔵された想像力のための(法)権利という権利画定の更地に、DHの思想を位置づけることができるかもしれない。
 人間であることを法的に保証するのみならず、人間ではないことの条件を規定する≪人権≫ではなく、人間を人間であると認識し、人間とは何かについて思考し、人間っていいなと感覚するために、前提となる想像力の権利画定の権利こそ、≪イメージの権利≫なのかもしれない、と記憶のポケットをまさぐっているうちに妄想の裏地にまで達するという失態。破れたり。


【第2章、「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」】
 第1章の議論に対する反論が概括され、DHがそれらに対して批判を加えていくという流れになっている。実証不可能性というわりかし歴史の領域においては目新しくはない主張をなす「視覚の考古学」の相にではなく、表象不可能性にこだわり、想像することやイメージを軽視する「美学的な想像不可能」に対するDHの批判に反論がなされたようだ。
 言語ではなく、イメージ、というところに批判が集中、ファンタスム、フェティツシュ、宗教的、無の埋め合わせ、歴史修正主義の温床、とほとんどDHを反知性主義者として解するような反論が並ぶ。
 反論者たちが争点化しているのは、知性か反知性かの二分法へと要約できるように思うが、そうした反論を精査することよりも、それらの批判を通じてDHがどのようなイメージ論を展開するのか、に注目してみよう。
 

 よりよく知るために見ることを試みたに過ぎない。(76)
 これはイメージについての思考の大半が、今日では政治的領域そのものに属していることの確かな証拠である。(77)

 DHは知性の威を借りた反論を、現実とイメージに対する「二重の知的操作」と批判する。つまり、現実もイメージも全体的・絶対的なものとして表象され、あたかも両者が知を分水嶺として対立するものであるかのように表象されているということだ。DHの批判は、この全体化の操作、「すべて」という概念規定を金科玉条とする表象力学に向けられている。
 DHは「すべてに抗してのイメージ」と自らのイメージの思考を呼ぶ。まず、それは歴史という残ったものだけを「すべて」にする仕組み、さらには歴史的事実を抹消するために「すべて」を作り上げようとしたナチスの行為に抗って四枚の写真を撮った「英雄的な政治的レジスタンス」を指す。さらには、それは、イメージを信頼に値しないものとし、それらを想像不可能な「すべて」へと仕立て上げる理論に抗う、「理論的な例外」を、「規則の再考を求める例外」、「理論の再考を求める事実」をも指す。歴史の「すべて」と理論の「すべて」という代理=再現=表象の(不)可能性をめぐる政治的領域に抗うのが、オルタナティヴな「すべてに抗してのイメージ」による呈示である。
 いわずもがな、「すべてに抗してのイメージ」を駆動させるのは想像力だ。想像不可能であると言明することは想像しないことに等しい、と批判者を厳しく弾劾するDHは、そうした「ドグマとしての想像不可能」、すなわち想像しようとしたり、想像力の可能性について考えてみようとさえしない怠慢に厳しい。それは概念に感性的直観を引き合わせるだけの奴隷のような想像力、砕けば、予め与えられた画用紙に全景が均等に収まる絵を描くだけの凡庸な想像力でしかない。この意味において、DHはこれを美的なもののカテゴリーにおける「美学的な想像不可能」と呼んでいるというわけだ。煎じつめれば、「表象不可能」という知的な操作は、表象不可能性を全体化する、つまり「すべて」にするという意味において、ひとつの表象でしかないということだろう。
 「イメージとは概念的にはひとつの全体的なイメージであるとしか認められまい」というDHの言明の核心は、この美的なもののカテゴリーを概念化・美学化することに対する批判にある。与えられた画用紙に付箋を貼ったり、別の紙を継ぎ足したり、それを他の絵と隣り合わせたり、切ったり、破いたり、折ったり・・・。想像力は経験を概念と引き合わせるだけのものではない。むしろ、美的判断力の地平においては、想像力は概念の枠組みを脅かしさえする。美や崇高に還元されることを拒否もする想像力の働きによって、枠組みは変わりうる。「寄せ集め的で不純なイメージの性質」は、表象の概念的綜合のメカニズム、その「すべて」性に抗する。「よりよく知るために見ることを試みたに過ぎない」というのはそういうことだ。

*1:『女たちの絆』asin:4622071428