『イメージ、それでもなお』、「イメージ=モンタージュあるいはイメージ=嘘」、及び「似ているあるいはみせかけのイメージ」の章についてのツイート

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708
その2→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121111/1352611492
その3→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121126/1353902809

 
 http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121207では、極めて詳細に引用文献に当たりながら、精読、精緻な議論を積み上げている。非常に考えさせられる。


 【「イメージ=モンタージュあるいはイメージ=嘘」の章】
 DH『イメージ、それでもなお』p194まで。『夜と霧』、『ショアー』、『映画史』を切り結びながら、「それを語ることなしに、よりよくそれについて話す」モンタージュについて。「すべて」や「無」に続いて、ここではイメージの「ひとつ」を批判。
 イメージは常に複数であり、モンタージュはイメージの複数性に適う手法であることが示される。特に、アルシーヴという過去に属する遺物という「すべて」を構築しえないものに対して、モンタージュはそれと現在の証言とを混ぜ合わせ、問いのかたちを与える。過去の出来事について直接「語る」ことは不可能だが、モンタージュはその不可能性について「話す」ための形式を立ち上げる。見ることのできないものを見せる、見えるものと見えないものを超越する視覚的なものの次元に属するイメージの形式を立ち上げるのがモンタージュ。
 モンタージュは各イメージが他のイメージとの接触によって新たな命を得るような技法。そこでは時間の秩序も空間の配置も作り直され、現実にはなかった別の時空間の枠組みにおいてイメージは問われることになる。
 モンタージュの場では「イメージ同士が互いに衝突し、言葉を生じさせ、言葉同士が互いに衝突し、イメージを生じさせ、イメージと言葉とが衝突しあい、思考が視覚的に生起する」。つまりイメージは、感性と知性とのあいだ、想像力の閾において両者を橋渡しするものである以上、感性的な経験には留まらず、知性に再考を迫る。イメージは「すべて」や「無」における表象ではなく、呈示ではあるが、「理解するための呈示」でなければならない。
 感動や恐怖に囚われるだけではなく、感動や恐怖「について」考え直すために必要な形式=フレームがモンタージュだということだろう。弁証法に終わりはない。終わりなき時間の前で、想像力が感性を介し知性に再考を迫り続ける「歴史の天使」のトポスがモンタージュの世界だから。〆
 映画の知識がないので、細かい部分がわからないのが残念だが、論理的にはわかったつもり。「可読性」を与えるのがモンタージュ。映画見ないとだめだな。


 【「似ているあるいはみせかけのイメージ」の章】
 『イメージ、それでもなお』最終章。複数のイメージのあいだに類似を作り出すモンタージュの技法の射程をナンシー、バタイユアガンベンランシエールアレントベンヤミン、ヴァールブルグらと共に考える。人間のイメージを可能にしているのは、人間が他の人間と似ているということ。ナチスのようなイメージの殺戮は「似ているもの」に対して行使される。従って、「似ているもの」をイメージのモンタージュによって(再)構成することは、人間のイメージの喪失を贖い、理解するための枠組みをつくることと同義。
 ドゥルーズがいうように、「類似」は「同一」と異なり予め差異を含み持っているからこそ「社会的紐帯」を、「関係」を作り出す。この社会的な次元を担っているのが、複数の、全体化できない、断片に留まるイメージ相互の類似性。
 類似したものに対する破壊が、類似そのものの破壊へも広がりかねない、「イメージの危機」としてアウシュヴィッツの出来事を正視するためには、決して救出することのできない破壊されたものを「復活」させるのではなく、イメージの類似の関係に置き直し続ける(そして失敗し続ける)、終わりなき類似性の「贖い」こそが人類学的使命となる。後半、DHはペルセウスの盾をイメージのメカニズムをコントロールすることの譬喩として用いる。盾はその後ろに隠れるためにあるのではなく、危険なものを見る=知るためにある。
 その意味で、ペルセウスの盾は類似性の消失に立ち向かうモンタージュの技法の謂いだろう。そしてモンタージュは、ベンヤミンの「静止状態の弁証法」を超え、イメージをばらばらでありながら互いに似ている「働く」ものにする。と、4枚の写真から始まったイメージ論はいつしか映画論へと逢着する。
 いみじくも解説で田中純が指摘しているように、4枚の写真のシークエンシャルな類似性と映画のモンタージュは同じようなものとして扱えるものだろうか、という疑問は残る。写真と映画もまた類似のネットワークのなかにからめとられているのだろうか。類似した人間のイメージにも似て。〆