トリン・ミンハ『ここのなかの何処かへ』

ここのなかの何処かへ: 移住・難民・境界的出来事

ここのなかの何処かへ: 移住・難民・境界的出来事

 音感に優れた人が読むべき本だと思うし、戦略的な吃音や言い間違いから生じる言葉の変奏(特に「白い春」)は、翻訳では再現不可能なのかもしれない。いや再現不可能だからこそ翻訳は必要とされる。ダナ・ハラウェイやジュディス・バトラーと同じように、トリンも昔から使われている言葉をわざと誤用したり、音節に沿って音を分解したりする傾向にある。そうした言語の新しい使い方を学ぶ営みは、言葉が本当はなにも指示していなくて、言葉同士がお互いを名づけあっているという事態をしっかりと把握した上で、それでも「ここのなかの何処か」別の場所を指し示そうとする、アイロニカルな試みなのだろう。
 しかし言語による「闘い」を前面に押し出して政治的なものの可能性に賭けるハラウェイやバトラーとは違って、トリンは闘いが始まる前の対峙、嵐の前の静けさ、指揮棒が振られる前の沈黙といった、なにもない場所、虚空、絶句を聞きとり、書きとめようとしているように思える。

ある種の壁は、それが生きたものとして機能する限り、幾多の世紀や歴史をも超える讃歌、声、リズムとして立ち現れる。各々が固有の音色をもつ点で独自性を有しており、各々が視野を妨げるべく人為的に作られたものなので、潜在的に人々の注意を引きつけるものともなる。言い換えれば、人々は防護壁としての壁自体に自らの地平を妨げられることで、欲望や恐れを煽られる結果、彼方を見る代わりに、ものとしての壁を、それが実質的に目立たなくなる地点まで凝視するよう迫られるということだ。そうした行き詰まり状況こそがどこか別の場所への道筋、それも創造的に大胆とも見られるような道筋へと通じるのだ。

壁とは、独房や教室を作りだし、国境に聳える物理的な障壁だけを指しているわけではない。それはたとえば、慣れ親しんできた物語がふとわからなく瞬間に訪れるブラックアウトかもしれないし、どこにも仕切りはないけれども踏み入れてはならない禁忌の雰囲気としてなんとなく感じられるものかもしれない。壁には見えないし、壁として認識できない場所に壁を感じる技法について、トリンは語っている。
 壁を感じるために必要なこと、いや、壁を立ち上げるために必要なこと。それはまず黙ることだ。

常に理論的な監視を行うという営みに必死な男たちは、重要なことを経験するとすぐさま「沈黙を破って話し始め、理論的な結論を形作ろうとするからだ……そこでの沈黙は、あらゆる人々の声の集積、つまり、私たちの息遣いの集積に他ならない……まさにそうした集団的な沈黙こそが必要である。なぜなら新しい存在様式は、沈黙を通して形成されるはずだから」。

 このマルグリット・デュラスの言葉を借りた批判が向けられているのは、「自らの些細とも思える行為が時間――地質学的時間、生理学的時間、つまり千年王国そのものもほんの一瞬に過ぎないと感じられるほどの長大な時間――の流れのなかでは、どれほどの大事に繋がりうるかに思いを致すことなく、短期的解決法にのみ頼ろうとする世界中の公的指導者」に違いない。だが、おそらくここで注目すべきは、沈黙が言葉によって「破られる」ものだということだろう。
 ある出来事が生じたとして、その出来事に言葉を費やすと、なんとなくやり過ごしたような、うまく乗り越えていけるような、そんな気分に浸れるかもしれない。出来事など最初からなかったかのように。世間に言う「迅速な対応」は、資本や情報の流れにも似て、一切の沈黙を拒否する。沈黙が生まれてしまうとなんだかそれが大きな問題であるかのように感じられてしまう。人が多弁になるときほど、コミュニケーションに不安を感じている徴候が露わになることはないというのも一例だろう。そのようなときの言葉は、堰を切って流れるに身を任せる。だが肝心なのはそこにあったはずの堰だ。この堰、沈黙という堰をつくることのほうが、トリンにとっては行為と呼ぶべき価値をもつ。沈黙は訪れるのではない。沈黙は作りださなければならない。そしてこの沈黙こそが感じなければならない「壁」であり、出来事を押し流してしまう言葉を押しとどめる堰なのだ。
 同様にして、「待つこと」も壁を感じるための行為のひとつとなる。

自身の心の呼びかけに忠実でありながら待ち続けるということは、不可能な状況に「打ち克つ」ための必要条件ともなる。それゆえ、待つという行為は受動的なものではない。ヴェトナムの歴史がたやすく証言するように、それは能動的でダイナミックな行為である。

 黙ることや待つことが「行為」として価値を得るのはなぜだろう。
 あなたが喋っている時のことを考えてみるいいだろうか。
 立て板に水のごときあなたの語りは、ある特定の場所に中心をつくりだすだろう。そしてあなたの声の届く範囲に、あなたが作りだした雰囲気は広がるだろう。しかしあなたがその雰囲気を作っていると考えるのは拙速というもの。あなたの言葉に耳を傾け、相槌を打ち、言葉を促すジェスチャーをあなたに振る舞う聴き手の存在こそがその雰囲気をつくっている。聴き手が退屈したり、視線を逸らしたり、溜まらず別の話をし始めた途端、雰囲気はたちまち立ち消えてしまうことだろう。
 言葉は貨幣のように流通する。しかし言葉がなんの障壁も存在しないかのように自由に止め処なく流れることができるのは、聴き手の待つという行為によって現われる、沈黙のスクリーンの上にあなたの言葉がちゃんと場所を得ているからだということを忘れてはならない。つまり待っている誰か、黙って聞いてくれる誰かがいない限り、言葉は独りよがりでどこか遠くへ流れていってしまう。街なかで時々出逢う、想像上の誰かに話しかけながら歩いている人を不気味に感じるのは、わたしたちがそこに待っている聴き手がいないように感じるからだろう。あるいはi-podに流れる音楽に合わせて大声で歌いながら走り去っていく自転車乗りに異様さを感じ取るのは、そこに黙って聞いている観客がいないように感じるからだろう。どちらの例も言葉を発する側の人間だけが存在していて、その言葉を堰止め、上映するスクリーンとなるべき沈黙を欠いている。
 話しているあなたは、聞いている誰かが作りだす沈黙をちゃんと聞いていなければならない。それこそが語る者が負うべき負債となる。「負債そのものが人生を奥深いレヴェルで変えうるダイナミックな目覚めの基となる」。負債を負債として背負うためには、言葉を堰止める沈黙の壁がなくてはならない。

あえて自分の居場所から出て多数性の世界に踏み出すような者たちは、しばしば当分のあいだは人生を無感覚な状態でやり過ごそうとする。つまり、言葉あるいは言語上の断食を実践しつつ、再び、しかも新しいやり方で話せるようになるまで待つ、というわけだ。

 見えないものを聞こうとするときに生まれる沈黙、言葉の断食を、トリンは言葉の流れていく継起性を断ちきり、なにかとべつのなにかの境界として立ちあがる「境界的出来事」と結びつける。しかしそうした境界的出来事にわたしたちが従属しているわけではない。なぜならわたしたちはたいてい、その出来事なるものに気づかずに喋り続ける生きものだからだ。むしろ境界的出来事を出来させるのは、沈黙し、待つというわたしたちによる能動的な働きかけのほうだ。ここにおいて、沈黙や待つことを知らない雄弁のほうが、貨幣の交換や速度の政治学に盲従している、という鮮やかな転回を見出すことは容易だろう。
 沈黙や行間を生みだす行為は、モダンの機制が要求する新しさとはずいぶん諧調の異なる新しさをもたらすだろう。もしかしたら「黙れ!」という命令が、今や不遇をかこつ者にとっては慈雨にも等しい恰好のチャンスとなるのではないだろうか。「黙れ!」という命令は、それ自体が発話者にとっての沈黙に等しく、相手を屈服させるつもりが自ら出来させた境界的出来事に自ら従属してしまっていることを言外に表明している。命令を受ける側の沈黙は、命令に付随的なものに過ぎない。「黙れ!」という命令は、それを発話した人間自身を聴き手が当面する「壁」へと変えてしまう。言葉を重ねるのであれば、相手を黙らせるのではなく、相手に「黙れ!」と言わせるために重ねてはどうだろう。それこそが沈黙の作法の応用編であり、他でもない「ここのなかの何処か」を出来させるための「翻訳」話法なのではないか、とわたしは思う。

関連:「petrifiedについて」 http://d.hatena.ne.jp/pilate/20130112