「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章、および「イメージ=アルシーヴあるいはイメージ=外観」の章についてのツイート

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

(承前)
その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708
その2→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121111/1352611492

 『イメージ、それでもなお』p116まで。表象の「≪すべて≫に抗して」の繰り返し。ここではフェティッシュも「すべて」の機制として退けられ、「裂け目」、「安心した自己イメージには決してならず、われわれにとっては常に<他者>のイメージのまま」であるような歪んだ鏡が写真に重ねられる。
 感性的経験が知の堰を破り知の改変を迫るような「終わりなき知」としてのイメージ。「イメージが消滅するとき、言葉と感情も消滅する」。この人間と非人間との「裂け目」を問い続けること、全体化されることのない断片、アレゴリー、「イメージの可読性」。〆
 『イメージ、それでもなお』p154まで。「無あるいはすべて」という表象の全体性に抗するイメージの証言について。主として映画『ショアー』の監督によるアルシーヴ観に批判の矛先は向いている。歴史に対する考え方という点では、DHとギンズブルグはやや異なるような気がするのだが、偽造でも検証でもない、非人称的な「証言」(証言者に還元されない)の立証性を評価している(あるいは両者の立場は近いのか)。「証言」はそれ単独で立証の権利をもつということか。(イメージ自体がもつ権利という問いはやはり有効かもしれない。)
 「対象はイメージを通して照準に入る」、「イメージは事物ではなく行為である」。サルトルの想像力論を援用しながら得られたこの知見は、イメージそれ自体が検証の対象を含んでいるのではなく、それ自体が対象の存在を指し示す(index)立証行為の主体であるということ、そしてそれは「不確定の余白」を立証し、アルシーヴをバベルの図書館のようにどこまでもひらかれたものにするということ。アルシーヴは、資料の集合体と考えてよいが、それは単一のものとして、全体性をもったものとして把握することはできない。目に見える事物に留まらない、イメージの断片の集合。フーコーの色が濃い。同時に、ベンヤミンの「アルケー」の響きを重ねるのもそれほどひどい誤読ではないと思う(おどおど)。〆
 補足。「外観」はappearanceかな。仮象。「鏡像的情熱」や「偽造」でいいたいのはイメージが感覚的なものに留まるわけではないということ。(もうひとつの「検証」は知的なものに限定される)。イメージは両者を横切る。感性と知性をつなぐ想像力。行為するイメージ=apparition。