『ヴォイドへの旅』

ヴォイドへの旅 空虚の創造力について

ヴォイドへの旅 空虚の創造力について

 港千尋といえば、『考える皮膚』がまず思い浮かぶ。本書はその続篇として読むこともできるかもしれない。
 ヴォイド(void)は、なにか対応物をもった定義できる言葉というよりも、イメージを喚起し、増幅し、伝播させる言葉、例えば、しりとりの最初の言葉のようなものとして使われている。ヴォイドはイメージを産出する子宮であり、またイメージによって生成する気配でもあり、はたまたイメージが消えうせるクリプトでもある。瓢(ひさご)であり、洞(うろ)であり、どこにもない部屋である。最低限の足がかりを与えてみるなら、ヴォイドとはなにかに包まれるものであり、包むなにかを生みだすものであり、なにかによって包まざるを得ないものだといえるだろうか。足がかりがあったとしても、それ以上登れる保証はどこにもないのだけども・・・。
 テーマは多岐にわたる。インタレーション、建築、ダーウィン、写真、彫刻・・・。だが、何にもまして、ヴォイドは私たちの身体イメージの中核にある。トポロジーに照らせば、人間の躰は、老いも若きも見目麗しさもそれなりの容貌も巨漢も痩躯も、すべて「ちくわ」状のかたちに括られる。
 それに鏡がないときでも、身体を思い描くことができるのは、心や意識というものの賜物だ。心が「空っぽ」になり、「踊り」、「満ち溢れる」。しかし意識や心に実体はない。それらは途切れたり、壊れたりするものではあるだろう。しかしそれらが意識されるのは、それらが言語の譬喩によって感じられるような気がするからに過ぎない。遺体を燃やしても意識や心は燃えないし、遺骨として遺ることもない。心性は、私たちの躰のなかに披いた、展性に富んだヴォイドの別の名前のことだ。
 そういえば、ジャック・ラカンのいう主体は、その実根拠のない空っぽなものだったし、デカルトのいうコギトは、それがバカボンのパパの言葉のごとき同語反復である限り、ヴォイドに等しいといってもデカルト学者以外は怒らないだろう。しかしだからといって、ヴォイドは想像できないものではない。私たちはヴォイドを意識や心として想像する。そして想像された意識や心で、人のヴォイドに意識や心を想像し、その内実を想像する。ヴォイドは無なのかもしれないが、無は言語よりも豊穣だからだろうか。
 死後の世界は、現世よりも豊かなイメージに彩られてきた。ヴォイドがイメージの源泉だからだろう。ちょうど私たちの思考の場所が、ヴォイドであるように。微視的には人間の躰は穴だらけだし、人間のいる宇宙は崇高なヴォイドだ。ヴォイドは、突飛な概念などではなく、私たちが日常的に慣れ親しんだ生そのものだとさえ言えるかもしれない。だから、あんなにも地獄のイメージは芬々たる魅力を振りまいてやまないのだろう。天国のイメージには残念ながら惹かれない。すでに満ちたりたものたちが集まる場所だからだろう。
 頁をさくさくと繰っていって読み終わった後、ダーウィンとミミズの逸話は私のヴォイドに銘記されていた。
 およそ人間が生きる土地に実りを約束するのは神ではなく、ミミズである。ミミズは土を耕す。その管のような身体に痩せた土を通し、滋養豊かな土を生産する。アダムが土塊から生まれたのだとすれば、土塊はミミズが創ったのだろう。その細い管のような身体は一条の土地を捩じり出す。その洞は無限の産道である。私たちの細胞が日々入れ替わりながらも私たちの同一性を確保するように、大地はミミズの管、ミミズのヴォイドを通過せずして同じ大地ではありえない。*1
 空っぽや空虚、伽藍、「おけら」はちっとも怖くない。怖いのは、ヴォイドをどこにも見いだせない満足であり、充実であり、閉塞だ。ダンテの『神曲』地獄篇が世界中で読まれ、天国篇の人気がいまひとつなのは、詩人が天国で悪罵を垂れるわけにはいかなかったからだろうか。いずれにしても、足りないものが見出せない世界は退屈だ。アンパンマンよりバイキンマンが創造的なのは、そういうわけだ。 

*1:モンゴメリ『土の文明史』に詳しい。→asin:4806713996