ミンチ状の睡眠とがっつり読書。惰性へのお追従にそろそろ倦んだ己がタイピングに、まったくときめかない。
ある夜。ビッグ・ボーイ。まだ入店したての店員に席まで案内される。しかし注文を訊くところまでは至らない。教えてもらっていないからだろう。注文を訊くところまで至ってしまうと、模範的な店員となり、その顔から笑顔と含羞の皺が消えてしまう。注文の仕方を知らない店員がわたしは好きだ。
学生と思しき集団がどやどやと入ってきて、テーブル席をふたつ占拠して、なにやらがやがや始める。
- 作者: 島村菜津
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/02/15
- メディア: 文庫
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バチカン公式エクソシストがいて、偽エクソシストがいて、悪魔崇拝者がいて、カルトがいて・・・。おまけにエクソシストと精神科医が連携するという、中世の錬金術と見紛うような聖俗混淆アマルガムの世界がイタリアにはある。驚愕する。
カトリックだけでなく、宗教は難しい。仏教や神道もわからないことだらけだ。
そういえば、とある学会でのこと、アメリカにおける禅の「受容」についての発表があった。そして「禅はそんなんじゃない」と噛みついた質問者がいた。教えてもらえばよかったなあ。
無神論が欧米で忌避されるのは、なにも信じないひとは信用できないから、だと聞く。その俗説が正鵠を得ているのなら、(自分を含む)ひとを信用することはすでに宗教なのかもしれない。神様仏様風水占い天皇ロックスターなどなどアイコンやカリスマじゃなくても、なにかを信頼することが宗教なのだとしたら、鳥居の外に立つひとを想像することって存外難しいことなのかもしれない。なにかを信仰すること、それは悪魔の存在を信じることであったりもする。科学は万能ではない。信じるものは救われる。理詰めの世界は蟻塚の入口でうろつく蟻を数えるようなもの。なかなか可視化できない、言葉で説明しがたい文化の無意識は相変わらず得体のしれない蟻塚であり続ける。ときどき蟻に噛まれる。痛い。
30万、浄水器、10万、10人、親、子、現場力、ミクシー、誰でもいい、イッコ下だから24。
隣から聞こえてくる言葉の切れ端が妙に気に障った。
わたしの隣に中年のおじさんが座っていて、学生たちだと思っていた集団からひとりひとり進み出て、おじさんの前で講話を聞いている。合間に「ぶっちゃけ」なんておじさんに言ってしまったりもする。とりあえず頑張っていることを切々とおじさんに向かって訴えている。うら若き乙女に「頑張っている」アピールをさせるこのおじさんは一体なにものなのだろう。わたしは『エクソシストとの対話』との対話をうっちゃって、おじさんとその仲間たちの関係について独り悶々と推理した。
果たしてわたしの推理は当たっていた。後だしじゃんけんのようだけども。
帰り際、ドリンク・バーの前にいた若者が脇に抱えていた冊子に気づいた。続いてアルファベットの列が目に飛び込んできた。
AMWAY。
アムウェイのカタログだった。
エクソシストの神父さんの言葉がよみがえった。「宗教が衰えている時代だからこそ、カルトや霊感商法が流行るんですよ」。
そうか。信仰はなくなるものではないのだな。ただ信仰の対象がころころと変わるだけ。
フェイスブックやツイッター、ミクシー、といったひとに障らずに触れあえるメディアがたくさん生まれてきて、「関係」をつくることは昔に比べて簡単になった。もう関係に躰は要らない*1。だからこそ、躰のない「関係」を利害関係に替える、あるいは売り払うことに抵抗がなくなっているのかもしれない。
だめだったらまた新しい「関係」をつくればいいさ。
新しい関係づくりに勤しむ彼ら若人同士も、関係をつくる営みを共有する関係によって繋がれている。関係をつくろうという意志が留め玉となって、互いが互いを弥縫する関係。関係のマトリョーシカ。
自己目的化した関係性が今は信仰の対象となっている。関係を編み、切り離し、結び、縒り、絡めあうのはその信者であり、彼らは関係それ自体と見分けがつかないほど関係に骨がらみになっている。関係は安全地帯を確保したうえで対象として語ることのできる代物ではなくなっている。いや、わたし自身、関係の檻、ファイバーの網状体を構成するひとつの繊維に過ぎない。しかし、わたし自身が解れて汚れた繊維だからこそ、抽象的で便利な「関係」という外套に刃向かうことができる。刃物は反則。切れるようになるまで繊維を研ぎ、尖らせる。
まことに暑苦しいがこの外套を脱ぐことはできない。ただ外套の隅っこにいよう。解れていくのはいつも隅っこからだから。そう信じよう、とかいう話。
*1:「体の関係」は欲しいです。