T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』

 

文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

文化の定義のための覚書 (中公クラシックス)

 文化がすっかり意識化されるということは決してない。――われわれが意識しているよりもっとずっと多くのものが文化には常に具わっている。文化はわれわれのありとあらゆる計画・立案が依って立つべき土台、無意識を本質的要素とする土台でもあるがゆえに、決して計画・立案の対象にはなりえないのである。

 「ヨーロッパ文化の統一性」という講演も収録。いわゆる「ヨーロッパの危機」論のひとつに数えることができるだろうと思う。アウエルバッハ『ミメーシス』やクルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』、フッサール、ホルクハイマーらの危機の言説*1に連なる。ヨーロッパを千々に裂いたあのふたつの大戦の遺恨を越えるための繋がりの模索。半世紀後の高みに立てば、そう片づけることができるかもしれない。
 文化は教育によっては伝達されない。文化の条件となるのは家系であり、家族である。これら階級と文化資本の多寡を関数としながら、文化はさまざまなかたちをとって存在する、というのがエリオットの主張だ。一見、とても古めかしい。
 角度を変えてみてみよう。エリオットによれば、文化は全体化(totalize)することはできない。総体(whole)としての文化は、常に意識化を免れる残余をもつ。同時に文化には目的はない。文化を政治利用し、文化をつくりあげようとする試みは、文化に目的を与え、文化を意識へと還元し、文化を痩せ衰えさせる。文化に目的はなく、意識化もできず、ただ文化を育む条件を正しく設定すべき、というのがエリオットの立場のようだ。階級や家柄といった旧弊な言葉遣いによって表現されているエリオットの文化観は、洗練された趣味の絶対化に与するのではなく、むしろ見えないもの、意識されないものへと向いている。
 文化相対主義的立場(違いを肯定するが、その肯定は中心にあるものの優位を損なわないためになされる)をとっているような箇所も散見されるが、基本的には階級や国家、言語に代表される(完全に意識化できない)「無意識的な」違いが文化を育むための条件となっているようだ。ただしその違いが互いを排除してしまう、弾力性に欠ける壁となってはならない。わたしが一読イメージとしたのは、違いを察知できる一方で、言語化してしまうと瞬く間に消失してしまう場の空気のようなもの。そんな空気のような無意識的な違いが、差異を浸透圧の強弱に変える。階級や国家といった既成の違いに依拠している点で、古めかしいし、回りくどいし、もしかしたらエリート主義的に映るかもしれない。けれど、エリオットが言いたいのは経済的・教養的階級を維持し続けその頂点に立つエリートの育成を要請するというようなことでも、家庭の場において一子相伝的に相続されるハビトゥス(身体化されたふるまいのかたち)や血統主義を強化しようというようなことでもない。言葉の選択がやや精確さを欠いているため、わかりにくいかもしれない。しかしエリオットの主張の核を成すのは、フロイトの無意識の概念に準拠したもっとシンプルなものだろう。つまりここでの文化は、政治やアカデミズム(という意識)に還元できるものではない、という意識の控除によって推定される構成概念のようなものだ。たったそれだけのことではあるけれど、正確に表現するのは存外難しい。難しいからこそ、これだけ回りくどい言い方になってしまうのだろう。
 エリオットは自身が主宰した『クライテリオン』誌について次のように回顧している。

われわれは思想それ自体に価値を認めて、思想に、そして知性の自由な働きに興味と喜びとを覚えるのを当然のこととしていました。またわれわれの主要な寄稿者や同僚のあいだには、意識的に抱かれた信条というふうのものではなく、無意識のうちに抱かれた前提があったと思います。それは疑問視されたことなど一度もなく、したがって、意識的に肯定の行われるレベルにまで引き上げられるには及ばなかった前提でした。それは文人の国際的な友愛が存在するという趣旨の前提でした。国家への忠誠とか宗教への忠誠とか、さまざまに異なる政治思想とかにとって代わるのではなくて、それらと完全に両立する絆が存在するという趣旨の前提でした。

 階級よりも、「友愛」のほうがエリオットの文化観はうまく表現できるように思う。政治や宗教に対する意識が違っても、意識でとらえることのできない友愛や絆で人々は結ばれている。裏を返せば、どんなにイデオロギーや信仰の点で一致していても、ちっとも絆を感じないケースもあるだろう。意識だけの繋がりがあっても、文化を共有しているとはいえない。表面的には水と油の関係であっても、共通の文化は人知れず通底器を構成している。それは言説や理性の世界とは別の沃野だろう。喜怒哀楽には解消できない色とりどりの感情、言葉にできないけれども常在している感性的なもの。エリオットは文化の理念を、無意識の知や情動が垣間見せるヴィスタの眼路へと披いている。
 あるいは「共通の文化」というものさえないのかもしれない。エリオットにとって分かち合われていない文化など、もはや文化ではないだろうから。この空気のような文化は、伝達できるものではないだろう。エリオットのイメージする文化は、うなじの少し上あたりに溜まる温かい感覚のようなものでありながら、ときに瘴気のように感染するものであり、同時にポオの内面のように「読めない」ものだったのではないだろうか。