情念のクローゼット

 

ヴィーナス氏 (1980年)

ヴィーナス氏 (1980年)

 

或る共通の考え……二人の性別を取り払うこと(93)

 
 1884年、『ヴィーナス氏』はブリュッセルにて上梓されるや、大方の予想通り、たちまち秩序紊乱の廉で発禁処分と罰金を科せられる。もっとも、法規制の標的となる一方で、同書は諤々たる毀誉褒貶の股裂きを食いながらも、文学界に煽情の嵐を引き起こす。1889年には一部を削除・改訂の上、この「稀にみる邪悪さが演ずる物語」はパリの書肆にも並ぶこととなり、『さかしま』のデ・ゼッサントや『未来のイヴ』のエディソン博士と並ぶ「世紀病」の症例のひとつとして認知されるに至る。
 『ヴィーナス氏』の著者にして「男装の麗人」、パリの文学サロンに君臨したラシルド夫人ことマルグリット・エームリの許には多くの文人、殊にデカダン派の作家が引きも切らず馳せ参じる。彼女に謁見を願った文人の中には、改宗前のユイスマンスや、イギリスの世紀末文化をひとり体現したオスカー・ワイルドの姿もあったという。
 なるほど『ヴィーナス氏』には、19世紀末の文学テクストを埋め尽くした、微細かつ多岐に渡る蒐集品や家具、調度、内装の描写に溢れている。ポオ「内装の哲学」からバルザックらリアリズム作家の緻密な描写、さらに連想は滞りなく広がり、涯てはフロイトを魅了したE・T・A・ホフマンを嚆矢とするオートマトン愛の系譜を辿ることも容易い。そこから糸を伸ばして『マイ・フェア・レディ』にまで届く調教の系譜、サドやマゾッホの性愛を手繰り寄せるまで、さほどの時間はかからない。
 『ヴィーナス氏』は、男児誕生を希った父の意向で息子として育てられたラシルド畢生の告解であった。そして世間の悪評を買ったのは、まさに彼女の葛藤、すなわち女性の躰をもつ者が「男」となり、男性の躰をもつ者を「女」として愛せるか、という倒錯によってのみ表現できる性的葛藤を同書が扱っている由縁による。
 

 この恥ずべき情熱のみじめさはじつに不器用にメッキされていて、泥の上にとても厚い絨毯が打ちつけられていた(80)。
 「お金持ちだけが恋をすることを許されているんです!」(81)

 
 「低い」性愛は肉欲へと帰結する、とするキリスト教文化圏の定説は、おそらく境を知らぬラシルドの葛藤をごくありふれた堕落へと定義したことだろう。精神性へと昇華されない愛は、肉欲への堕落であるという愛の垂直的理解は今でも西欧の道徳律であり続ける。しかしながら愛は、獅子身中の虫でもある。現にデリダにバルト、ブランショ、ナンシー、最近でもアガンベンバディウを惹きつけてやまない愛のテーゼは、「新しいヨーロッパ」への問いを切り結ぶ「留め玉」として脚光を浴びている。
 晦渋に淫せずとも私は経験的に知っている。愛は頭や躰に分けたり、どこかに局在するものとして確かめることができない。愛、それともパッション、あるいはパトスといったらよいだろうか。そうした感性的なものは、私がすでに知っている場所に根付いているのではなく、思い通りにならないどこかにふわふわと漂っていて、ある瞬間にここではないどこかに突然、場を披く。
 ラシルドの昇華なき葛藤を、<性>に特化したセクシュアリティの圏域に封じ込めてしまうのではなく、精神/肉の二分法を拒否しつつ新しい<生>を創造(私は敢えて「演出」と呼びたいが)しようとする一契機として受けとめたい、そんな衝動に私は駆られる。
 

無力に愛するがゆえに愛されるままになるという一種の無力な存在になった決定的な瞬間(90)
 自然は、犠牲者である[女たちを]裸に作った。社会は、彼女たちのために衣服を制定しただけである。服を脱げば、もはや隔たりはない。あるのは肉体の美しさの差だけだ。だから時には娼婦のほうが勝つ。
 キリスト教哲学者たちは、意志の純粋さについて語ったが、じつは彼らはけっして、恋の争いにおけるこの最後の点を問題にしなかったのだ。(106)

 
 事実、『ヴィーナス氏』における愛は、カント‐ヘーゲル的精神性へと反省・昇華されることはない。かといって愛が肉欲の奈落へと堕落しているわけでもない。それでも『ヴィーナス氏』のそれを肉欲と呼ぶのなら、間一髪のところで踏みとどまることを余儀なくされる、禁欲的な肉欲とでも呼べるかもしれない。禁欲を不道徳な肉体に対するストア派的な精神による制動であるとするなら、ラシルドの禁欲的な肉欲は、精神/肉体といった垂直的な二分法で説明できるものではない。高速道路と「下道」とを切り離すカントや、すべての道を王道へと収斂させるヘーゲルに倣うのではなく、道未満のアジールに、禁欲的な肉欲は棲んでいる、とひとまず暫定的に読点を打つことにしよう。
 
 

 「この香がぼくたちを取り巻くすべての壁布にその匂いを浸みこませるのと同じく、ぼくたちの愛が、ここにあるひとつひとつの物に、布に、飾りに、狂おしい愛撫を浸みこませるよう、当分この聖域を離れてはならないのさ。」(181)
 「だめよ、だめったら、服を脱いじゃいけない!」(186)


 禁欲的な肉欲は誘惑的でありつつ、潔癖な雰囲気を生む。体温を他者に伝える皮膚、さらには皮膚の外延でありながら皮膚の内包のようでもある衣裳が、雰囲気を絶えず痙攣させ、それに移り気な<性格>を与え、おかげで雰囲気は何度も着替える羽目になる。フィジカル/メタフィジカルにお馴染みの飼いならされた定点は存在しない。雰囲気は隠微に漂うからだ。
 
 

あらゆるものの場所を変えてしまう恐ろしい眩暈(85)
 レトルブ男爵は、この乱れたベッドの前に突っ立って、奇妙な幻覚をおぼえた。彼がまわりに見ていた青色は赤くなり、彼は髭を逆立て、歯を食いしばった。身ぶるいが全身を走り、すぐに、冷たいじとじととする汗が出た。彼は恐れに近いものを感じた。(114)

 
 『ヴィーナス氏』は、世俗的な欲望を至高の精神性へと羽ばたかせる、さもなくばそれを底知れぬ肉欲へと墜落させるような類の性的な小説ではない。性の座標軸に確たる点を求めることのできない「乱交的」な雰囲気を漂わせ、数えられるものを撹拌し続けてやまない通底器。『ヴィーナス氏』が秩序壊乱に与したとすれば、それは性的な意味においてではなく、人口に膾炙し体に沁みついた性規範とは別の圏域を生むかもしれない、いかがわしい雰囲気に満ちていたからではないだろうか。たとえ、ラシルドの実験が性差を出発点としていたとしても。
 そう、異性装、殊に男装とは性をめぐるアイデンティティの政治うんぬん以前に、まず「演出」なのだから。演出の場となるのは、皮膚や衣裳、表情、間仕切りのカーテン、テーブルクロスの襞の表面だ。ただし、それらは深層も内奥ももたないただの表面だ。
 

 「中へ入りなさい・・・。カーテンごしに話をしましょう。」(34)
 「お偉いさんかもしれん。当節わが国じゃ、服装で人を見分けるのは難しくなってきたからな。」(44)

 
 
 「骨にないものは皮膚にもない」と言ったのはニーチェだったか。
 表面に裏などない。裡なるものがたとえあったとしても私には見えない、読めない。演出されたものだけが表面に現われ、束の間、人を感化したのち、何ごともなかったように立ち消える。 

ラウールは手紙を燃やした。すると、手紙の文面が、炎の文字となって客間の壁の上に透き通って見えた。彼女はもうそれを読みたくなかったが、天井から床まで至るところに、それが見えるのだった。(200)

 
 
 私が望めばいつでも感じとれるはずの感性的なものでありながら、それでもうまく言葉で把握できない出来事。白い肌に黒子を見つける瞬間に見失ってしまう「真実」。目覚めた途端に忘れてしまう夢。突如として憑く、思い出せないはずの懐かしい気分。居心地の悪さ。居たたまれなさ。居ずまい。背すじを伸ばす。眼精疲労。探しものをしている最中に忘れられてしまう探しもの。

 マリーは居間の絨毯に靴を擦りつけ、少しばかり上流社会を汚すという秘かな喜びを味わった。(49)
 伯母は、自分をくるんでいる純白のシーツのように血の気のない顔になった。(164)

 

 上部/下部構造に関する件でベンヤミンが鮮やかに剔抉してみせたように、表面はその下にあるはずものに決定されるのではなく、その下にないものまで含んでいる。私がなにかを表面的と唾棄し、痛くもない腹を詮索し、大袈裟な陰謀を疑うのは、私には初めから表面しか与えられていないからだ。そして私が飽かず何かに疑いのまなざしを向け続けるのは、表面が捲れ、ささくれ、開かれたとしても、また新しい表面に私が倦むことをすでに知っているからだ。ベンヤミンならこれを「モデルニテ」と呼ぶだろう。深みを与えられていない私たちは、ウェルギリウスやダンテのように下るべき冥界を持たない。可能なのはランボオの地獄がもつ厚みだけ。ぺらぺらの「厚い記述」はひとつの表面の上に分別なく積み重ねられていく。歴史は表面の堆積となる。遠浅を見失った浅瀬。掴めない漂砂。全身を包む倦怠と疲れ。懐疑の念は、底が丸見えの底無し沼を恐る恐る掬う。懐疑もまた表面的だ。表面に接しているものこそ、私が感じ、察し、触れ、戯れる現実のすべてを立ち上げる。表面を肥沃にも痩躯にもするもの、それが「演出」と呼ばれるべきものだろう。
 

 カーテンの輪郭が乱れ、部屋にある鏡は、何倍にも数を増して、天からまっさかさまに突き落とされた黒焦げの妖精のような、空中を舞う巨きな黒衣の女の姿を、無数に映していた。ジャックは剥ぎとられた世俗の抜け殻のところへ思わず知らず戻りたくて、全身の筋肉を突っ張り、手足をこわばらせたけれども、どんどん深く沈んでいった。(59)

 
 『ヴィーナス氏』は演出に満ちている。ラシルドの分身と思しき男装の麗人ラウールは、食うや食わずの造花職人ジャックに恋をする。世俗においてラウールは潤沢な財産を有する名門の令嬢として社交界に生き、ジャックは彼女に庇護されるしがない造花職人に留まる。しかしながら、ふたりだけの関係にあっては、所有されているのはラウールであり、ジャックこそが「令嬢」を惹きつける引力を発している。しかも、ふたりの幻想世界では、ジャックは藝術家であるだけではなく自身の肉体が芸術品でもあり、ラウールはその圧倒的な美の前にただ傅き、崇高の前で震える一介の人間に過ぎない。その上、この親密圏に限っては、恋するラウールは「男」であり、獲物であるジャックは「女」として愛される。彼らの関係において、性的なアイデンティティは問題にならない。彼らの関係は、社会性を排除して成立しているし、彼ら自身ジェンダーセクシュアリティへの頓着はほとんどないのだから。それでもそれを性と呼ぶのであれば、あくまでもそれは「演出」されたものだ。彼らふたりの親密な関係において、この倒錯した性の「配役」は割り振られる。常軌を逸した二人の関係は、常軌の外で演じられる。
 

男を特徴づけるものはなにも見えなかった。(94)
彼の存在を変容させることによってラウールが無くしてしまおうとした人間的な性質(131)
若い娘たちが夢見る小説の主人公のような美青年の姿(178)

 
 もちろん、あらゆる人間関係がそうであるように、ラウールとジャックの関係をスタティックなものとして図式化することはできない。ラウールはジャックから男性的な「色」を抜いていく。白無垢の花嫁になるまで。ラウールのほかに欲望を向けることなく、朧な幻影のなかに安住するようになるまで。藝術が形を整え、色を与えていく工程を踏むものだとすれば、ラウールがジャックに施す「調教」はおよそ藝術品に対する態度とは言い難い。むしろラウールが求めているのは、飼いならされた美を所有することではなく、測りがたい人知を超えた壊乱的崇高の対象へとジャックを歪曲し、その前にひれ伏す恍惚に震えることのように思える。そしてラウールもまたジャックの調教を通じて、自らを藝術品に傅くに相応しい人物として自己演出を重ねる。

 

 二人はぴったりくっついて、くるくる旋回し、抱擁のうちに溶け、服を着ているにもかかわらず肉と肉とがくっつき合っている。それを見ていると、二人という形をとったただひとつの愛の神が思われる。バラモンたちの寓話の語る完全な人間、一匹の怪物の形をとった異なる二つの性。(158)

 

 地の文と彼らの会話とを適宜辿っていくうちに両者の性別は混乱し、どちらが喋っているのかわからなくなるまで色は混濁していく。ラウールは男性になるのではない。性的な関係を超え、ラウールは無垢で空っぽな像へと調えられていくジャックに合わせ、それにふさわしい感性的=美学的構えを演出する。両者が創り出す圏域においては、美と崇高とを隔てる堤防が決壊し、ただ濁った汀だけが残る。瘴気を発する汀。
 ラシルドが単に性の混沌を描き、男装の醜聞を戯画化したとは私には思えない。「新しい女たち」にジョルジュ・サンド、サフォーの復権セクシュアリティの病理化といった19世紀末に起こった事象を、解釈格子としてそのまま使いまわすわけにはいかない。ラシルドの実験は、性にとどまらず、藝術、さらには人間の生そのものを分断に導く理性から離反する、感性的な縫合として捉えうる。感性を麻痺に至るまで解き放ち、理性に繋ぎとめられた生の外へ。実体は問題にならない。ふたりが実際にどんな人間なのか、どんな身体なのか、どんな出自なのか。そんなことはどうでもいい。ふたつの表面と表面のあいだに生起する雰囲気。ふたりだけの感染者。閉鎖病棟の罹患者。過激なまでの感性の発露。汀まさる情念の演出。
 ふたりだけの親密圏での感性の実験は、親密圏に留まる限りにおいて安全を確保されている。しかし、それが社会的な領域へと漏出するとき、「恋人たちの共同体」には破滅が待っている。社会との戦いを選んだ二人を待っているのは、死だ。
 

「おまけに、ぼくが子供を産んだらいいと思っているんでしょ?」(194)

 
 情念の演出は瞬間的噴出であり、時間の継ぎ目や関係の配線を乱してしまう。それは再生産=生殖にかかわる時間を脱臼させる。愛や欲望は、統計学的な人口や産む機械を解体してしまう。統治された時空間は一時凍結され、淫らな引力を発する磁場の虜になる。しかし世間はそれを放っておかない。ふたりだけではなくなってしまう。かくしてふたりの戦いは初めから社会的敗北を宿命づけられていたのであり、敗北が予め前提とされている限りにおいて、戦いは美の長柄へと収まってしまう。斃れる反乱者はいつも安全であり、問題作は数多ある悲劇のひとつとして理解される。
 

 その部屋は、雲ひとつない空のように青一色だった。大理石のエロス像に守護された、法螺貝の形の寝台の上には、透明なゴムの皮膚におおわれた蝋人形が横たわっていた。赤い髪、金色の睫毛、金色の胸の産毛は、本物である。口を飾っている歯も、手足の爪も、遺骸から剥ぎとられたものだ。エナメルでできた目には、惚れ惚れするようなまなざしがある。
 壁で塞いだこの部屋には扉がひとつあって、それは化粧室の壁布の後ろに隠されている。
 夜になると、喪服姿の女が、時には黒い服の若い男が、この扉を開ける。
 その女も男も、寝台のそばに来て跪く。蝋人形の素晴らしい形を長いこと見つめてから、それを抱きしめ、唇に接吻する。腹の内部に取りつけられたバネが、口に連結していて、口を動かすのだ。(216-17)

 
 
 ラシルドの実験小説が飼いならされた美に収まってしまうのは、その結末において美学=感性的領域を仮死状態のまま冷凍保存するという、唯美主義的結末による。死したジャックの蝋人形をラウールが自室に保存し、夜な夜な進展なき愛を演じるという結末は、想像的領域を壁や天井のある住居の中に現実化している。『独身者の機械』のような同毒療法的不毛さを感じざるを得ない。凍結した情念はラウールが蝋人形に接吻するたびに解凍されるが、それが社会を巻き込むことはもはやない。囲われた空間、クローゼットに密閉されている限り、迸る情念も、倒錯した性愛も、秩序を脅かすことはない。人と隔たりながら在るということの価値は、社会的領域においてこそ、その強度を発揮するのだから。
 近代的病理は強すぎる感受性や、度を越したロマン派的想像力と結び付けられてきた。ヒステリーや統合失調症、あるいは躁鬱病を取り巻くイメージは、理性の失調と感性の過剰に集約されるだろう。しかし、近代が罹患している病理はむしろ無感性、不感症ではないだろうか。
 近代は過去のものではなく、現在の情態だと私は思う。近代を進歩史観や冷戦構造と共に葬るのは早い。近代は、まず第一に新しさの言説であり、その新しさに憑かれた生産様式そのものだ。ポストモダンやポストフォーディズムポスト構造主義その他の新しさに訴求する流言飛語の類がすべてモダンの鬼子に他ならないのは言うまでもない。加えて、近代に文学ジャンルとして確立されたノヴェルもまた、近代と同じく新しさを推進力とする文学形式であることには言を俟たない。
 『ヴィーナス氏』は、モダン・ノヴェルの資格を備えていると思う。モダンの希望と幻滅、そして飽くことを知らない欲望を正しく物語化しているのだから。しかしこの小説は、感性的なものを抑圧したりコントロールしたり改変しようとするモダンの感情教育を指弾してもいる。情愛の演出によって。溢れだす雰囲気によって。触れることができる表面によって。
 パトスの美学=感性学の潜勢力は表面に宿る。それは一旦解き放たれてしまえば完全に密閉することはできない。確かにラウールとジャックのかたちなき愛は社会的なものへと感染することはなかったし、最終的にはその可能性さえ密室の中に閉ざしてしまう。しかしそれでも、少なくともレトルブ男爵を感化するだけの演出の力はあった。
 揮発した見えない情念は、あらゆる表面に憑いている。そして、触れることのできる表面にこそ新しい理性的思考、ひいては新しい生は息づいている。