原子の光(影の光学)

 

原子の光(影の光学) (芸術論叢書)

原子の光(影の光学) (芸術論叢書)

 デリダのアーカイヴ論に始まり、H・G・ウェルズボルヘス耳なし芳一、『陰翳礼讃』、メルロ=ポンティ、ラルフ・エリスン、初期映画、X-線、ドゥルーズ=ガタリ、『幻の光』、『砂の女』、『CURE』などなど、哲学・映像論・フィクション論等を経巡って、近年の視覚性再考に一石を投じる一冊。
 鍵となるのが没視覚性(avisuality)という概念。端的に定義するのが困難なのは、解説の逡巡を見てもよくわかる。とまれ、X-線と精神分析が登場する1895年を画期として、映画や核爆発の光学をも貫く≪没視覚性≫は、もともと視覚に属さないものでありながら、人知れず視覚の裡に棲みついてきたなにものかを指す。この稗史に沿って、見える/見えないという視覚の二分法が揺らいでしまう臨界点(critical points)は語られる。
 たとえばX-線はわたしたちの身体を透視することができる。それはテクノロジーの進歩によって得られた新しい視覚だった(MRIやCTスキャンがその衣鉢を継いでいる)。こうした機械の光は、わたしたちが実際には見ることのできないわたしたちの姿をわたしたちの眼前に曝す。
 わたしの話をしよう。わたしは、X-線写真には幾度となくお世話になった。特に右足首の捻挫は習慣化していて、たびたびX-線によってわたしの右足首はX-線に透視されることになった。
 こんなことがあった。サッカーの試合で、至近距離からのシュートを爪先でブロックしたわたしの右足首が腫れあがってしまった。どうせまた捻挫だろうと高を括って翌日、懇意にしていた整形外科へとのんびり赴き、足首を捻りまわす拷問のような触診の後、X-線写真を撮ってもらった。医者が掲示する写真は、わたしにはいつもと変わらない白黒写真に見えた。しかし医者は「二度目の骨折だな」と言った。くるぶしが折れているらしい。一度くるぶしが折れたままサッカーをしているうちに骨が歪にくっついて、結果二度目の骨折に至ったのだという。医者が示す箇所を目を凝らしてみれば、確かに白いものの断片が白いものの本体より遊離して、両者のあいだに亀裂があるように見えなくもない。しかしながら、もしわたしがこのX-線写真だけを渡されて自分で診断を下す状況に陥ったとしたら、わたしは何度でも捻挫という診断を下すだろう。
 わたしの右足首はこれほどまでに内側から解像されて白日の許に曝されているというのに、足首の主たるわたしにはそれを読み解くことができない。それを読み解く能力を有し、責任を負っているのは医者だった。この意味でX-線写真は、わたしの写真でありながらわたしの写真ではなかった。それはわたしにはわからないように暗号化されたわたしの足首だった。医者はその暗号を読む。ただし暗号を読み解く医者も、解除されたコードの向こう側、すなわち折れたくるぶしをなんの媒介もなく見ることはない(外科的、解剖学的手法であれば直接見えるだろうが、X-線と同じように見ることはできない)。医者にできるのは、X-線が詳らかにする折れたくるぶしの表象を読むことだけだ。このように本来、人間の目には見えないものを可視化するX-線は、可視/不可視の二分法と離接した別の文法を稼働させる。
 わたしのくるぶしは部分的にはわたしの知覚に存する(わたしの足首は痛むし、腫れている。なにかしら怪我を負っていることはわかる)が、そのすべてがわたしの知覚に表象されるわけではないということになる(わたしの目には足首の中身がどうなっているかはわからないが、X-線写真はわたしの足首の症状を表象している)。つまりわたしは、自分の足首を厚みを備えた身体の一部として所有しているつもりになっていたのだが、わたしの目によって無媒介的(im-mediately)に見ることのできない映像によって、わたしの眼球による経験は不完全なものだと宣告されたのだ。筋肉や神経、骨、皮膚、血管などから成るわたしの足首は、好きなように捨象されて、三次元の情報を圧縮した二次元の表象になった。ただし、その表象は一般的な写真とは違って、わたしの目で直接確認することができないものだ。わたしの目はそのX-線写真を介して、間接的にそれを見る。わたしの足首をそのように無媒介的に見たのは誰だろう。誰でもない。X-線の光である。X-線それ自体が、人間の目を超えた視覚を駆使して人間を眼差している。この意味において、わたしはX-線写真のように見ることができない。X-線写真は、わたしを一方的に眼差した結果、否応なく残ったひとつの印象(an im-pression)なのだ。
 没視覚性の所在を認識する経験は、五感に腑分けできない震えや戦慄、上気、気配というように、知覚未満に止まる情動(emotion)の領野に棹さすことだろう。その領野は、X-線写真のようにぺらぺらの表面に過ぎないのかもしれない。ただその表面は、わたしのくるぶしを遍く透過した結果得られたものである以上、わたしの視覚的経験を表面的なものに変えてしまうほどの厚みを備えてもいる。その表面はホログラムシールのように、見る角度によって表情を変える。ホログラムを正確にデッサンすることなど誰にできるだろう。表面にはわたしたちが想像できないほど豊かな意味の皺襞が、つまり内包(intension)が折り畳まれている。わたしたちが「見る」と表現する≪夢≫や≪ヴィジョン≫のように、実際にはまなざすことができないものまでわたしたちは見る。触れるように、聴くように、嗅ぐように、味わうように、見る。
 視覚的経験の強度(intension)を考慮するなら、わたしたちの眼球は視覚の主体ではなく、視覚的経験の媒体(medium)だということが直ちに了解されるだろう。なぜなら、わたしたちの眼球は視覚を可能にするための光を発することができない。蛍の光を愛でることができるのは、蛍の尻が光るからだ。この意味において、わたしたちの眼球は一種の感光紙だと言えるだろう。わたしたちが何かを見ているというより、なにかが眼球に映っている。光が視覚的経験においては視覚化の働きをしているのだ。アリストテレスの『デ・アニマ』やアガンベン『スタンツェ』を想起するかもしれない。だが、人間の眼球はひとつのメディアなのではないか、とわたしは思う。。そう勝手に腑に落ちて、新しい光が矢継ぎ早に訪れて、わたしたちの視覚を刷新してきたことに初めて思い至る。見る主体としての経験を横切る没視覚性が立てる問いは、眼球に映じられたさまざまなスペクトルの光線を、その眼球でもってまなざそうとする不可能な経験が存する領野なのだろう。太陽の黒点をまなざそうとするバタイユのように。
 没視覚性は可視性(visibility)/不可視性(invisibility)という二分法の閾に棲みつき、その褶曲の織り上げる無辺なスペクトルを彷徨しながら、どちらのかたちをもとりうるが、それでもどちらのかたちにも収まりえない潜勢力の光として眼球へと降り注ぐ。幽霊のように。影のように。あるいは寄生虫のように。わたしたちの眼球は、光線が遺した無数の疵や影に憑かれている。わたしたちは、目蓋を反射的に閉ざしてしまう閃光のような≪それ≫なしではもう見ることができない。疵を負わずに見ることはできない。

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