- 作者: ロベルト・エスポジト,岡田温司,佐藤真理恵,長友文史,武田宙也
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- 作者: ジョルジョ・アガンベン,岡田温司,多賀健太郎
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- 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,佐藤嘉幸
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そして人称性。ユートピア(身体性)もヘテロトピア(空間における関係性)もナンシーの身体論のような非人称的な方向に向かう。身体も空間も言語による人称=ペルソナの縛りによって初めて存在しうるということか。人称が前提としてあるから、言語の行為遂行的な失敗が非人称的抵抗を呼び込む。生‐言語学と生権力がペルソナにおいて連絡する。ヴェイユのいう聖なるものの次元、非人称がこの人間と非人間を隔離するペルソナの位置を揺るがす。もちろんエスポジトを読む限り、非人称は言語の外部にはない。撹乱的な非人称言語によってペルソナをヘテロの方へ押し流し、人権の思考を脱臼させるという感じか。
アガンベンでいったら「人類学機械」がペルソナと同じ位置を占めるだろうか。アガンベンの場合、生政治を考える人類学者、つまりは「自然」の再考のほうへと振れているのだろう。ま、動物化やポストヒューマンを志向するという点では、エスポジトと同じだろうけど、少し角度が違う。
アガンベンはハイデッガーの読みなおしを通じて、「技術」を自然に対する道具ではなく、自然と人間の関係を司るものだと言っていた。つまり「技術」は人間側の特権的な道具ではない。技術は自然と人間のあいだを調停し、人間性を変える関数として働く。人類学機械を技術の観点から再考するのが喫緊となるだろう。
人間性の再考のためには技術の問いが欠かせない。技術の影響を受けた知覚を、従来の人間的な感覚を揺るがす情動のレベルから再考するような視点が重要になってくる。スティグレール読んでないけど、超越論的経験論を技術の観点から考えるとか?当然、技術には科学技術や工芸、ブリコロールのようなものも含まれるが、芸術や自由技芸(リベラル・アーツ)もある。市井/アカデミア、文系/理系の別を超えて技術について考えるためには、脱領域的な知見を要する。「コラージュ」の問題にしてもそう。核の問題にしても。
言語の問題に戻れば、人間性をそれとは不即不離の位置から操舵するペルソナに代わる新しい言語技術が求められているということだろう。人間性や人権に依らずに、生を思考するために。エスポジトの問いの立て方は卓抜していると思うが、正直なところ「三人称」ではパンチが弱いように思う。生‐言語学を逆手にとって人間/非人間の彼岸に導くような思考、あるいは生を突き離してモノの側から逆照射するペルニオーラのような思考のほうがラディカルだと思う。バトラーはもの言わぬ群集の身体、その挙措、行為に、言語的な潜勢力を見ていたが。