ペルニオーラ『無機的なもののセックス・アピール』

無機的なもののセックス・アピール (イタリア現代思想2)

無機的なもののセックス・アピール (イタリア現代思想2)

 

無機的なものだけがセクシーなのであり、哲学的である。

 ジュディス・バトラーカトリーヌ・マラブーの思想のベクトルは、生の枠組みのかたちを変えること(transformation)へと向いている。バトラーの場合、生が言語化されたものである限りにおいて、(沈黙まで含む)言語の力によって新しい生を創造することは可能となる。マラブーの場合、生は脳神経の組成のように外的影響を受けやすいものでありながら(空気抵抗や摩擦のような受動的な抵抗も含む)抵抗をも併せ持つ、不確かな「約束」を確かに「プログラム」した可塑的なものとして捉えられている。
 バトラーやマラブーの思想が共に闘争や変革、そして抵抗といった不穏当な語彙を用いるのは、両者がフェミニスト批評の系譜を強く意識しているだけでなく、ヘーゲル弁証法を応用しながら思考しているからだろう、とわたしは思う。当然、ヘーゲル弁証法は、それを史的唯物論に転化したマルクスの影を伴う。ヘーゲルマルクスを背景とした「変形」の思想においては、唯物論は(下部構造)決定論を土台ではなく斜向かいに配し、不変のイデアを宿した形相は弁証法の過程において変形・変質するものとして扱われる。アリストテレス哲学に由来するとされる、男性というイデアを実現しそこなった人間として女性を看做す差別構造、また変わりやすい質料と変化に曝されやすい女性という強力な係累はこうして絶たれる。質量がもつ捉えどころのなさ、曖昧さは、形相そのものに宿る。変化する形相(枠組み)同士で戦われるthe changing sameならぬthe transforming sameの弁証法が生の「変形」の思想を貫流している、ということになるだろうか。
 ペルニオーラのいう「感覚されるモノ」が立ち上げる新しい人間学(人類学)は、ヘーゲル的変形の思想とは逆のベクトルを志向するように思われる。というのも、まずもって「感覚する」という行為は、思想史上、伝統的に知性や理性より劣位に存する相として位置づけられ、理性的な男性/感情的な女性という区分を強化してきた経緯があるからだ。その上、「モノ」という次元は当然質料の変わりやすさを含意する。「感覚されるモノ」とは、フェミニスト理論が女性的カテゴリーの無根拠を理論化するまで女性の劣位の証しとしてやるかたない憤懣の的として遠ざけられてきた思想上の場末以上のなにものでもない。加えて、人間を「感覚されるモノ」へと駆り立てるのが≪セクシュアリティ≫の力学だという主張に及び、本書の挑発は沸点に達することだろう。
 セクシュアリティは通常、「性的志向」と解される。つまり、これは自分の性別に対する意識(ジェンダー)とは異なる、どのような他者を欲望するのか、という問題系に属する。自己と他者のあいだに生まれる欲望の磁場において、自他はそれぞれの「適役」へと分化する。LGBTQの類が批判しつつも乗り越えられない一線がこの「適役」ということになるだろうか。どのような根源的な性実践であっても、予め社会的に規範として流通している「男と女」の影を消すことができない。男のような女、女のような男。セクシュアリティが「概念」である限り、人間のセクシュアリティは欲望を性別化された役割を振り分ける配電盤に留まる。しかしだからこそバトラーの実践は、ジェンダーセクシュアリティが身体を概念にするその言語化を逆手にとって、規範の内側から撹乱することができる。
 これに対し、ペルニオーラのいう「感覚されるモノ」を象る「中性的なセクシュアリティ」は言語や思考、ひいては生の彼方にある。

中性的セクシュアリティはわれわれを非人称的な次元へと導き入れるものであり、その次元は、支配と隷属の役割の交代とはほとんど関係がない。【中略】 身体のここそこの部位においてわたしを受け取ること、しかじかの愛撫をわたしに供すること、あなたを完全なる服従に差し向けること、それらを指示しているのは、このわたしではなく、そうしたことを強く求めているモノの世界なのである。われわれがその世界へと入り込めるのは、次のようなことをあなたが感覚させてくれるときだけである。つまり、非人称的な感覚が命じることなら何であれ、あなたの身体が完全に役立つということを。

モノとしての人間が住むのは非人称的な感覚の世界だ。ここにバトラーの言語行為論が容喙する余地はないだろう。非人称的な感覚の世界は、言語による人称が無効となるような言語の彼岸である。感覚だけが行為を導き、行為を触発し、「あなた」と「わたし」という人称の限界を無効にしてしまうような秘め事を持続させる。言語的な規範や法ではなく、モノの規範・法が生成されるというわけだ。ただしだからといって、これは他者のいない自己満足的な合一ではない。言語によって割り振られる役割や自他の区分は見失われるが、その代わりに新しい非人称的な関係性が生まれることだろう。「感覚されるモノ」となる体験は、このように感覚の非人称性へと脱自を果たし、特定の性別を言語によって思考することのない中性的な身体を志向する行為となる。
 ただし、中性化・脱性化を志向するとはいえ、ペルニオーラの身体は、雑種混淆を繰り返し逞しさを増すダナ・ハラウェイの「サイボーグ的身体」とは全く違う。ペルニオーラの身体はむしろその機能不全を特徴とするからだ。「身体なき器官・器官なき身体・補完的な障害」と三つの相に分けられる身体の機能不全は、ハラウェイのように自律を志向するのではなく、複数のモノ同士が絡まりあう余地を、しかし決して合一には至らない不分明さを明るみに出す。強化されたサイボーグの身体が主体性を身に纏うのに対し、非人称的な身体は主体性をモノの次元に明け渡し、その現実的機能を剥ぎとられていく。それはバルトのいう「中性」とも違うだろう。それは精神的解脱へと向かい≪感覚する身体を喪う中性≫ではなく、誰のものと名指すことのできない≪非人称的な感覚しか残らない中性≫だ。新しい感覚、「超感覚」のなかに埋没することで得られる匿名性は、言語によって付与される抽象的な人称に支えられた具体的・有機的な実践からは遠く離れた無機的世界を象る。中性的なセクシュアリティに有機的なオルガニスム(organism)はない。絶頂を知らないセクシュアリティに終わりはなく、我に返る瞬間は訪れない。忘我の状態のまま、「感覚されるモノ」のまま、「わたし」や「あなた」を失ったまま誰とも知れぬ非人称の感覚は訪れ続ける。「欲望以後の欲望なきセクシュアリティ」に至るまで。モノは欲望しないから。
 「感覚されるモノ」に実体はない。ペルニオーラによれば、それは被覆や衣服として経験されるという。バルトのいう中性は、これ以上脱ぎ捨てるもののない精神の「裸性」として語られることだろう。しかしペルニオーラのいう中性は、裸性を隠すための衣服ですらない。身体は形骸化したモノ、厚みや深みを欠いた表面としてのみ存在する。
 果たして、肉を剥ぎとられた皮膚、皮膚の延長としての被覆は、「超感覚」の領域を披くこととなるだろう。だから「感覚されるモノ」になる経験は、わたしたちが生きる上で必須の感覚としては経験されない。「超感覚」は感覚器官を媒介して≪感覚する≫のではなく、無媒介的に≪感覚される≫。なぜならその新しい感覚は、「わたし」や「あなた」には決して訪れず、今ここで「モノ」である、という五感に割り振ることのできない感覚だからだ。「超感覚」は通常の知覚論、五感を基礎とした感覚論には収まらない。新しい感覚は生の外部にある。
 このようなペルニオーラの新しい感覚論は、わたしたちを生の外部へと、無機的な自然へと差し向けるだろう。テクノロジーと見分けのつかない呼吸しない自然。inspireされないexpire。有機的なものと無機的なものが混淆したサイボーグの時代は遠くなりにけり。互いに離接合する平面として繋がれ、縫合される無機的な身体。無機的な感覚。感覚できない感覚。しかしこれはいったいどのようなものなのだろう。
 新奇と倦怠のモダニティは、実に近代的観念としての主体をどこまで護持できるかという営為だった。進歩の神話の失墜が主体の位置をしたたかに貶め、そのあとには躁鬱的になんらかの双極のあいだを往復する、目的を欠いた、ただの運動として弁証法の空蝉が残った。主体性は運動へとその位置を譲った。目的を失った生の運動は、虚しさと虚ろと不即不離の関係にある。生は人間の手の届かないところで運動している。ペルニオーラの絶頂なき中性的セクシュアリティ、「感覚されるモノ」は実のところ、このような充実した生という詭弁、虚しさの前触れではなく虚しさそのものへと達した性的絶頂から疎外された人間のありようを冷厳に物語っている。
 ドゥルーズ=ガタリが執拗に描いてみせた哲学の帰趨、現代文学が実験することをやめたあとに残った言語は、生から疎外された人間を問い直すに十分だっただろうか。誰かの死は共同体再生の供犠となるような英雄的な死とはなりえず、ただひたすら凡庸な死に過ぎず、共同体の滅びの断片でしかない。ベンヤミンのモデルニテは、死の複製技術時代を跡づけてはいなかったか。人間は生を生きることができない。人間は、生とは別のところで営まれているモノだからだ。この新しい唯物論こそベンヤミンの可能性の中心ではなかったか。
 これは悲観論ではない。もはや新しい運動を生み出すことはない有機的な生や死から遠く隔たった無機的なものの領域で、人間の概念が稼働している可能性を告げているだけだ。だからこそ、有機的な感覚の位置に無機的な≪興奮≫(excitement)を代入する行為は、極めて正当な処方だといえるだろう。人間の生はあらかた五感へと記号化され、停止に至るまでの惰性しかない。とするならペルニオーラが目指すのは、感覚を超越した興奮が新しい運動のダイナミズムの発火点となる生死の彼岸だ。興奮するに値する出来事は、生死の外にある。生の外部へ出る情動は、感覚器官や身体、意識といった既存の概念から食み出る。だからそれはex-citement、≪興奮≫と呼ばれる。
 興奮の人間学は、性や生に絡めとられたバタイユの低級唯物論やメニングハウスの「吐き気」さえ逆撫でにし、反‐美学(感性学)の系譜を離節合することになるだろう。だからこそ、ペルニオーラがプログレッシヴ・ロックを語る一節は不用意に響く。本書に瑕疵があるとすれば、それは(ヘヴィ・メタルを擁護したい個人的な感情は措いて)プログレッシヴ・ロックが有する「セクシーさ」を特権的な音響的興奮へと趣味化してしまっている箇所だろう。

[モノとしての人間の]ハードコアはプログレッシヴ・ロックの響きの堅固な核であり、それが存するのは、ヘヴィ・メタルの楽器的な発声に合わせられた性的な叫び、喘ぎや呻きの錯乱したひけらかしのうちではない。そうではなく、人間の声も楽器の音のどちらもが、それらを人工的――機械的ではない――なものにするひずみ、フィルター、モンタージュを通してのみ享受されるものになるという事実のうちに存するのである。

このポスト・ヒューマンの「楽理」が説得力をもたないのは、rockとmetalのどちらがhard coreか、という語呂遊びに興じるあまり、音響が音韻の議論とは無関係だということを失念しているからだ、と思われる。もちろん、人間の声や楽器の音を一度モノ化した上で響かせるプログレッシヴ・ロックがペルニオーラの立論と相性が良いのはよくわかるが、ここで問題となるのは、音にどういう加工をなされているか、ではなく、どんな音であれどのように人に作用するか、ではないだろうか。「ヘヴィ・メタルの楽器的な発声に合わせられた性的な叫び、喘ぎや呻きの錯乱したひけらかし」という記述は、音の種類を意味論で語ってしまっている。とはいえ濁したお茶に蓋をするかのように、「あらゆる種類の音楽や歌は、人間をそれ自身の外部へと導く運動との関連として知覚されるのであれば、ハードコアの響きへと生成しうる」とペルニオーラは、音楽が観客にどう響くか、をはっきり問うている。つまり音楽は生の外部へと人間を連れ出し、人間を音そのものとして無媒介的に響かせる。音響の≪興奮≫の成否は、音楽のジャンルではなく、音響装置や音響空間にかかっている。プログレッシヴ・ロックが興奮をもたらすのではない。音響的経験こそ興奮だ。作者の人称をひけらかさない人工的な記述こそ、趣味の美学からも生の感性学からも離陸した、モノの哲学に相応しい。老婆心から知的興奮に水を差しておく。