生き物のサイエンス

現代思想』8月号「科学者」特集読了。原発問題やSTAP問題をとっかかりに、日本語における「科学」(つまり理系)の根源へと遡行し、(文理を横断する)サイエンス(知)を問い直すという趣旨の論稿・討議が並んでいる。つまりかくかくしかじかの問題は、本当に科学「だけの」問題なのか、ということだろう。おのおのの論者のスタンスは必ずしも調和しているわけではないし、ぶつかる点も多々あるかもしれない。しかし、科学認識論の観点から「科学」を反省するという意識はこの特集の通底器をなしていると思う。
この領域に関しては本当に真っ暗なので、新鮮な気持ちで読んだ。特にわたしのように科学史や科学認識論に関する蓄積のない人間にとって、本誌所収のふたつの討議はとっかかりとしては非常に有益だと思う。とりわけ科学者の内外で、科学は客観的なものであるという信念が崩れてきており、科学の知見も巷にあふれる言説と同様、操作的な側面が強くなっているという指摘に当面すると、一連の科学者に対するアカデミアの懐疑の目そのものをじっと見返すもうひとつの目と見つめ合ったような気がする。かつて理系側が人文系学問の非科学的な側面を糾弾したソーカル事件は、科学の客観性という地盤の上で起こった出来事だった。しかし世紀を跨いだ今、科学もまたある種の操作主義・構築主義であるとする知見が陸続と提出されているという。ソーカル事件の反転という事態から科学者の業界を見渡すと、果たして一連の騒動は個人の問題に還元できる類のものなのか、疑わしくなる。性善説でもって、学術的成果にあたる時代はもう終わってしまったと考えるべきだろう。*1
日本の科学業界にフォーカスすれば、ゲノム解析プロジェクトを嚆矢とするプロジェクト形式の研究体制によって起こる構造的問題が目を引く。COE、あるいは昨今のグローバル教育に典型的なように、大まかな枠組みをつくって予算を申請し、予算が降ってきてからその予算をちゃんと「消化するために」具体的な研究を進める、というスタイルが幅を利かせている。そのようなプロジェクト型の研究方式は、予算を集中的に投下し、研究拠点を限定し、そこからあぶれた機関や研究者には実学やビジネス教育を推奨する、という効率性と競争原理の強い構造を強いる。余った研究費を次年度へ繰り越すことが認められない、つまり単年度で一定の予算を使い切らなければならない、という単年度主義もプロジェクト型の構造の歪みに拍車をかける。予算を無理して消費(浪費)することにもなるし、毎年予算を使い切るために、毎年予算に比例したペースの研究の計画を立てるという倒錯が生まれる。理研は任期付きポストばかりだというし、プロジェクト型の予算配分と単年度主義が、こんな倒錯を生んで成果主義へと駆り立てているのかもしれない。お金を獲得し、お金を使い切るために研究の指針が決定される、という経済原理が「サイエンス」を貫いている。
このような文理の隔てをとっぱらったサイエンスを見つめるという意味では、STA(科学技術社会論)の役割はかつてないほど重みを増していると思われる。STAが理系の紹介役、それも杜撰な紹介役になってしまっており、科学をちゃんと問い直す役目を果たしていないという討議での指摘は無視できない。サイエンスを歴史化する中尾・田中・池田論文あたりは、科学の問題がアカデミアの構造的問題であることを理解する上で一助となるだろう。科学の各専門領域に踏み込むことは近接領域に生きる専門家でも難しいに違いないが、「科学とは何か」という問いを発する権利と能力は誰でももっているものだと思う。その意味で、科学(者)をめぐる問題は、決して理系の問題ではない。
さまざまな論文が並ぶ。どれも質が高い。とりわけ情報整理より知識に裏打ちされた発想に惹かれるわたしは、高橋さきの「「生きもの」だと宣言すること: 今日的サイボーグ状況をめぐって」を興味深く読んだ。論点はふたつあったと思う。ひとつは「生き物」とはなにか、という問い。もうひとつの問いは最初の問いに包摂される問いではあるが、技術と身体の関係である。
「生き物」について考えるにあたって、高橋は生物学決定論の言説が障害になると危惧する。「生き物」として人間や動物について考えるという枠組み自体が、すでにそれらを人工性や科学技術の枠外に設定するという古典的な誤謬を犯しかねない。無垢なる神の被造物としてのcreatureは人知を超えた神業、人間の技術の及ばない「自然」の奔流に掉さす。生き物は自然という所与の位置を獲得し、それ以外の後天的なもの、文化や技術と区別されるというのは特に説明の必要のないお馴染みの発想だといえよう。だがここで問題なのは、自然と文化の区別ではない。手つかずの不可触の自然というミニマムな身体性を世界の全体から控除したのちに残るようなものが文化として措定されるとひとまず仮定するとしても、歴史を振り返るなら、この自然の位置に座るものは絶えず廃位を繰り返し、様々な王を戴いてきたという経緯にもはや多言は要すまい。自然は人間には未だ触れることも叶わない要素を含みつつも、極めて構築的で操作的な概念である。だから文化と自然という区別を目の前にしたとき、わたしたちはその区別に「不自然さ」を看取する必要がある。自然と文化の区別によって生じるのは自然の聖域化というよりは、両者の区別の自然化である。これは自然が文化のように人為的な操作によって生じた嘘やでたらめである、という主張ではない。これは反本質主義的な観点ではない。自然と文化を区別するという思考法そのものが、より深く広く生き物について考察する機会を奪っている、というささやかな指弾である。だからこそ、ここでいう生き物とはcreatureではなく、lived lifeを指す。
技術と身体に関する議論もこの生き物に内包されている。マクルーハンのメディア論を嚆矢として、科学技術が人間の身体を拡張するものであるという議論はすでに人口に膾炙している。ダナ・ハラウェイのサイボーグ論も技術を身体の所与として捉えるという意味においてはメディア論の軌轍に沿うものであるだろう。しかしながら高橋が指摘するのは、身体拡張に逆行する物語の存在である。つまり、ジェンダーセクシュアリティに関する限り、技術は身体の拡張ではなく、自然な身体からある作業を切り離し外部委託するひとつの制度として語られる。女らしさの言説は、権利や財産、自己決定といった所有の言説と切っても切れないものだが、その所有が自然な不可侵の身体の所有という性格を帯びるのであれば、すかさず自然と文化の区分の自然化という亡霊が女の身体に回帰してくることになる。
マクルーハンの技術論とハラウェイのサイボーグ論を分かつものが、フェミニズム理論への目配りの有無だとすれば、後者の議論は技術の進展に女性の身体の解放を重ねるような単純なものとは言えない。技術が人間の生にとって必要不可欠なものになればなるほど、女性の身体は自然の領域として聖別される恐れが強まる、という自然化の亡霊に対する批判を維持するものとしてサイボーグ論を再考しなければならない。特に再生医療不妊治療を中心とする生殖の領域は、女性を自然化する言説の前線となっている。技術の進歩によって高齢出産や体外受精が可能になるとともに、女性の身体は産む身体として自然化される。そうしてみると「女は産む機械」というある元大臣の言葉は、粗野な女性差別的暴言として片づけるわけにはいかなくなる。この「女は産む機械」発言に対する反発には二種類あるだろう。まずは女は機械ではないというもの。そして女は産むだけの生き物ではないというもの。だが「生き物」による批判は、「女は産む機械」という発言が、その機械という反自然的な響きとは相反して、産む身体としての女性の身体を産まない男性の身体から区別したうえで、その区別を「機械的に」自然化してしまう点に向かうはずだ。
自らを生き物であると宣言したからといって、セクシズムや優生学、人種主義を超越することにはならない。むしろ「生き物」の思考が撃つのは、身体のあり方や本能のような自然と人間中心主義的な文化との区別を「機械的に」想定する、差別の根源を占める思考の枠組みに他ならない。動物や機械、無機物、技術といった、人間「概念」を外的に構成する他者の位置を占めるとみなされてきたものすべては、人間という「生き物」と骨絡みとなった仲間(companion)である。人間を構成すべくそれ以外のものを他者として区別する「人間」という治癒不可能な病とつきあうために、わたしたちは「生き物」として思考しなければならない。
そう、高橋論文がわざわざ「参与観察」という文化人類学のタームを用いて論じ始めるのは、人間という位置は生き物を外側から観察することができる場所ではないからだ。ジェイムズ・クリフォードに端を発する参与観察の問い直しをここに重ねてもいいだろう。参与観察は、ネイティヴ・インフォーマントの共同体のなかに住み、内側から観察すると、「彼ら」の自然な生活を記述することができる、という信念に支えられた科学的方法だった。しかし観察記録とは別に保管されていたマリノフスキーの日記等が明るみに出ると、客観的とは言い難い文化人類学者のあられもない姿が浮かび上がってきた。原住民に対する差別的な言辞を始めとする人類学者の心の揺れ動きが。そのような人類学者によって書かれた観察記録が果たして客観的な記述と言えるのか、という疑問が当然浮上する。また日記と観察記録を区別することができるのか、とよりラディカルに問うことも可能だろう。ここに至り参与観察は、より正確な記述を心がけるための科学的方法論であるというよりも、対象を設定し客観的な位置から眺める観察という科学的方法が一定の限界をはらむものであるということ、つまり観察する主体さえも観察対象として巻き込まれてしまうような事態を予め織り込んだ方法論であることが明瞭となる。
高橋が敢えて自らの論稿を「参与観察」と呼び、自らを「生き物」の当事者であると宣言するとき、わたしは否応なく生き物のフィールドに巻き込まれる。科学者の倫理とは、まず科学者が完全に客観的な位置に立つことができないことを自覚し、たとえ対象がマウスであろうと、ミミズであろうと、それらのすべてを同じ「生き物」の地平で捉えるという意識を持つことだろう。もちろんだからといって、客観が棄却されてしまうわけではない。客観を目指すことと客観の位置にいることを信じて疑わないというのはまったく別のことだというだけのこと。科学とは客観を目指す精神のことであり、客観的な目ではあり得ない。客観的な科学と主観的なわたしたちの日常、といった荒っぽい区別を自然化して、わたしたちの手から科学を手放してしまわないように。生き物の参与観察は誰にでもできる「サイエンス」なのだから。

*1:もちろん、わたしは論文という形式、研究という形式は、読者を論理的に説得するための形式である以上、「真実」を目指さなくてはならないとは思う。ただその「真実」は、かつての客観のような基盤の役は果たさないだろう。それはある程度、歪みや設計ミスを内包した足場のようなものになるに違いない。主観から出発しつつも、主観からできるだけ遠ざかり真実へのルートを示す、できるだけ強固な足場を組まなければならない。この足場を組むプロセスを軽視し、「真実」まで至る経路を築き上げていないもの(説得力の弱いもの)は学術としての価値は低い。さらにそのような疑似的な足場に、天然の岩盤を模した覆いを被せて自然化する偽装工作(説得という操作を意図的に間引いたり、剽窃したり、隠蔽したりするもの)は、当然学術の名に値しない。