ベルサーニ/フィリップス『親密性』ツイート+非人称的ナルシシズムについて

親密性

親密性

 ベルサーニ/フィリップス『親密性』、「わたしのなかのIt」まで。精神分析における知の所在の問題から語り起こし、疑似精神分析から始まる謎めいた対話を描くルコントの映画『親密すぎる打ち明け話』と、そこに何気なく登場する小説『ジャングルのけもの』の綿密な読解を通じて、知の可能性を披く。
 読みがとてもスリリング。言及される映画や小説を読みたい気持ちにさせる卓抜したエッセー。争点は無意識を掘り起こす遡及的な知ではなく、ポオの『盗まれた手紙』やマクガフィンのように、先へと繰り延べされる非‐知のような知こそが、新しい関係性を生みだすのではないか、という仄かな希望にある。
 ベルサーニはこの知を無意識に未来への志向性を与えるItと呼び、「会話を進めるという条件によってしか拘束されない会話」をもたらすItをラカンに言及しつつ無意識の知と名づけている。Itは秘密でありながら対話において共有されるものであり、対話者が各々の思いを投影する不確かな対象。
 性に限定されない関係性、情動を欠いた愛、無意識の知としての愛を育むItは、端的に理解の宙づりをもたらすクィアネスそのものであるように思う(しかもベルサーニクィアという言葉を使っていない。「すべてを含む非人称的な愛」とだけ。)。判断力における不可能性とも似ているか。
 彼の論文が卓越しているのは、映画内に登場する件の小説がItとして機能しつつ(観客は実際に読まなければその小説がどういうものなのかさえわからない)、なおかつ映画・小説それぞれの登場人物の対話がItの原理に貫かれているという輻輳を論の構造自体が示していることによる。
 無感性的な愛についてはもう少し考えなければならない。この関係性の瓦解、クィアの挫折を末尾で彼は認めていることだし。潜在性が「来るべき」のままであることも含めて。決して開くことのない扉の向こう側へ"Who's it?。知への呼びかけがつくる潜在的に留まりつづける関係性について。〆
 『親密性』二章はゲイのベアバックがエイズの拡散を通じて危険な共同性を夢見ることに対する批判から、自己剥奪と自我膨張を両輪とした非人称的ナルシシズムを提起。
 同第三章はフーコー批判からプネウマ的愛の理論を経由、第一章におけるItに相当する秘密は、対話において両者の自我理想が投影される他性であり、それを追いかける限りにおいて両者の区別は消失する、という非人称的ナルシシズムの愛を導きだす。
 ブランショが批判していたあの「合一」に映るが他性を介して成立するひとつの自我という発想はおもしろい。It=他性がある限りにおいて、非人称的ナルシシズムによる想像的合一は可能となるけども、他性を介しているがゆえに無媒介的な合一は達成されず、究極的には合一は不可能だということかな。〆
 
 【以下、非人称ナルシシズムについての私見
 第4章はベルサーニの主張に対して、フィリップスがコメントするという形式の論稿。「愛(恋)に落ちる」転移が、自己愛を増大させ、同時にそれが暴力を孕む、という精神分析の逆説を克服する可能性を秘めたものとしてベルサーニの論を読む。
 フィリップスは、ナルシシズムの形式を≪自己愛≫と≪自我愛≫とに分けて考えている。
 自己は父との関係、つまり言語の関係に投げ込まれることによって生まれる。自己は対象であり、言語によって発見される。*1しかしだからこそ、自己愛は過去に囚われざるをえない。言語によって対象化され生まれる自己を愛するということは、自己以前の起源を求めて遡行することであり、既知のものを絶えず繰り返す作業にならざるを得ない。自己とはこの意味において、他者を排して成立する対象であり、自己愛は、自我が主体的に他者のいない自己世界に固執するようなナルシシズムを指す(世にいう「自分探し」はこの構図)。したがって自己愛は自己防衛的に働く。自己を維持するために他者を排斥する。そのためには暴力の行使さえ厭わない。
 他方自我は、母との関係、言語以前の関係において育まれる。母は乳児を愛するが、乳児は母を愛せない。なぜなら、乳児にはまだ言語がなく、母を対象化できないからだ。このような主客未分化の状態であっても、乳児は母を探し求めている。言語ではなく、欲望の審級において、乳児は自分を愛してくれる母を欲望する。愛を欲望する主体が自我である。のちに父との関係において、言語的主体ともなる自我は、自己と他者とをそれぞれ対象化する。しかし、自我の根源には決して言語によって汲みつくせない愛の主体がある。畢竟、自我愛とは、自己愛には限定されない、自己/他者の別なく欲望する主体を愛することにほかならない。
 フロイトによれば自我は、悪いものを外へ排除し、いいものだけを内へと残す≪判断の主体≫だ。「いいもの」は自己を構成し、「悪いもの」は他者を構成することになる。そうして自我は対象を分割する。しかし、自我のこの機制そのものが、外に排除された他者を破壊するわけではない点に傾注すべきだろう。むしろ、外に排除されたものは、自我を内なる自己に自閉させず、外へと誘惑するのだから。ただし、この他者による誘惑には、暴力が孕まれている。自己を守るという自己保存の原則を遵守しようと思えば、他者は暴力誘発性の記号としか映らない。この暴力の扱いが焦眉の急を告げている。
 忘れてはならないのは、自我が自己と他者とを対象化し分割する≪判断の主体≫として働くことができるのは、それが言語的主体であるおかげだということだ。そして、自我は言語的主体になる以前から、愛を欲望する主体でもあることを思い出そう。この分裂した自我を、「いいもの」の対象である自己へと解消させるのが≪自己愛≫である。そうした主体は、自己と自己愛を維持し、それによって自我の分裂を隠蔽し続けるために、他者を破壊し続けなければならない。これは愛の対象が「私」に限定される、もしくは自我の分裂を「私」という人称によって隠蔽することによる人称的ナルシシズム(personal narcissism)と呼ばれる。人称的ナルシシズムは、言語的主体としての自我が、他者という不純物を除去した結果得られる自己という純粋な対象を限定的に愛することを通じて、自己に分裂以前の非言語的自我の完全性を幻視する。したがって、自己愛は慣れ親しんだ過去を再演し、その幻想の完全性にしがみつく。自己愛に自我の分裂を解消する。一方で、そのような自我は、不確かな未来を他者として排除するだけではなく、未来を破壊し、未知の知を憎む悪感情の発露となる。
 フィリップス/ベルサーニのいう「非人称的ナルシシズム」(impersonal narcissim)は、人称的ナルシシズムの暴力性を宙づりにする(克服したり昇華したりはしない)愛のかたちだ。それは、自己ではなく他者を愛する、というような単純な解決ではない。自他未分化の状態に存する欲望の主体にして自他を切り離す言語の主体でもある、といった自我の分裂そのものを愛する愛のかたちが、非人称的ナルシシズムだ。
 非人称的ナルシシズムは「暴力に訴えずにフラストレーションに耐える訓練」となる。というのも、自我愛は言語的実践によってなされる知の営みであり、自己愛の暴力性の根源である父(超自我)に由来する暴力性を昇華することなく、浪費するものだからだ。 
 本書の1章「わたしのなかのIt」で論じられているように、内的な愛の根源(欲望の主体としての自我)を言語によって外在化するItは、決してその内実を打ち明けられないまま、対話の相手である他者とのあいだに宙づりのままになる。言語でありながら、言語ならざる不純物を含むまるで自我のようなItを追いかけ続ける。他者の人称化、つまり、他者を具体的で確固たる不純物として同定することでその発揮を余儀なくされる暴力性を、主体は他者と共有する不確かなItの存在のため、まだ対象として不確かな他者に行使することを妨げられる。*2こうして、分裂した自我に対する愛は、誰のものでもない言語未満の言語Itを生みだし続ける実践を通じて反復され、自己保存とそれに付随する他者への暴力を回避し、主体、そして他者との関係を未決のまま未来へと先送りにする。*3
 かてて加えて、非人称的ナルシシズムが生み出す愛は、既知のものに向かうのではなく、いまだ知られざるもの、来るべきものという未来を志向するという意味において、無意識という未だ知られざるものに向かう知である。*4そして、知られざるものを愛する行為は、既知の対象に向かう超自我の暴力を空転させる。無意識の知は、対象をアンフォルムの状態のまま愛することを可能にする、あるいはそう銘じるマゾキスティックな知である。
 非人称的ナルシシズムとは、父からもらった言語を母を愛するために用いる、ということかもしれない。それは間接的に父を愛することにもなるのかもしれないし、捉えどころのない私をそのまま肯定するものなのかもしれない。ごく単純化してしまえば、これは単に感情的に愛するのではなく、感情的なものを知によって明らかにすることなく伝えるような知なのかもしれない。愛するということ、それ自体を学ぶ、ということかもしれない。
 本書に関連して、暴力ということで言えば、ジュディス・バトラーの一連の著作、新田啓子の親密圏についての論稿、メラニー・クラインのラディカリティを論じた遠藤不比等死の欲動モダニズム』を、非人称性ということで言えば、クィア理論、セジウィック村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて――クィア批評との対話』との観念連合が働くところ。愛に関しては竹村和子その他たくさん。

*1:文学系の論文でよく見かける錯誤。自我、主体、自己、対象、他者といった用語の運用上の混乱。

*2:暴力は自己から峻別された他者に向かう

*3:Itの発話は暴力の対象を常に見失い続け、暴力の行使を思いとどまらせる、マゾキズム以外のなにものでもない。

*4:Itがthe it、すなわち「エス」に対応していることは特筆しなければならない。