鑑別診断とあなたらしさを生きること

ラカンのわかりにくさを、度重なるラカン自身による精神分析のアップデートに求め、その十重二十重に仮設された言説群をひとつひとつ解きほぐし、撚れ・捻じれはそのままに、一本の経糸としてラカン思想を取り出して見せる労作。糸口となるのは神経症と精神病の別を判定する鑑別診断という問題系。以下、無手勝流のリーディング。
まずはわたし自身の印象をもとに、精神分析のおおまかなイメージをつかんでみよう。
人間のモデルを未病の神経症患者に求めたフロイトは、神経症と精神病とを鑑別したのち、治る見込みのある神経症患者だけを治療した。フロイトの代名詞、「エディプス・コンプレックス」は、神経症の心的構造を解釈する枠組みだった。精神病患者はこの原父殺しに端を発する物語のなかに居場所を持たない。
ラカンも基本線はフロイトと変わりない。言語のように構造化された無意識の(象徴界の)主体に働きかけることがラカン精神分析の基軸であり、大他者を欠きシニフィアンの連鎖から排除された精神病者は理論上の例外を構成する。エディプスの物語と去勢に始まるシニフィアンの運動からつまはじきにされた精神病患者は、並外れた人間、あるいは非‐人間という居心地の悪い場所にとどまり続ける。
だがわれわれにはドゥルーズ=ガタリがいた。この混声的批評家による精神分析批判は、精神病者の並外れた欲望を、普通の人間の欲望の配電図のなかに押しこめようとする暴力に向かった。ドゥルーズ=ガタリ神経症に代わり未病の「分裂病」を新しい人間のモデルに据え、(言語ではなく)欲望のレベルにおいて人間は、人間という概念そのものを解体していく存在であることを示した。これは一種の鑑別診断の否定だった。さらにはフェミニズム批評もここに重なる。ファルスをはじめとする男性中心主義的な精神分析な用語法、及びエディプスコンプレックスから排除された女性の不在を指弾するフェミニズム批評は、ヒステリー患者という女性表象をエディプスの男根主義的図式によって再生産する女性嫌悪の装置として攻撃した。さらにアメリカの自我心理学者やカウンセラーが事情を複雑化させる。父親に性的虐待を受けたとする幼女時代の記憶を患者に植え付け、父親を娘が訴えるという裁判が頻発した現象は、精神分析に対する悪評へと飛び火する。とどめに精神病理の世界において、精神疾患の症状を緩和、もしくは寛解に導く薬が登場し、病名のカタログに対応する薬の投与に終始する医療が進展している現状は、鑑別診断の放棄という問題を超え、精神分析をほとんど亡き者にするところまで脅かしている。精神分析の危機は、あらゆる角度から迫ってきている。
つい最近まで、精神分析に関する一般的な理解はおおむね以上のようなものだったはずだ。もしかしたら熱心なラカン読者は、並外れた欲望の世界に迫る晩年のラカンをそれ以前の言語論的構造主義ラカンから切り離し、前者の可能性を称揚していたかもしれない。だがそこでは、ジジェク等を経由して人口に膾炙した「サントーム」や対象aが、いわゆるシニフィアン鏡像段階といった批評理論の教科書に登場するタームとほとんど同時並列的に用いられる。まるで一貫した、全体化されたラカンの思想が存在するかのように圧縮されたラカンは、その難解さを語彙のレベルにとどめたまま、構造はいたってシンプルになってポピュラー化することになる。かくしてラカンの著作を十把一からげに扱う批評は、人間に意識できない無意識のすべてを、ひいてはあまねく社会や世界を、縦横無尽に解釈できる、機械仕掛けの神のような観すら呈することになった。この単純化こそラカンのわかりにくさの淵源である。
本書が鑑別診断に的を絞るのは、それが精神分析の中枢を貫く思想であると同時に、以上のような通俗的理解と衒学的かつご都合主義的ラカン主義者が犯している過誤を糺すうえでもっとも効果がみこめるテーマであるからだろう。まず鑑別診断の変遷を追うことで明らかになるのは、ラカンはひとりではない、ということだ。ラカンの思想を時期や概念に応じて切り分けながら相互に対決させる「ラカンラカン」と呼ばれるこの現代ラカン派による観測法は、ラカンのあらゆる著作を一貫したものとして扱う傾向に対する歯止めとなるだろう。だがこの「ラカンラカン」は鑑別診断においてのみ有効な方法ではなく、ほかのどのような概念においても見られる現象だろう。より重要なのは、鑑別診断という定点が、精神分析の哲学ではなく臨床における形式である、という点にある。ここで論じられるのはすなわち、ラカンに受け継がれたフロイトの鑑別診断という形式が精神分析という臨床の現場における試行錯誤の末に厳密さを増し、果てはその言語的形式を打ち破る、言語の「物質的次元」に至るまでの苦闘を明らかにするものだということだ。
鑑別診断は、神経症/精神病の別を診断する形式である。フロイトが臨床の場に持ち込んだ自由連想法と呼ばれる、患者自身が意識していない無意識のレベルを分析医が解釈していくプロセスは、神経症の患者の妄想を解釈する上で有効だった。しかし精神病の患者は分析医の知(無意識の世界を解読する力)を想定することができない。つまり精神病患者の場合、医者と患者の健全な転移関係が生まれないために、医者は無意識の主体としての患者と言語を介してうまく接することができない。それどころか、フロイトの臨床法では精神病患者をかえって悪化させてしまう可能性が高い。だからこそフロイトは治療を開始する前に鑑別診断を行ったのだった。つまり、神経症/精神病の区別こそが、精神分析の前提となる形式だということだ。
ラカンはこのフロイトの鑑別診断を引き継ぎながら、構造主義言語学を応用することにより、言語の働きを前景化したモデルを打ち立てる。このモデルはどのように神経症患者と精神病患者は異なっているのか、という鑑別診断を徹底するためのモデルだった。想像界象徴界現実界という三すくみの構造がある。言語獲得以前の前エディプス的母子関係を表す想像界、去勢後の痕跡である大他者(父の名という原シニフィアン)を中心にしたシニフィアンの連鎖が展開される無意識の主体の位相である象徴界、そして象徴界から予め排除された、言語モデルとして構造化されることのない残余の現実界フロイトの臨床の舞台となるのはこの中でも象徴界だった。ラカンはこの象徴界に大他者(父の名)が存在しているかどうかが、神経症と精神病の境目であると考えた。誤解を恐れずに短絡化してしまえば、精神病の患者の場合、母子関係に介入し、生まれる前からすでに存在する世界を受け入れるように迫る父が存在しないために、父に代表される自分とは異なる他者に由来するはずの知を想定できないということだ。だからこそ、精神病患者は治療できない。裏返せば、象徴界のなかに父の居場所が認められる神経症患者は治療できる。その父の場所を取り囲むシニフィアンを、父へと接続するように臨床の場で導いてあげればよいというわけだ。

しかしラカン神経症患者にも精神病患者と同様、臨床の場において症状を悪化させてしまう例を見出した。これは鑑別診断の失敗なのか、それとも鑑別診断の形式の不備なのか。そもそもフロイトやその他の精神分析医が報告している症例は、果たして正しく鑑別診断を行った結果なのか。過去の症例を詳しく見直していくうちに、ラカン象徴界を中心とした言語モデルを次第に疑うようになる。そもそも言語と同じように構造化された無意識という想定は無根拠な妄想なのではないか。いや、より正確に言えば、言語は言語によってしか説明できない、つまり究極的な意味を欠いている以上、言語の究極的な支えとなるものは欠けている、その欠如を妄想によって補うことによって人は生きているのではないか。その意味で、神経症にも精神病にも大他者は等しく存在している。ただしその大他者は失調している。人間が生まれる前から存在しており、そこへの適応を期待される象徴界の秩序は予め破たんしている。そのため、この破たんを覆い隠す妄想の用い方が神経症と精神病とを分けるのではないか。症状を説明することに重きを置く限り、父性的存在の失調を反復することになる。重要なのは症状を言語のモデルに解消することではなく、言語の向こう側に、言語からつまはじきにされている領域にある症状と患者の生とを妄想によって接続することではないだろうか。この世は狂っている。この狂った世の中にどのようにして適応するのか、その方法こそが問われることになる。この時点で、ラカンは無意識の主体としての患者の位置を修正する。患者は、狂った大他者の欠如を埋める欲望や妄想の主体となる。すなわち社会への適応の方法を知っているのは患者自身に他ならない。ただ患者自身がそのことを知らない、あるいは容認できないだけなのだ。かくしてこの世界に欠けているものをそれぞれのやり方で埋める方法を患者自身がすでに知っている、患者はすでにこの社会に適応しているということを患者自身に認めさせることが治療のゴールとなる。それは患者ひとりひとりの特異性、類例のない妄想や欲望を、患者自身が認知し、症状そのものを患者自身の特異な生として生きるということだ。
あなたはすでに社会の中に生きている。すでに社会に適応し、あなただけの居場所を持っている。それは社会が求めるような規範的な適応の仕方ではないのかもしれない。しかし社会のあり方自体が欠如を抱えた歪んだものである以上、あなたの適応の流儀にみられる逸脱は、この不完全な社会を考えるためのヒントになる。あなたの抱える妄想は、社会の壁龕にはめ込まれたあなたなりの生の証しなのだ。特異な生を認めること、その特異な「あなたの」生の主体となることがあなたには必要だ。規範的な共通言語や欲望に自分を再適応させるのではなく。
それでもなお臨床において鑑別診断が必要とされる理由はなんだろうか。一般化を拒む特異なシニフィアンにケースバイケースで対処する以上のことがなぜ必要なのか。なぜ神経症と精神病という古めかしい区分を、なお現代ラカン派は手放さないのだろうか。
それはおそらく欲望や享楽の次元にたどり着くためには、それでもなお言語が必要だからだろう。示差的な一般言語の運動のみが、特異なシニフィアンの所在とその機能を際立たせるからだろう。ただし言葉は選ばなくてはならない。鑑別診断とは、言語を用いて言語の物質的様相を探り当てる以前に、どのような種類の言語を用いるのかを決める、道具選びの予備的段階だと言えるだろう。解釈不可能な症状は、適切な言葉を探針として用いる限りにおいて浮き彫りになる。この意味で、精神分析は解釈を放棄したわけではない。鑑別診断という予備的な解釈によって選ばれ担保された分析の言語だけが、患者を分析の主体として構成できる。ちょうどジョイスの特異な言語の理解しがたさが、読者の知りうる言語による解釈の挫折を通じて理解されるように。解釈が硬い岩盤にぶつかって撥ね付けられるとき、分析家の言語はその核を包むために変質を余儀なくされる。精神分析は、言語の通時態を変質しながら生き延びてきた。脱構築は二項対立を突き崩すためのたんなる方法ではない。それは言語の限界を知りながらも、敢えてそれを信じる、信じすぎてしまうような情熱である。精神分析が生き延びるとすれば、鑑別診断という枠組み、その境界画定による限界の設定を墨守しながら、それでもなお限界を突破し続けるような臨床の言葉を探す営み、としてだろう。
かくして鑑別診断はひとつの思想となる。決して既知の言葉では間に合わない、臨床という試練にさらされ、撚れて捻じれて何度も切れそうになりながら、それでもなお連綿と紡がれてきた一本のしぶとい糸として。