答えではなく問い

 もろもろ。弁当。
 雷がごろごろ。そういえば、先日、目の前のマンションの避雷針に雷撃が続けざまに加わるのを目撃。落ちる瞬間をあんなにはっきり見たのは初めてのような気がする。我が家に避雷針が立っているのかどうか、急に気になったり。最近、雷多いなあ。
 オダユージ、胸開きすぎ。お茶の間気分か。

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

 2章から格段に難しくなる。本気出されるときついなあ。
 2章。大(文字の)他者のなかの欠如と主体の分裂。大他者の他者は存在しない。対象aは、主体が自らを欠如として大他者に向けて差し出す「責任ある主体」として現れるとき、主体の欠如を代理する。

対象aは、主体が見出さなければならないが、もはやいかなる意味においても再発見されえない彼の存在の真理を、その不在のまま印づけるものとして現前するだろう。

 主体の真理(欠如)と大他者の真理(欠如)に対象aという真理値が与えられるか否かは、主体の欲望にかかっている。主体の欲望が大他者の欲望を追い越すことができるか否か。

ラカン現実界の非決定を強調するのは、現実界との関係における主体の位置そのものが非決定であると主張するためではない。そうではなく、ラカンは、主体が、大他者の中の非決定を前にして、それでも自らの真理=原因を引き受けねばならない、すなわち、それでも自らを決定しなければならない、そうした圧力に晒されていると主張しているのである。

わかりやすい。

 サド=カントの事例を使って、大他者の享楽の道具となる主体について論じた第3章。欲望の対象としての対象aは、主体によって欲望されることで欲望の原因(それ自体が欲望されているわけではないが、それにもかかわらず、欲望が支えられるために、欲望の地平線上に現前していなければならない対象)を遡及的に打ち立てる。原因を空間的にではなく、時間的に捉えるということ。ニーチェの「力への意志」を擬した「(快原理の彼岸、すなわち現実界に垣間見られる)享楽への意志」は、対象aの「対象」と「原因」との間の断絶に芽生える。「享楽への意志」の道具としての対象a

無意識の主体(欲望する主体)とは、言語によって構造化される代償として自らの存在を失った主体であり、対象aはなによりもその主体の失われた存在の肩代わりをすべく幻想に介入してくる。それゆえ、幻想という欲望の回路のなかに、欲望する主体の位置が書き込まれるのは、つねに対象a、すなわち享楽の「道具」としてなのである。

しかし、S(快の原生主体)は対象aを介して快楽に服従する。享楽への意志は、主体に享楽をもたらさない。主体が幻想において構築する回路によって享楽するのは、大文字の他者。幻想は主体よりもむしろ大文字の他者を利する。ということは主体は欲望の回路において疎外されているということ。
 

「人の欲望は大文字の他者の欲望である」というラカンのテーゼは、たんに主体の欲望が他者からやってくるということを意味するばかりではなく、さらにまた、一段高い水準において、主体の幻想の中に含まれる享楽を手に入れるのは大文字の他者である、ということを示唆してもいる。

 だから、精神分析が目指すのは、大文字の他者の享楽の道具としての主体を解き放つこと。幻想における主体=対象aが、大文字の他者の享楽の道具として固定されるのではなく、「失われた対象」、喪失としての対象aを取り戻すこと。ジジェク『快楽の転移』所収の「不在の超自我」、特に122-24がこの辺の説明としてはより鮮やか。