鏡のなかのヨーロッパ、あるいは『ジョヴァンニ・アルノルフィニの結婚記念の肖像』

鏡のなかのヨーロッパ―歪められた過去 (叢書ヨーロッパ)

鏡のなかのヨーロッパ―歪められた過去 (叢書ヨーロッパ)

 ヨーロッパについて語る方法は大きくふたつに分かれる。
 ひとつはギリシャ・ローマ起源に依拠して、ヨーロッパの本質的軸索を剥き出しにしようと目論むもの。もうひとつはヨーロッパとは異なる異文化との接触に焦点を当て、文化変容(aculturation)と文化越境(transculturation)によるヨーロッパの自己成型(self-fashion)のダイナミズムを劇化するもの。前者をヨーロッパ例外主義型、後者をポストコロニアル型とひとまず呼ぶことができるだろうか。
 フォンターナの採る方法は、これらふたつとは一線を画す。
 本書では、9つの鏡が各章を構成するライトモチーフとして使われている。
 ラカン鏡像段階ナルキッソスの図像といったアカデミアの言説を並べるまでもなく、鏡は自分を見るために使われる、ひいては鏡がなくとも自己の姿を思い描くことができるようにする衣裳道具、というコンセンサスは容易に得られるだろうと期待する。しかも鏡は自己参照機能を携えるに止まらず、それ自体命題的でもある。すなわち、白雪姫の「鏡よ鏡」に明らかなように、鏡は真実を暴きたてるものである一方、偶像崇拝に抵触するような虚像を映すものの謂いともなる。鏡は像の獲得に係わるだけではなく、獲得した像に真か偽かの問いを突きつける契機を呼びこむというわけだ。
 カヴァーにファン・アイク作『ジョヴァンニ・アルノルフィニの結婚記念の肖像』を戴く本書の企図は明快だろう。まず指摘すべきは、その肖像画の中央奥に位置する鏡には画家その人の姿が映っている、という点だろうか。夫婦の肖像画にそれを描く人の痕跡が入りこむこと、そして見られたものに見る者が映りこむこと。遠近法はある距離を人為的に作り出すことによって見る主体と見られる客体を分け隔てる。表象はかような安全な距離を前提としている。であるなら、表象を作り出す側が表象のなかに紛れこむとき、それは画家本人の自己顕示的行為という楽観的な解釈と共に、その安全な距離の霧消、という表象の不安を予告するだろう。
 『肖像』で主役を食うほどの存在感を発揮している鏡が凸面鏡である、という情報をつけ加えれば、フォンターナの企みの効果はより迫真性を増すだろう。凸面鏡は古来よりヨーロッパで「悪魔の尻」と忌み嫌われていた。それは真実を歪める。*1パルミジャニーノの自画像をも想起させる凸面鏡の歪み。画家と対象とのあいだの距離の喪失、すなわち両者の表象における共存を鏡の歪みと共に刻印する『肖像』は、フォンターナの歴史叙述をどんな言葉よりも雄弁に物語っているだろう。
 果たしてフォンターナの論じる「他者」は、異なる文化同士の接触や、文明と未開との遭遇として物語化されたものではない。他者は自己の周縁や末端において出会うものではない。予め自己という表象が、あるいはこう言ってよければ、自己という幻想が生まれるときには、必ずその像に他者の徴が紛れこんでいる。他者を表象するとき、自己像もその渦へ否応なく巻き込まれる。歪みとして。自己であろうと他者であろうと、それらの像は必ず歪みを伴った表象であり、かつ両者が互いに縺れながら同じ時空間に顕れるからこそそれらの像は歪んでいる。
 歪みは「悪い」ものではない。表象の本質はそれを不可避的に襲う歪みであり、裏を返せば表象は必ず歪んでいるからこそ退屈な現実よりも遥かに多様な像を映しだすことができる。フォンターナの狙いは、表象の嘘を暴きたてることにではなく、その多様性や展性を引きだすことにあるように思う。田舎もの、群集、そして民衆を「無知なもの」として表象する「知性主義」に抗って。

同化・均質化プログラムを伴った「近代化」は、農村及び都市の民衆共同体文化の豊かさの、かなりの部分を破壊した。そしてこれを生き延びることのできたわずかなものは、マス・コミュニケーション・メディアの均質化作用によって、事実上根絶やしにされてしまった。


 近代化は、距離をとることの困難をもたらした。この時代に客観的記述を標榜することは、主観的記述のそれと同程度に幻想であり、さらにいえば、主観よりもずっと面白味に欠ける幻想だろう。ただ近代のプロジェクトの上書きを続けるだけなのだから。
 フォンターナが、カントの警句をひいて、「現在の歴史家のかなりの部分が、面倒な問題を避け、当の学者仲間にだけしか関わりのないような問題を議論する、机上の学問世界に閉じこもっている」というとき、彼自身、彼が表象している民衆の雑踏のなかにいる。表象するものが表象のなかにいる。それは歴史の正統化でも歴史家の表象でもなく、歴史における歴史家の「現われ」(presentation)と同義だというのは言い過ぎだろうか。そう考えると、『肖像』の凸面鏡がフォンターナの眼、ただし彼の歪んだ眼に見えてきて、不意に愉快な心地に包まれた。 

*1:私の知る限り、平面の鏡は大変高価なものだった。平面の鏡は地位や権威と結びつく。凹面鏡のほうがより真実に近いものを映すとされた。特に黒い凸面鏡はことごとく歴史から消え去り、ウォルポールのようなコレクターの手中に収まらない限り現存していない。http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/V/vanEyck/Arnolfini.htmによれば、店舗の防犯上の理由から凸面鏡が使われた、と言及しているがどうだろう。宿題。